第155話 良心とマリトッツォ(4)完

文字数 1,144文字

 瑠偉が厨房にいる間、小夜はイートインコーナーの壁に貼ってある絵葉書や色素などを見ていた。ライトノベル作家の色紙なども飾ってありが、聖書の言葉を引用して書かれた色紙もある。かなり達筆で真っ直ぐな文字で見ていると、気が引き締まる。

「悪をもって悪に、侮辱にもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。第一ペテロ・三章九節〜十節より」

 それを見ていたら、より自分の中にある心が痛む。祝福を祈るどころか、今の自分は悪に染まっている。祝福はできなくても、水をくれ、休ませてくれた瑠偉の足を引っ張りたくないと思ったりした。

 ふと、自分の中に元々あった良心が息を吹き返してくるのを感じていた。今までは硬いカラに覆われていたが、ピシピシとヒビが入り、良心が顔を出している。

「お客様! 生クリームたっぷりのマリトッツォです!」

 瑠偉は小夜の目の前にマリトッツォが乗った皿を置く。白いパンから挟まれた純白の生クリームは、ぱんぱんに膨らみ、はち切れそうだった。まるで、今の芽生えている良心を見せられているようだ。純白の生クリームは、一つの汚れもなく、美しく見えてしまった。

「マリトッツォは、人前で食べるのは難易度高いです」
「はは、そうですね。俺は厨房の方にいます。ごゆっくり」

 瑠偉は再び厨房の方に戻ってしまった。

 小夜が、手のひらサイズのマリトッツォをとり、はしをかじる。大量の生クリームが口の中で溶けていく。

 一人で食べたマリトッツォは、とても甘くて美味しいのに、心では少し苦く感じてしまった。たぶん、罪悪感は消えていない。この罪悪感は、良心からのサインかもしれない。

「ありがとう」

 気づくと、誰とでもなく、感謝の言葉を述べていた。

 一円にも得にもならず、むしろ自分に害を与える小夜に休ませてくれ、水を与え、パンも一つくれた。これ以上、福音ベーカリーに害をなす事は出来そうにない。このパン屋を愛している近隣住民の顔も浮かんでは消え、もう悪い事はしたくなかった。

「は? 仕事辞めるってどういう事?」

 色々と絵名のしている事にも疑問がある事を伝え、退職届けを渡した。

 絵名は最初は不満顔だったが、小夜の決意が硬いと知ると、退職届けを受け取った。

 最後の仕事の日、一応この福音ベーカリーでの出来事を絵名に伝えた。彼女は少し動揺していたので、良心が少しは残っているようだった。

 絵名が福音ベーカリーを潰す仕事を続けるのかは、わからない。それでも、小夜はこの事を伝えて後悔はなかった。

 退職して、次の仕事も決まっていないのに、気分はスッキリと開放的だった。あの福音ベーカリーで食べたマリトッツォを思い出す。また食べに行っても良いかもしれない。二回目に食べるマリトッツォは、きっと完璧に甘く感じるはずだ。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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