第75話 あんぱんと優等生(3)
文字数 3,357文字
その日から、美嘉は学校のクラスメイトの様子をよく観察するようになった。自分と同グループの子達は、一様に眉毛がボサボサで芋臭いが、別に他の子はそうでもない。莉央みたいに目立つ美人だけでなく、眉毛を整えたり、目を二重にする化粧品をつけている子が多い。先生の検査がある時などは、慌てて証拠隠滅しているらしい。マニュキアも乾くと手で剥がせるタイプのもあるらしく、眉毛も元々体毛が薄いタイプなどと主張しているようだった。
そんな事も知り、美嘉の中で疑問が膨れ上がってきた。学校の女性の先生も、口ではメイクはダメと言っているのに、自身はちゃんとメイクをしている。この落差ってなんだろうか???
やっぱり人は見た目が九割なのか?
そんな事は教科書には載っていないが、美人女優やイケメン俳優などを見ていると理由はわかる。そんな事をわざわざ言わないだけ?
姉は就活の準備で「顔がいい奴ってそれだけで有利でムカつく」と言っていた事もあったが、あながち間違いではない? 道徳の授業では見た目や性別、年齢で差別しちゃいけないと習ったが、「建前」だったのかもしれない。
「建前」に隠されている「本音」の恐ろしさに、美嘉は憂鬱になりそうだった。学校にある校則って何なのだろうか。あれって意味があるのかわからない。莉央がいちいち反抗している理由も、なんとなく察してきた自分が怖くなってきた。ルールは守らせる事に意味があり、実は目的や意味が無いのかもしれないと思ったりした。なぜルールを守らせているのかは、さっぱりわからないが。
今日は先生に雑用を押し付けられ、体力的にはヘトヘトだった。運悪く、今日も姉も両親も忙しく、夕飯は一人で取る必要があった。母から千円札をもらい、これで二日分、何とかしろという。
放課後、校門を抜け、コンビニを見るが、あまり食べたく無い。コンビニの入り口のそばには「マスク着用にご協力ください」とあり、妙な圧力を感じる。マスクは個人の判断に任されているが、ルールを守れと言われているみたいな圧力を感じてしまった。
何となくコンビニに入る気分にはなれず、住宅街に入り家に帰ろうと思った。確か家にはカップラーメンかカップ焼きそばがあったはずだ。あれを食べた方が良い。今はあまり食欲も無い。
「あれ?」
そんな事を考えながら、トボトボと歩いていたが、鼻にいい匂いが届いた。パンかお菓子が焼けるような匂いだった。メープルシロップのような匂いやバターのような香ばしい匂いもする。落ち込みかけていた美嘉だったが、この匂いは理性をかき乱していた。
匂いがする方向に向かうと、パン屋があった。いつもの住宅街に、こんな店はあったっけ?
美嘉は首を傾げつつ、店の前に立った。パン屋のクリーム色の壁は夕陽に照らされ、焦げたパン生地のようにも見え、ゴクリとツバを飲みこ無。赤い屋根は可愛らしく、「福音ベーカリー」という看板も掲げられていた。こんなパン屋は知らないが、おそらく新しくできた店だろう。店の前には、立て看板もある。黒板状の立て看板で何か書いてあった。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれているものは罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。肉の弱さの為に律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。ローマ人への手紙・8章1-3より」
読んでみたが、おそらく聖書の言葉だろう。美嘉の表情はちょっと引き攣っていた。おそらくキリスト教関連のパン屋なのだろうが、宗教に良いイメージはない。何回も決まった時間に祈ったり、断食したり縛られているイメージがある。ルールを守っていれば救われるという考えなのかもしれない。
あれ?
だとしたら、校則を一生懸命守り、優等生の地位を得ていた自分は、「宗教」やっていた事にならないだろうか?
黒板をノートに書き写すのはお坊さんの写経みたいだし、掃除をやるのも修行、成績表は、罪に問われない免罪符?
何となくそんな気がしてきた。一見「宗教」でなくとも、ルールだけが先行している事は、身近によくある気がした。マスクだって本当に効果があるかはわからないが、とりあえずそういうルールだ。「宗教」の定義がルールに縛られた形骸化したものだとすれば、それは身近にいっぱいありそうな気がした。ルールで縛り、従っている人に思考させないようにしているような……。
この聖書はよくわからないが、キリスト教だって断食とかベジタリアンやってるイメージもある。よく知らないけれど、清く正しい人たちが一生懸命ルールを守ってるイメージはある。
やっぱりこのパン屋には縁は無い。帰ろうとした時、扉が開いた。中からは、背の高い若い男が出てきた。色黒で黒髪、頭にはタオルを巻いていて、一見トラックの兄ちゃんみたいな雰囲気の男だった。コックコートは腕まくりしていたが、かなり筋肉質だ。大きなバスケットを手に抱えていたが、それが小さく見えてしまうほどだった。
「こんにちは!」
男は笑顔で美嘉に近づいてきた。コックコートの胸元には、知村紘一という名前が刺繍されてあった。
「こ、こんにちは?」
美嘉も男のキラキラ笑顔につられて、思わず返事をしていた。
「実はうちのオーナーが食品ロスに慎重で余ったパンを近所で配ってるんだよ。あんぱんいかが?」
紘一はバスケットを美嘉にグイグイと見せてきた。背が高いので、わざわざ美嘉の背丈に合わせ、かがんでくれている。
袋に個装されたあんぱんやクリームパン、ジャムパン、メロンパンなどが入っていた。宗教は気持ち悪いが、このパンは美味しそうだった。特にあんぱんは表面が艶々で、中央には桜に花の塩漬けもトッピングされている。
「あ、ありがとう」
美嘉はおそるおそるだが、あんぱんを手にした。さすがに出来立てでは無いが、やっぱり良い匂いがした。
「ところで、この看板何? 聖書?」
「そうだよ。我々は社畜、いやクリスチャンがパン屋を運営しているんだ」
「へー」
宗教は気持ち悪いが、自分も学校では宗教じみた事をしていたと思うと、何となく批判はできない。
「でも宗教って面倒でじゃない? ルールいっぱいありそう。守るの辛くないの?」
紘一はキョトンとした顔をしていた。心底意味がわからないと言いたげだった。
「えー? ウチらは自由だよ。神様が面倒な事は全部やってくれたからね。律法も全部守れないから、神様がいるわけで」
「意味がわからないな」
「まあ、ルール守れば良いっていうほど、うちらの神様は甘くないからね。その人の心を見てる」
なぜか心臓がドキドキとしてきた。手に持っているあんぱんが、急に重く感じた。確かに自分は校則を守っていたが、その心を誰かに見られていたとしたら? 別に優等生でも何でもなかった。ただ表面的にルールを守ってるだけだった。本質的なものを無視して「見た目だけやってる感」を演出しているだけだった。
これはマスクでも同じかもしれない。本当にウィルスが怖いのならガスマスクでもしている方が本質的だ。マスクのルールも一種の「宗教」と言われたら、否定はできない。本当に効果があるかわからないお守りや聖水、お札、パワーストーン、壺に縋っているのと似ている。ワクチンだって「自分だけが助かりたい」「自分は模範的な良い人に見られたい」「みんなやってるルールだから」と思ってやってる人が多いだろう。心を見られていたら、本当に「誰かの為の思いやり」なのか断言できない。
「あんぱんって面白いよね。西洋のパンに、日本の和菓子の餡子入れちゃおうなんて、よく思いついたよね」
「確かに」
それは美嘉も同意だった。
「ルールを守っているのもいいけど、それに縛られていたら、本来の君の実力や良さも発揮できないかもね? こんなあんぱんみたいな不思議なパンも生まれなかったかもね? パン屋は毎日全く違う仕事だから、あんまりルールやマニュアルもが通用しないんだよ。だから、面白いパンも生まれたのかもね」
すぐには紘一の言いたい事は理解できなかった。それでも、家に帰って一人であんぱんを食べていたら、校則だけ守って偉そうにしていた自分は、何か間違っている気がしてきた。
そんな事も知り、美嘉の中で疑問が膨れ上がってきた。学校の女性の先生も、口ではメイクはダメと言っているのに、自身はちゃんとメイクをしている。この落差ってなんだろうか???
やっぱり人は見た目が九割なのか?
そんな事は教科書には載っていないが、美人女優やイケメン俳優などを見ていると理由はわかる。そんな事をわざわざ言わないだけ?
姉は就活の準備で「顔がいい奴ってそれだけで有利でムカつく」と言っていた事もあったが、あながち間違いではない? 道徳の授業では見た目や性別、年齢で差別しちゃいけないと習ったが、「建前」だったのかもしれない。
「建前」に隠されている「本音」の恐ろしさに、美嘉は憂鬱になりそうだった。学校にある校則って何なのだろうか。あれって意味があるのかわからない。莉央がいちいち反抗している理由も、なんとなく察してきた自分が怖くなってきた。ルールは守らせる事に意味があり、実は目的や意味が無いのかもしれないと思ったりした。なぜルールを守らせているのかは、さっぱりわからないが。
今日は先生に雑用を押し付けられ、体力的にはヘトヘトだった。運悪く、今日も姉も両親も忙しく、夕飯は一人で取る必要があった。母から千円札をもらい、これで二日分、何とかしろという。
放課後、校門を抜け、コンビニを見るが、あまり食べたく無い。コンビニの入り口のそばには「マスク着用にご協力ください」とあり、妙な圧力を感じる。マスクは個人の判断に任されているが、ルールを守れと言われているみたいな圧力を感じてしまった。
何となくコンビニに入る気分にはなれず、住宅街に入り家に帰ろうと思った。確か家にはカップラーメンかカップ焼きそばがあったはずだ。あれを食べた方が良い。今はあまり食欲も無い。
「あれ?」
そんな事を考えながら、トボトボと歩いていたが、鼻にいい匂いが届いた。パンかお菓子が焼けるような匂いだった。メープルシロップのような匂いやバターのような香ばしい匂いもする。落ち込みかけていた美嘉だったが、この匂いは理性をかき乱していた。
匂いがする方向に向かうと、パン屋があった。いつもの住宅街に、こんな店はあったっけ?
美嘉は首を傾げつつ、店の前に立った。パン屋のクリーム色の壁は夕陽に照らされ、焦げたパン生地のようにも見え、ゴクリとツバを飲みこ無。赤い屋根は可愛らしく、「福音ベーカリー」という看板も掲げられていた。こんなパン屋は知らないが、おそらく新しくできた店だろう。店の前には、立て看板もある。黒板状の立て看板で何か書いてあった。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれているものは罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。肉の弱さの為に律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。ローマ人への手紙・8章1-3より」
読んでみたが、おそらく聖書の言葉だろう。美嘉の表情はちょっと引き攣っていた。おそらくキリスト教関連のパン屋なのだろうが、宗教に良いイメージはない。何回も決まった時間に祈ったり、断食したり縛られているイメージがある。ルールを守っていれば救われるという考えなのかもしれない。
あれ?
だとしたら、校則を一生懸命守り、優等生の地位を得ていた自分は、「宗教」やっていた事にならないだろうか?
黒板をノートに書き写すのはお坊さんの写経みたいだし、掃除をやるのも修行、成績表は、罪に問われない免罪符?
何となくそんな気がしてきた。一見「宗教」でなくとも、ルールだけが先行している事は、身近によくある気がした。マスクだって本当に効果があるかはわからないが、とりあえずそういうルールだ。「宗教」の定義がルールに縛られた形骸化したものだとすれば、それは身近にいっぱいありそうな気がした。ルールで縛り、従っている人に思考させないようにしているような……。
この聖書はよくわからないが、キリスト教だって断食とかベジタリアンやってるイメージもある。よく知らないけれど、清く正しい人たちが一生懸命ルールを守ってるイメージはある。
やっぱりこのパン屋には縁は無い。帰ろうとした時、扉が開いた。中からは、背の高い若い男が出てきた。色黒で黒髪、頭にはタオルを巻いていて、一見トラックの兄ちゃんみたいな雰囲気の男だった。コックコートは腕まくりしていたが、かなり筋肉質だ。大きなバスケットを手に抱えていたが、それが小さく見えてしまうほどだった。
「こんにちは!」
男は笑顔で美嘉に近づいてきた。コックコートの胸元には、知村紘一という名前が刺繍されてあった。
「こ、こんにちは?」
美嘉も男のキラキラ笑顔につられて、思わず返事をしていた。
「実はうちのオーナーが食品ロスに慎重で余ったパンを近所で配ってるんだよ。あんぱんいかが?」
紘一はバスケットを美嘉にグイグイと見せてきた。背が高いので、わざわざ美嘉の背丈に合わせ、かがんでくれている。
袋に個装されたあんぱんやクリームパン、ジャムパン、メロンパンなどが入っていた。宗教は気持ち悪いが、このパンは美味しそうだった。特にあんぱんは表面が艶々で、中央には桜に花の塩漬けもトッピングされている。
「あ、ありがとう」
美嘉はおそるおそるだが、あんぱんを手にした。さすがに出来立てでは無いが、やっぱり良い匂いがした。
「ところで、この看板何? 聖書?」
「そうだよ。我々は社畜、いやクリスチャンがパン屋を運営しているんだ」
「へー」
宗教は気持ち悪いが、自分も学校では宗教じみた事をしていたと思うと、何となく批判はできない。
「でも宗教って面倒でじゃない? ルールいっぱいありそう。守るの辛くないの?」
紘一はキョトンとした顔をしていた。心底意味がわからないと言いたげだった。
「えー? ウチらは自由だよ。神様が面倒な事は全部やってくれたからね。律法も全部守れないから、神様がいるわけで」
「意味がわからないな」
「まあ、ルール守れば良いっていうほど、うちらの神様は甘くないからね。その人の心を見てる」
なぜか心臓がドキドキとしてきた。手に持っているあんぱんが、急に重く感じた。確かに自分は校則を守っていたが、その心を誰かに見られていたとしたら? 別に優等生でも何でもなかった。ただ表面的にルールを守ってるだけだった。本質的なものを無視して「見た目だけやってる感」を演出しているだけだった。
これはマスクでも同じかもしれない。本当にウィルスが怖いのならガスマスクでもしている方が本質的だ。マスクのルールも一種の「宗教」と言われたら、否定はできない。本当に効果があるかわからないお守りや聖水、お札、パワーストーン、壺に縋っているのと似ている。ワクチンだって「自分だけが助かりたい」「自分は模範的な良い人に見られたい」「みんなやってるルールだから」と思ってやってる人が多いだろう。心を見られていたら、本当に「誰かの為の思いやり」なのか断言できない。
「あんぱんって面白いよね。西洋のパンに、日本の和菓子の餡子入れちゃおうなんて、よく思いついたよね」
「確かに」
それは美嘉も同意だった。
「ルールを守っているのもいいけど、それに縛られていたら、本来の君の実力や良さも発揮できないかもね? こんなあんぱんみたいな不思議なパンも生まれなかったかもね? パン屋は毎日全く違う仕事だから、あんまりルールやマニュアルもが通用しないんだよ。だから、面白いパンも生まれたのかもね」
すぐには紘一の言いたい事は理解できなかった。それでも、家に帰って一人であんぱんを食べていたら、校則だけ守って偉そうにしていた自分は、何か間違っている気がしてきた。