第176話 心の傷とパスクワの羊(4)完
文字数 2,744文字
福音ベーカリーの店内は、オレンジ色の暖かい光の満ちていた。もう外は夕方だったので、店の中の照明が余計に暖かく感じてしまったのかもしれない。
小さな店ながらもイートインスペースもあり、少しカフェっぽい雰囲気だ。テーブルは二つ、椅子は四つあり、パンだけでなくサラダやスープなども注文すれば食べられる。看板犬のヒソプはイートインスペースがお気に入りなのか、ごろりと寝そべっていた。柴犬だが、焼けたパンの色にそっくりな毛並みで、この店の看板犬としてはピッタリかもしれない。
「歩美ちゃん、こんにちは。いや、こんばんは?」
そこの厨房の方から店員の瑠偉が出てきた。寡黙で優しそうなルックスだが、背が高い若い男性だ。恐怖で身体が強張りそうになったが、確かに色気は全くない。長いまつ毛は女性っぽいし、よく見ると性別不詳な雰囲気もある。整いすぎた顔立ちで色気が無いのかもしれないが、確かにおオスっぽい雰囲気は全く無い。そう思うと、だんだんと緊張感は抜けてきた。
「瑠偉さん、何持ってるの?」
瑠偉はお盆を抱えていたが、パン屋らしくないものがそこに載っていた。パンではなく、羊の形をした砂糖菓子だった。最近全く笑っていない歩美だったが、思わず可愛いと言ってしまった。サイズも小さめで、手の平サイズなのもかわいい。どれも表情が穏やかで笑ってる子もいた。赤い旗もつけてる子もいて、印象に残る。
瑠偉は羊の砂糖菓子を店の中央にあるテーブルの上に並べていく。いつも商品でいっぱい陳列されているテーブルだったが、もう閉店間近なのか、他の商品はなかった。今は他のパンはどうでも良くなり、可愛い羊の砂糖菓子に釘付けになってしまった。もちろん、瑠偉が男性である事もすっかり忘れてしまった。
「可愛い!」
「でしょう。これはイタリアのイースターのお菓子で、パスクワの羊って言うマジパンなんだ。小さな子は子羊だね、可愛いねぇ。パスクワは復活祭って意味だよ」
「可愛い! 可愛い!」
「さっきから君、それしか言ってないね。実は今日、型が届いて、試しに作ってみたんだ。本当はパンの上の飾りにしようと思ってたけど、試食してみる? うちのマジパンは、ちゃんと作ってるから、味もいいよ」
という事で、イートインスペースでパスクワの羊を試食する事になった。イートインの椅子に腰掛けて待つ。ヒソプはすっかりリラックスすて目を細めていた。窓から見える外は、もう夜で、ヒソプも眠たい時間なのかもしれない。
テーブルの上には、ひよこやうさぎの小物も置いてあり、イースタームードが高まっていた。壁には、聖書の御言葉が引用して書かれた色紙も飾ってある。確か船瀬茉莉花という常連客がかなりの達筆で、お金を払って書いてもらっているらしい。茉莉花は今はアメリカに住んでいるので、歩美は会った事はなかったが。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのための一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。ローマ書の八章より、か」
歩美は色紙に書いてある御言葉を、思わず口にしてしまった。綺麗な文字を見ていて何か触発されたようだった。声に出していたが、ヒソプは相変わらず眠そうにしていた。
聖書の中では、神様、イエス様は屠られる羊と表現されている。あの砂糖菓子の羊も、まさにそれを表現されているのだろう。それを思うと、食べて良いのか戸惑う気持ちもある。
ちょうどそんな事を考えていると、瑠偉は皿と飲み物を持ってやってきた。皿の上には、可愛い砂糖菓子の羊が何匹かいた。一匹だけ大きな羊で、この子は小さな赤い旗もつけている。よく見ると、表情もひとつひとつ違って味がある。
「飲み物は今ちょっと切れていて、葡萄ジュースしかないけど、いい?」
「え、ありがとう」
瑠偉は皿と葡萄ジュースが入ったコップをテーブルに置くと、彼も椅子に座った。ちょうど歩美の隣に座る。
「見られるとちょっと嫌ですけど」
「いいじゃないですか。お祈りして食べましょう」
瑠偉と二人で食前のお祈りをし、可愛い羊の砂糖菓子を食べる事にした。しかし、この羊も神様の象徴かもしれないと思うと、食べずらい。
「大丈夫。これもイエス様だと思って食べてみて」
「そう思うと、逆に食べられないよ」
「はは。でも生贄になる為にイエス様来たようなものだよ。あれだけ十字架罵倒され、鞭打たれたのも、全部あなたの身代わりになってくれたんだ。十字架の上で服も取られて、見ていた人が分け合ったシーンもあるけど、これは性犯罪の傷も我々の代わりに受けてくれたって言われてるね」
そういう意味だったのか。聖書でも十字架のところは、心が痛くてちゃんと読めていなかった。
「大丈夫。全部、神様に心の傷も預けて」
「でも」
「あ、俺いない方がいい?」
「うん」
「わかった」
瑠偉はそういうと、ヒソプを連れてイートインスペースから店の方へ向かった。も看板を片付けたり、閉店準備をしていた。
一人残された歩美は、自分が受けてきた心の傷を全部口にしていた。兄の事はもちろん、母からの暴言も。いじめをしていた事も。雑誌で見た霊媒師の言葉も。
一人で語っているだけなのに、ちゃんと神様が聞いてくれている気がして、言葉は止まらずに出てきた。少し涙も出てくるが、どうにか堪える。
「神様の事も信じきれてなかったかも。だから、ずっと心の傷も隠していたのかも。傷を隠していてごめんなさい」
最後に神様へ謝ると、なぜか心はふわっと軽くなり、自然と羊の砂糖菓子に手が伸びていた。食感は意外とジャリジャリしてなく、アーモンドの風味も美味しかった。イタリアの菓子なのに、餡子のような滑らかさも感じていた。甘みも口に広がり、食べていると、思わず笑顔になってしまった。
「歩美、もう大丈夫?」
閉店準備を終えた瑠偉は、ヒソプと一緒に戻ってきた。
「うん。神様に治してもらったみたい」
「それはよかったです。やはり心が壊れたら、自分を創った神様に頼るのが一番ですね。歩美ちゃんの心が治って何よりです」
瑠偉はそう言うと、ヒソプが小さく吠えていた。
もう過去の事はあまり思い出せなかった。兄の被害を受けた時、もし自分が神様を知っていたら、絶対守ってくれたとも思たりした。辛い記憶が別のものに書き変わっているのを感じた。
もうあの声も聞こえなくなっていた。聖書も読めるようにまったし、祈りの時間もとれるようになっていた。男の人も怖く無くなっていた。
ちなみこのパスクワの羊は、女性客に人気がかなり出てしまい、瑠偉はイースターじゃなくても通年で売っても良いかと検討するほどだった。
小さな店ながらもイートインスペースもあり、少しカフェっぽい雰囲気だ。テーブルは二つ、椅子は四つあり、パンだけでなくサラダやスープなども注文すれば食べられる。看板犬のヒソプはイートインスペースがお気に入りなのか、ごろりと寝そべっていた。柴犬だが、焼けたパンの色にそっくりな毛並みで、この店の看板犬としてはピッタリかもしれない。
「歩美ちゃん、こんにちは。いや、こんばんは?」
そこの厨房の方から店員の瑠偉が出てきた。寡黙で優しそうなルックスだが、背が高い若い男性だ。恐怖で身体が強張りそうになったが、確かに色気は全くない。長いまつ毛は女性っぽいし、よく見ると性別不詳な雰囲気もある。整いすぎた顔立ちで色気が無いのかもしれないが、確かにおオスっぽい雰囲気は全く無い。そう思うと、だんだんと緊張感は抜けてきた。
「瑠偉さん、何持ってるの?」
瑠偉はお盆を抱えていたが、パン屋らしくないものがそこに載っていた。パンではなく、羊の形をした砂糖菓子だった。最近全く笑っていない歩美だったが、思わず可愛いと言ってしまった。サイズも小さめで、手の平サイズなのもかわいい。どれも表情が穏やかで笑ってる子もいた。赤い旗もつけてる子もいて、印象に残る。
瑠偉は羊の砂糖菓子を店の中央にあるテーブルの上に並べていく。いつも商品でいっぱい陳列されているテーブルだったが、もう閉店間近なのか、他の商品はなかった。今は他のパンはどうでも良くなり、可愛い羊の砂糖菓子に釘付けになってしまった。もちろん、瑠偉が男性である事もすっかり忘れてしまった。
「可愛い!」
「でしょう。これはイタリアのイースターのお菓子で、パスクワの羊って言うマジパンなんだ。小さな子は子羊だね、可愛いねぇ。パスクワは復活祭って意味だよ」
「可愛い! 可愛い!」
「さっきから君、それしか言ってないね。実は今日、型が届いて、試しに作ってみたんだ。本当はパンの上の飾りにしようと思ってたけど、試食してみる? うちのマジパンは、ちゃんと作ってるから、味もいいよ」
という事で、イートインスペースでパスクワの羊を試食する事になった。イートインの椅子に腰掛けて待つ。ヒソプはすっかりリラックスすて目を細めていた。窓から見える外は、もう夜で、ヒソプも眠たい時間なのかもしれない。
テーブルの上には、ひよこやうさぎの小物も置いてあり、イースタームードが高まっていた。壁には、聖書の御言葉が引用して書かれた色紙も飾ってある。確か船瀬茉莉花という常連客がかなりの達筆で、お金を払って書いてもらっているらしい。茉莉花は今はアメリカに住んでいるので、歩美は会った事はなかったが。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのための一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。ローマ書の八章より、か」
歩美は色紙に書いてある御言葉を、思わず口にしてしまった。綺麗な文字を見ていて何か触発されたようだった。声に出していたが、ヒソプは相変わらず眠そうにしていた。
聖書の中では、神様、イエス様は屠られる羊と表現されている。あの砂糖菓子の羊も、まさにそれを表現されているのだろう。それを思うと、食べて良いのか戸惑う気持ちもある。
ちょうどそんな事を考えていると、瑠偉は皿と飲み物を持ってやってきた。皿の上には、可愛い砂糖菓子の羊が何匹かいた。一匹だけ大きな羊で、この子は小さな赤い旗もつけている。よく見ると、表情もひとつひとつ違って味がある。
「飲み物は今ちょっと切れていて、葡萄ジュースしかないけど、いい?」
「え、ありがとう」
瑠偉は皿と葡萄ジュースが入ったコップをテーブルに置くと、彼も椅子に座った。ちょうど歩美の隣に座る。
「見られるとちょっと嫌ですけど」
「いいじゃないですか。お祈りして食べましょう」
瑠偉と二人で食前のお祈りをし、可愛い羊の砂糖菓子を食べる事にした。しかし、この羊も神様の象徴かもしれないと思うと、食べずらい。
「大丈夫。これもイエス様だと思って食べてみて」
「そう思うと、逆に食べられないよ」
「はは。でも生贄になる為にイエス様来たようなものだよ。あれだけ十字架罵倒され、鞭打たれたのも、全部あなたの身代わりになってくれたんだ。十字架の上で服も取られて、見ていた人が分け合ったシーンもあるけど、これは性犯罪の傷も我々の代わりに受けてくれたって言われてるね」
そういう意味だったのか。聖書でも十字架のところは、心が痛くてちゃんと読めていなかった。
「大丈夫。全部、神様に心の傷も預けて」
「でも」
「あ、俺いない方がいい?」
「うん」
「わかった」
瑠偉はそういうと、ヒソプを連れてイートインスペースから店の方へ向かった。も看板を片付けたり、閉店準備をしていた。
一人残された歩美は、自分が受けてきた心の傷を全部口にしていた。兄の事はもちろん、母からの暴言も。いじめをしていた事も。雑誌で見た霊媒師の言葉も。
一人で語っているだけなのに、ちゃんと神様が聞いてくれている気がして、言葉は止まらずに出てきた。少し涙も出てくるが、どうにか堪える。
「神様の事も信じきれてなかったかも。だから、ずっと心の傷も隠していたのかも。傷を隠していてごめんなさい」
最後に神様へ謝ると、なぜか心はふわっと軽くなり、自然と羊の砂糖菓子に手が伸びていた。食感は意外とジャリジャリしてなく、アーモンドの風味も美味しかった。イタリアの菓子なのに、餡子のような滑らかさも感じていた。甘みも口に広がり、食べていると、思わず笑顔になってしまった。
「歩美、もう大丈夫?」
閉店準備を終えた瑠偉は、ヒソプと一緒に戻ってきた。
「うん。神様に治してもらったみたい」
「それはよかったです。やはり心が壊れたら、自分を創った神様に頼るのが一番ですね。歩美ちゃんの心が治って何よりです」
瑠偉はそう言うと、ヒソプが小さく吠えていた。
もう過去の事はあまり思い出せなかった。兄の被害を受けた時、もし自分が神様を知っていたら、絶対守ってくれたとも思たりした。辛い記憶が別のものに書き変わっているのを感じた。
もうあの声も聞こえなくなっていた。聖書も読めるようにまったし、祈りの時間もとれるようになっていた。男の人も怖く無くなっていた。
ちなみこのパスクワの羊は、女性客に人気がかなり出てしまい、瑠偉はイースターじゃなくても通年で売っても良いかと検討するほどだった。