第92話 初心者のソーダブレット(3)

文字数 2,302文字

 莉央は、駅ビルを後にすると、住宅街に入り、歩き始めた。駅や学校の方は栄えているが、一歩住宅街に入ると、静かで落ち着いた場所だった。時々、老人や主婦らしき女性とすれ違うが、駅の側のような賑やかさは無い。莉央の家もこの近くにありが、暮らしやすい地域ではある。隣の飽田市は治安が悪いが、このあたりは、しそういった噂も全く聞かなかった。

「ここか?」

 ショップカードを見つつ、福音ベーカリーの前まで辿り着いた。小さなパン屋で、クリーム色の壁と赤い屋根の外観が印象的だった。クリーム色の壁は、夕陽に照らされ、ちょっと焦げたパンのようにも見える。店から美味しそうな香りが漂う為、そんな風に見えてしまったのだろう。メープルシロップのような、チョコレートの様な甘い香りもする。比較的見た目に気を遣い、体重もベストをキープしている莉央だが、この匂いを嗅いでいると、理性が乱されてきた。

 おそらく新しい店だろう。近所に住んでいながら、こんなパン屋は今まで全く知らなかった。

 さらに店の前に近づくと、黒板状の立て看板が置いてあった。

「うん?」

 そこには、変な言葉が引用されていた。

「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。(エペソ人への手紙 4:32)より」

 側には、号泣している芝犬の絵もあった。莉央は一旦、店の前にあるミントグリーン色のベンチに座り、その言葉をマジマジと見てみた。神とかキリストとかある。おそらくキリスト教の何かだろう。

 思わず莉央に表情は苦いものになっていく。莉央は輪廻転生や前世はあると思っているので、キリスト教は全く興味がない。それどころか嫌いな方だ。この看板の言葉のように「許せ」と書いているのも意味がわからない。莉央の中には、許すという概念はなかった。

 頭に母の顔が浮かんでくる。そんな、絶対許す事などできない。こんな言葉なんて、嘘だと疑いの心しかない。気づくと、再び心は岩にように固くなっている感覚を覚えた。秋の風が吹き抜け、目の前には枯葉が舞っていた。

 このパン屋は、おそらくキリスト教関連のパン屋だろう。そんなパン屋とは縁は無いだろうと、逃げようとした時、扉が開いた。

「お客様? いらっしゃい!」

 まだ二十歳そこそこの若い男が出てきた。黒い目が印象的な男だった。イケメンの方だが、眉毛が凛々しく、昔の武士のような真っ直ぐな雰囲気だった。イケメンというより、二枚目とかハンサムと言った方が良い感じだ。宗教関係者なんて気持ち悪いと思ったが、この男は、そんな雰囲気は特になかった。

「これ、ソーダブレットなんだけど、食べる?」

 男は莉央の隣に座り、バスケットに入ったパンを勧めてきた。白いコックコートの胸元には「知村柊」という名前が刺繍されていた。

「ソーダブレット?」
「うん。僕は見習いの店員だから、基本的で簡単なソーダブレットしか作らせてくれないんだよね。で、いっぱい作って余ってしまったよ。食品ロス出すと、オーナーに叱られるから、どう?」

 バスケットに入ったソーダブレットは、薄くスライスされていたが、表面はゴツゴツとし、岩っぽい雰囲気もあった。中身はきめ細かい記事も見え、くるみやレーズンも入っているようだった。莉央はナッツ類が好きなので、思わず唾を飲み込む。

「ソーダブレットって簡単なの?」
「うん。でもさー、他のあんぱんとかクロワッサンは難しい。初心者には、上手く出来ない事あるね。幸い、先輩もオーナーも上手くできない所は許してくれるから」

 また、許し。その言葉を聞いていると、イライラとしてきて、スライスされたソーダブレットをつまんでみた。意外とケーキのような食感で、不味くはない。特別美味しいわけでも無いが、ナッツの食感はやっぱり舌が喜んでいた。

「許さないとダメなの?」
「ダメって事じゃないよ。でも、逆に自分の失敗を責められても文句言えないって事は、嫌だね……。人の失敗を責めれば責めるほど、自分も失敗できなくなるよ。それにお母さんも、完璧じゃないよ?」
「え、何で母の事知ってるのよ?」

 思わず気が強い声で言い返してしまったが、舌はまだ喜んでいたし、柊のニコニコと邪気の無い笑顔を見ていたら、深く追求する気も失せてきた。

「お母さんも神様からしたら、何もできない子供。そりゃ、上手くできない所もあるよ。初心者だよ。初めてで全部上手くいくかな?」
「だって親じゃん。大人だよ。完璧じゃないの? っていうか、人間は神様なのに?」
「それは、大きく見過ぎだよ。親も神様ではないよ。誰も人間は神様にはなれないよ。君は今から何か新しい動物を創造出来る? 無理でしょう?」

 なぜか固くなっていた岩の様な心が、ほろほろと崩れてきた。確かに母に完璧さを求めていた事は否定できない。許す事はできない。でも、莉央の中にある母の姿が、どんどん小さくなってきた。母も人生一回目の子供と思えば、今まで抱えていた感情が急に馬鹿馬鹿しくなってきた。

「確かに、勉強とか初めての事は上手くできなかったかも……」
「だね。あ、ソーダブレットは、超簡単にできるから、今度お家で暇な時にでも作ってみてね。発酵いらないし、形も綺麗にしないでも良いから簡単なんだ」
「作るのは面倒だよ。そのパン、全部くれない?」
「はは、まあ、良いか」

 図々しかったが、柊にソーダブレットを包んでもらい、持ち帰って食べる事にした。

『やっば、こいつターゲットにするのはやめておこう』

 どこから聞こえる声は、その日から突然聞こえなくなった。なぜか前世の記憶も全部消えてしまった。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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