桓沖3  挽歌を耳にす

文字数 1,513文字

時期は明らかにはなっていない。
が、おそらく桓温(かんおん)さまが
亡くなった直後のことなのだろう。

張湛(ちょうたん)、と言う人が、酒の席で挽歌、
つまり、死者を弔う歌を歌った。
それは、甚だ哀切に満ちたものであった。

それを聞いた桓沖(かんちゅう)さん、
ついコメントする。

「きみは田横(でんおう)の配下でもあるまいに、
 何故そのように歌えるのだ?」

桓沖さん、
思わず眉間をつまむのだった。



張驎酒後挽歌甚悽苦,桓車騎曰:「卿非田橫門人,何乃頓爾至致?」

張驎の酒せる後に挽歌せるの甚だ悽苦たれば、桓車騎は曰く:「卿は田橫の門人に非ざるに、何ぞ乃ち爾く頓せるに至致せんか?」と。

(任誕45)



さて。

劉孝標(りゅうこうひょう)は「何やねんこの条」って首ひねってる。本文中に出てくる田横のことを引いてエピソードの解説を試みようとしているのだが、書けば書くほど迷路に嵌っている。

同じく箋疏も頑張って挽歌の解説をしようとしているのだが、「挽歌」の存在がイレギュラーであることを解説するまでにとどまっている。書経にある一文「葬儀に音楽は存在すべきではない」を引き、えっじゃあ挽歌ってどうカテゴライズすべきなの? と混乱の極致に陥っている。「なんで桓沖が挽歌にコメントしているのか」と言う部分に全然辿り着いてない。

いやさ、これ、桓温さまのこと大っぴらに弔えません、って話でしょ。

田横。戦国七雄、斉王の末裔。楚漢争乱のさなかに斉王として立つことになったのだが、最終的には劉邦(りゅうほう)に敗北、降伏。しかし田横は劉邦に臣下として仕えることを良しとせず、自殺した。

田横の配下は、劉邦に田横の首を献上する役目を負った。いまとなっては田横は「自殺した反逆者」であり、大っぴらにもと主君に対して哭礼を示すわけにもいかない。だから配下氏は、哭礼を執り行わない代わりに挽歌を歌い、その胸中を吐露した、と言われている。

桓温さまは簒奪を狙い、失敗して、死んだ。つまり、大逆を犯した反逆者。そのたぐいまれなる功績を評して「宣武」と言う諡こそ頂戴しているものの、かれをいたずらに称賛してしまうと、それは「晋転覆の意図あり」と見做されてしまう事にもなりかねない。

張湛は挽歌を歌った。その意図はよくわからない。ただ、このエピソードは鮮明に「結果」を伝える。桓沖さんにとって、張湛の挽歌は「田横の門人の挽歌」に等しかったのだ。

それをやってしまえばいろいろまずいことになりかねない、桓温さまへの弔意の表明。桓沖さんは、張湛の歌を通じてそこを表明している。故にこの条は「任誕」編に所収されている。

って、劉孝標も、その注の末尾では「非固陋者所能詳聞。疑以傳疑,以俟通博」――固陋な私にはうまく解き明かすことができない、疑わしきは疑わしきままとして伝え、後世の人に解明してもらう事を待とう――と言っている。桓温さまのことだって推測まではしてたのかもしれない。


ともあれ、この張湛という人は、割と葬儀的な振る舞いが好きだっただけなのかもしれない。別の条にこんな話がある。



張湛、書斎の前に松や柏、
つまり墓に植えるような木を
植えることを好んでいた。

また同時代人の袁山松(えんさんしょう)
出先で側仕えに好んで挽歌を歌わせた。

こうした彼らの振る舞いを見て、
人々はこう言っている。

「張湛は家に死体を並べ、
 袁山松は外に出るたびに
 誰かを弔っている」


張湛好於齋前種松柏。時袁山松出遊,每好令左右作挽歌。時人謂「張屋下陳屍,袁道上行殯。」

張湛は齋前に種わる松柏を好む。時に袁山松の出遊せるに、每に左右をして作挽歌を作さしむを好む。時の人は謂えらく「張が屋下に屍は陳ばん、袁は道上に殯を行う」と。

(任誕43)



まぁ要するに、
桓温さまのことが無くても、
張湛は普通に人を弔うよーな振る舞いが
大好きだったようなのである。
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