郗曇   鼎の軽重を問う

文字数 1,090文字

郗鑒(ちかん)さまの息子にして郗愔(ちいん)の弟にあたる名士、
郗曇(ちどん)謝安(しゃあん)さまに宛てた手紙の中で、
王濛(おうもう)の息子、王脩(おうしゅう)について書く。

「あるちびすけが、
 (かなえ)の軽重が問われている、
 と言っていたそうですよ。

 さてこれは、司馬昱(しばいく)さまの徳が
 衰えられた兆しなのでしょうか。
 そのせいで桓温(かんおん)どのの台頭を
 許してしまっている、といったような。

 それとも『論語』に載るがごとく、
 後生(ごしょう)畏るべし、ということで、
 ちびすけの話は話半分に聞いておけ、
 という事なのでしょうかね」



郗重熙與謝公書,道王敬仁:「聞一年少懷問鼎。不知桓公德衰,為復後生可畏?」

郗重熙は謝公に書を與え、王敬仁を道えらく:「一なる年少、鼎を問えるを懷うと聞く。桓公が德の衰えたるを知らざるや、復た後生畏るべしと為さんか?」と。

(排調39)



この話、だいたいのご本では「桓公」を春秋五覇、斉の桓公に比定し、そこから謝安さまに結び付けています。ただこのもってき方には問題があって、王脩が生きていたのは 334 -357 で、謝安が「桓公」、つまり政権の第一人者になったのは 373 年です。王脩は謝安が「桓公」になったことを知りません。

まぁただ、そうするとこの時代で「桓公」と呼ぶべきは司馬昱と桓温のどちらになるんだろうね、となってしまう。その辺をちょっと探ってみます。


鼎の軽重を問う
鼎とは、()の時代より代々伝わってきた、(しゅう)王朝の権威を象徴した器。その周も時が下ると権威が衰え、南の大国、楚に大いに脅かされていました。あるとき楚王はわざわざ周の都近くでの閲兵を行います。言い換えれば示威行動です。

お前、何してんだよ。周王が遣わせた使者にそう聞かせると、不遜に楚王は答えています。鼎とは、果たしてどれほど重いのだ? と。周の権威なぞどれほど重いんだ、と言い返した感じです。

となると「楚」の者が「権威を軽んじた」となるでしょうか。

そこから転がすと、郗曇は「桓温(西府、つまり楚に拠点を置いていた)が司馬昱(当時は撫軍大将軍、皇帝を大いに補佐するという、一応周を建てる名目であった春秋五覇の立ち位置に最も近い人)の権威を奪い取ろうとしていた」と考えており、それを王脩の言葉に仮託した、となりそうです。

上にも書きましたが、王脩は王濛(おうもう)の息子。「簡文帝のぐずぐずした采配のせいで寿命を縮め、簡文帝を恨みながら死んでいった」王濛の。ポジショントーク的には「司馬昱クソ」という気持ちを持ちやすいと思われても仕方ない人物です。

後生おそるべしについては「こーのおませさんがっ☆」くらいのニュアンスしか感じないんですけど、どうなんでしょうね。ほんによくわからんことだらけの条だなあ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み