温嶠5  特例措置

文字数 860文字

温嶠(おんきょう)は、劉琨(りゅうこん)から勧進を
建康(けんこう)にもたらす任務を引き受けていた。

勧進とは、劉琨をはじめとした
西晋(せいしん)系の配下の連名による、
司馬睿(しばえい)への皇帝即位の為の推薦状だ。

この頃劉琨は、
しきりに石勒(せきろく)に攻め立てられ、
もはや風前の灯火。

ここで旅立てば、
今生の別れとなるかもしれない。

母の(さい)氏、温嶠に旅立ってほしくない、
と懸命に取りすがる。
しかし温嶠、袖を断ち、旅立った。

東晋入りした温嶠は功績を重ね、
トップ貴族の仲間入りをするのだが、
故郷に置いてきた母の
葬儀を果たせていない、
すなわち「不孝」である、と、
貴族の家門グレードである郷品を
低く抑え込まれていた。

九品官人法により、
本来郷品の低い貴族は顕職につけない。
なので、温嶠の出世には、
毎回詔勅による特例措置、
と言う扱いがついて回るのだった。



溫公初受劉司空使勸進。母崔氏固駐之、嶠絕裾而去。迄於崇貴、鄉品猶不過也。每爵、皆發詔。

溫公は初に劉司空の勸進せしむるを受く。母の崔氏は固く之を駐めるも、嶠は裾を絕ちて去る。崇貴なるに於いてまで、鄉品は猶お過ぎざるなり。爵の每に皆な詔を發す。

(尤悔9)



温嶠
官僚としての印象が強い人物であるが、劉琨に従い石勒と戦ったりもしている。劉琨は敗色濃厚を悟ると温嶠を使者として司馬睿の元へ派遣。劉琨の敗死や西晋の滅亡を受け、司馬睿に仕えることとなった。そして司馬睿を帝位に推戴。しかし東晋は琅耶(ろうや)王氏の権勢が非常に強く、王敦(おうとん)の乱に代表されるように、司馬氏と王氏の対立が生じていた。ここで温嶠は折衝役として振る舞っている。その後の蘇峻(そしゅん)の乱でも陶侃(とうかん)と結び平定の道筋を作るなど、東晋百年の真の功労者と呼ぶべきであろう。

劉琨
晋国属として鮮卑(せんぴ)拓跋(たくばつ)部と結び、劉淵(りゅうえん)と戦った。西晋崩壊後も勢力を保ち、戦いを継続する。後漢皇族の末裔、平時の能吏と割と主役キャラなのであるが、五胡十六国を代表する暴風雨たる石勒の前では噛ませ犬扱いにならざるを得なかった。ところで後に大いに石勒を悩ませる事になる武将、祖逖(そてき)と同室で寝ている(意味深)エピソードがある。いかがですか。

相変わらずの前提知識多すぎ問題。
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