孫策2 おれが孫策だ
文字数 1,139文字
東晋末の名士、殷仲文。
それなりに名声も博していたので、
もしかして俺、東晋の宰相にすら
辿り着けるんじゃね? と触れ回っていた。
が、そんな彼に提示されたのは
東陽太守の地位。
建康から見て南東にある大都市、会稽から
更に山間に入って行ったところの町だ。
要するに、ど田舎である。
えっちらおっちら東陽に向かう殷仲文。
旅程も三分の二、富陽の町に差し掛かる。
ここで、がっくりと嘆息しつつも、言う。
「山川の様子から察するに、
きっとこの辺りから孫策の再来が
現れることだろうな!」
殷仲文既素有名望,自謂必當阿衡朝政。忽作東陽太守,意甚不平。及之郡,至富陽,慨然嘆曰:「看此山川形勢,當復出一孫伯符!」
殷仲文は既にして素より名望を有し、自ら謂えらく「必ずや當に朝政の阿衡たるべし」と。忽ち東陽太守と作れるに、意は甚だ平らかならず。郡に之きたるに及び、富陽に至るれば、慨然し嘆じて曰く:「此の山川の形勢を看るに、當に復た一に孫伯符は出でるべし!」と。
(黜免9)
阿衡
殷の創立者、湯王をよく補佐した大宰相伊尹がついていた官職。丞相とか相国を言い換えたものだ、と思えばよい。
殷仲文
東晋を簒奪した桓玄の属領だったが裏切り、許された。のだが、このエピソードにもある通り中央の顕職ではなく、地方官としての配属となる。このことを深く恨み、乱を起こそうとしたが失敗し、殺される。
ちなみに富陽辺りって、やっぱり前エピソードに書いた劉繇の勢力圏だった。「そこから孫策が出る」と殷仲文は言い放つわけだが、当時の権力者は「劉」裕。ええ後の劉宋武帝です。つまり殷仲文の発言について解釈すれば「俺が劉氏を倒してみせるぞ」ってなるんです。何と言うか、お前さん言うねェ、さようなら、って感じだ。劉裕とか当時で一番敵に回しちゃいけない人ですよ……。
※自分の推しメン劉裕の名前が出てきたので、ちょっと書く。世説新語の編者劉義慶は劉裕の甥にあたる。劉裕とは、かれにとり大切な親族であり、かつ当時のもっとも尊ぶべき存在であった。そのためだろう。劉裕、この世説新語、即ち歴史的人物をモチーフにしたフィクショナルストーリーたちから、徹底して避けられてる。至尊を軽々に取り扱わない、といった文化由来なんだろうね。劉裕の活躍してる時代も扱ってるわけだし、今の感覚から言うと劉裕のエピソードが、それこそ謝安以上に載っててもおかしくないのになー、って感じなんだけど。つーかそうじゃないから劉裕さま宋書からしか探れなくて寂しい。以上うらみごとでした。
※後日の更に注。この世説新語、実はけっこう散逸が激しいらしい。そして散逸された中には劉裕のことが書かれている条もあったらしい、とのことである。それにしても散逸してない部分にほとんど残ってないのは不思議です。
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