羊孚3  桓玄に見える

文字数 1,583文字

孫恩(そんおん)の乱の混乱に乗じて
建康(けんこう)に攻め上がってきた、桓玄(かんげん)

この時、羊孚(ようふ)兗州別駕(えんしゅうべつが)
建康の北西周辺辺りのエリアに
勤務していた。

桓玄が来たと聞くと、
羊孚は早速その陣地に訪問し、
手紙を渡す。
そこにはこのように書かれていた。

「ここしばらく世相が
 ひどく乱れておりましたることに、
 思い悩んでおりました。

 しかし明公がこの鬱屈した情勢に
 曙光をもたらしてくださいました。

 あぁ、源流が清められれば、
 そこから派生する百の流れも
 また澄み渡って参りましょう!」

桓玄、その手紙を読み、
すぐさま羊孚を目の前に連れてくる。
そして言うのだ。

「羊孚、あぁ羊孚殿よ!
 ようやく来てくれたか!」

そうして、すぐさま秘書に取り立てた。

やがて桓玄は都を守るべきはずの将軍、
劉牢之(りゅうろうし)の寝返りを得て、都を陥落させ、
晋朝の第一人者となる。

その後劉牢之については
「寝返った者は信用できない」
という事で左遷。

これに怒った劉牢之は反乱を企てたが
ついてくるものは誰もおらず、
逃亡の末、自殺した。

劉牢之の配下は多く粛清されたが、
事務官の一人であった孟昶(もうちょう)は、
羊孚の元に出向いている。
そこで、こう謝罪している。

「羊孚様、羊孚様!
 あなた様のことを、
 多くの民が頼りにしております」



桓玄下都,羊孚時為兗州別駕,從京來詣門,牋云:「自頃世故睽離,心事淪薀。明公啟晨光於積晦,澄百流以一源。」桓見牋,馳喚前,云:「子道,子道,來何遲?」即用為記室參軍。孟昶為劉牢之主簿,詣門謝,見云:「羊侯,羊侯,百口賴卿!」

桓玄の都に下れるに、羊孚は時に兗州別駕たれば、京より門に詣で來たり、牋して云えらく:「頃より世故は睽離にして、心事は淪薀たり。明公は積晦に晨光を啟き、百流を澄ますに一なる源を以てす」と。桓は牋を見、馳せて前に喚びて云えらく:「子道、子道、何ぞ遲きに來たるや?」と。即ち用いて記室參軍と為す。孟昶は劉牢之の主簿たれど、門に詣で謝し、見えて云えらく:「羊侯、羊侯、百なる口が卿を賴りたり!」と。

(文學104)



羊孚
この苗字が示す通り、かの名将羊祜(ようこ)の宗族です。桓玄さんの幹部の立場のまま死んだらしい。なお親族の羊欣(ようきん)は劉宋の文官として活躍してる。桓玄まわりは意外と劉宋の中で働いている人も多い。

劉牢之
謝玄(しゃげん)の部将として淝水(ひすい)の戦いで大きく名を上げた。謝玄亡き後の混迷する北府軍中において、大佞臣司馬元顕(しばげんけん)の力を借り、北府軍トップに辿り着く。しかし力を借りた相手が悪すぎた。東晋軍中、東晋宮中から総スカン状態となる。そこに忍び寄ってくるのが桓玄である。「お前司馬元顕の下にいたらジリ貧だけど大丈夫? ヤバくね?」と囁いてくる。焦った劉牢之はその口車に乗り、司馬元顕を裏切り、桓玄につく。しかしそこで桓玄の掌返しに遭い、追い詰められ、自殺。東晋宮中にしかいないのに「翻弄」カテゴリに入れたくすらなってしまう。一般評は度々裏切った卑怯者だが、単に立ち回りが下手くそであっただけとしか思えぬ。ところで後に宋を開く劉裕(りゅうゆう)は、この人と同郷劉姓である(親族ではない)。そのためもあり、おおいにかれに引き立てられた。劉牢之のしくじり先生っぷりは、劉裕の立ち回りに多大な影響を与えたことであろう。

孟昶
劉裕と共に桓玄打倒に立ち上がった一人。なおその時の立場は劉裕の副官。劉裕が南燕征伐を立案した時、人々が反対する中、孟昶は賛同。これによって劉裕が北への遠征に乗り出したのだが、その隙を狙って、南から五斗米道軍が攻め込んできた。その猛攻を防げる者たちはおらず、結局都近くにまでの侵攻を許してしまう。「私が劉公の北征に賛成しなければ」と恥じ入り、服毒自殺した。

ちなみに、劉裕もまた、いちどは桓玄に対して恭順の意を示している。これがポーズだったのか様子見だったのかはよくわからないが、ともなればほぼ同一のラインにいる孟昶が恭順の意を示しているのは妥当な流れではある。
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