王湛   王渾の弟

文字数 3,136文字

王渾(おうこん)の弟、王済(おうさい)の叔父。
そして東晋(とうしん)建立第一功である、王承(おうしょう)の父。
それが王湛(おうたん)という人だ。

かれは父の喪が明けても、
そのまま墓所にとどまった。
そのような振る舞いから、
うだつの上がらない人と思われていた。

王済が祖父母の墓に参拝する時、
このぼんやりした感じの叔父には
ほぼノータッチでいた。
それは王湛からしても同様。

かろうじて時節の挨拶が
あるかないか、という程度だ。

が、王済。ふと気になり、
敢えてこの叔父に話しかけてみる。

するとどうだ、めっちゃ知的だし、
はつらつとした語り口ではないか。

えっちょっと待って?
王済ビビる。
なので、本腰入れて会話してみる。
そしたら、やっぱりすごい。

王済、これまで王湛に
叔父に向けてする礼儀など
まるで払ってこなかった。
うわあ、なんてこったい!
王湛の前ではだらけ切っていた心身が、
シャキッと伸びる。

そこから王済と王湛、話し込んだ。
何日も、何日も。

王済自身も優れた人間ではあったが、
話しているとわかる。
おれでは、この方にまるで敵わない。

「我が家にこれほどの名士がいると、
 三十年もの間知らずにおったとは!」

王済が帰ろうとした時、
王湛、墓の入り口まで見送った。
そこには召使いが待っていた。

かれらが連れてきた馬の中には、
乗りこなすのが大変な馬がいた。

お、そういやうちの叔父どの、
トークはすごかった。
けど、騎馬の腕前はどうなんだろね?
いくら弁舌に長けてたって、
馬に乗れなきゃダメダメでしょ!

そう思い、王済、王湛に聞く。

「馬はお好きですか?」
「そうだな」

そう言って例の馬を
引き合いに出してみれば、どうだ。
あっさり乗りこなすわ、
もう始めっから彼のための
馬だったかのように手懐けるわ。

一瞬で悟る。かの馬を、
王湛以上に乗りこなせるものはいない。

オウファッキンファック、
王済、まるで王湛の才能を
見抜けていなかったことに
更にショックを受ける。

何日かぶりに帰宅した、王済。
心配したパパの王渾が訪ねた。

「お前、何日もどうしたんだ?」

すると王済は答える。

「私は、初めて我が家に
 偉大な叔父がいると知ったのです」

えぇ、どゆこと、どゆこと?
王渾、王湛の才能を
知っていたのか、どうか。

「やつは、わし以上なのか?」

王渾が問うと、王済、直接は答えない。

「少なくとも、私よりは上でした」


少し時系列が遡る。
王済、出仕した時、
ちょくちょく武帝司馬炎(しばえん)さまから

「君んちのぼけおじさん、
 死んじゃったかな? どうかな?」

と、からかわれていた。

いやあんなぼけぼけのことなんて
私が知るはずないでしょうよ、
これまで王済、ずっとその質問を
シカトしてきていた、のだが。

ある日武帝さま、いつものノリで
例の質問を決めてくる。

すると王済、やおら反論する。

「臣の叔父上は、
 ぼけではございません!」

おおう、なんだよいきなりの様変わり。
だが武帝さま、すぐ気を取り直し、
王済に質問した。

「そうなのか。
 では、どういうレベルの人物か?」

王済は答える。

山濤(さんとう)様……とまでは
 言い過ぎでありましょうが、
 少なくとも、魏舒(ぎじょ)様以上です」

こうして初めて武帝さまの
目に留まった王湛、28歳にして、
初めて仕官するのだった。



 王汝南既除所生服,遂停墓所。兄子濟每來拜墓,略不過叔,叔亦不候。濟脫時過,止寒溫而已。後聊試問近事,答對甚有音辭,出濟意外,濟極惋愕。仍與語,轉造清微。濟先略無子姪之敬,既聞其言,不覺懍然,心形俱肅。遂留共語,彌日累夜。濟雖俊爽,自視缺然,乃喟然歎曰:「家有名士,三十年而不知!」濟去,叔送至門。濟從騎有一馬,絕難乘,少能騎者。濟聊問叔:「好騎乘不?」曰:「亦好爾。」濟又使騎難乘馬,叔姿形既妙,回策如縈,名騎無以過之。濟益歎其難測,非復一事。既還,渾問濟:「何以暫行累日?」濟曰:「始得一叔。」渾問其故?濟具歎述如此。渾曰:「何如我?」濟曰:「濟以上人。」武帝每見濟,輒以湛調之曰:「卿家癡叔死未?」濟常無以答。既而得叔,後武帝又問如前,濟曰:「臣叔不癡。」稱其實美。帝曰:「誰比?」濟曰:「山濤以下,魏舒以上。」於是顯名。年二十八,始宦。

 王汝南の既に生まる所が服より除せられるに、遂に墓所に停む。兄が子の濟の墓に來拜せる每、略や叔を過ぎらず、叔も亦た候わず。濟の脫せるに時に過ぐらば、止ぼ寒溫したりて已む。後に聊さか試みに近事を問わば、答對に甚だ音辭有り、濟が意の外に出づらば、濟は極めて惋愕す。仍りて與に語らば、轉た清微なるに造る。濟は先ごろ略ぼ子姪の敬無かりせど、既にして其の言を聞かば、覺えず懍然とし、心形は俱に肅す。遂に留まり共に語らわば、日を彌り夜を累ぬ。濟は俊爽なると雖も、自ら缺然たりと視、乃ち喟然と歎じて曰く:「家に名士有るを、三十年せど知らざりしか!」と。濟の去れるに、叔は送りて門に至る。濟が從騎に一なる馬有り、絕だ乘るに難なれば、能く騎る者は少なし。濟は聊さか叔に問うらく:「騎乘を好めりや不や?」と。曰く:「亦た爾れるを好まん」と。濟は又た難乘馬に騎せしまば、叔は姿形は既にして妙、策を回らすこと縈なるが如し。名騎も以て之に過ぐる無し。濟は益ます其の測れるの難、復た一なる事には非ざるをに歎ず。既に還ざば、渾は濟に問うらく:「何ぞを以て暫し累日を行かんか?」と。濟は曰く:「始めて一叔を得たり」と。渾の其の故を問うに、濟は具さに此くの如きを歎述す。渾は曰く:「我とでは何如?」と。濟は曰く:「濟以上の人なり」と。武帝は濟の見ゆる每、輒ち湛を以て之を調えて曰く:「卿が家の癡叔は死にたりや、未だなりや?」と。濟は常に無を以て答えとす。既にして叔を得らば、後に武帝は又た前の如きに問い、濟は曰く:「臣が叔は癡ならず」と、其の實美を稱う。帝は曰く:「誰ぞに比ばんか?」と。濟は曰く:「山濤以下にして、魏舒以上なり」と。是れに於いて名は顯る。年二十八にして、始めて宦ず。

(賞譽17)


世説新語の中で、もっとも本文が長い条。まぁ劉孝標(りゅうこうひょう)注まで加味すると全く話が変わってくるんですけど。ともあれ、なんでこんなに王湛さんのこと上げまくってんのかなーって思ったんですが、本文にも書いた通り東晋の元勲第一位である王承のパパだもんね、アゲないわけにはいかんでしょう。

それにしてもこの話、以前武帝さまやってた時にゃ「なんだこの無駄に長ったらしいけど内容のない話は」って思ったんですが、今読み返すとあれですね、無駄に長ったらしくて内容が無いよう!

はいじゃあ気を取り直して、せっかく最長エピソードに接したんです。この世説新語における本編の文字数、てきな話もしちゃいましょう。ベスト20を調べてみたら、以下のようになりました。

1  賞譽17 283
2  任誕41 262
3  文學53 210
4  惑溺 5 201
5  自新 1 192
6  方正23 189
7  雅量18 189
8  任誕30 186
9  假譎 6 186
10 賢媛19 176
11 言語 9 174
12 識鑒 3 170
13 賞譽20 169
14 文學55 165
15 任誕38 165
16 賢媛 6 164
17 賢媛18 164
18 汰侈 5 161
19 假譎10 158
20 文學22 157

三位以下を圧倒的に引き離す一位、二位。なんだこれ。
なおもう少し文字数について書くと、

最長 282 で最短 8。
平均値 54 の中央値 45。

はえー、しゅごい。



魏舒
山濤が司徒(三公)になった直後に死亡、その後を引き継いで司徒になった人。なんか薄らぼんやりとした人だと思われてたけど鍾会(しょうかい)さんの兄貴、鍾毓(しょういく)さんにその弓矢の腕前を認められて抜擢された、みたいな逸話が残っています。立身出世のルートが王湛さんそっくりなところを見ると、この辺は後日の付け足しなんでしょうねー。
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