第174話 心の傷とパスクワの羊(2)

文字数 2,645文字

 放課後、歩美は教室に一人で残り、プリントを作っていた。正確にいえば作らされていた。担任に頼まれ、プロントをホッチキスで閉じていた。正直なところ面倒な作業ではあったが、手を動かしていると、最近の諸々の不調は忘れられていた。

 教室の窓からは、オレンジ色の日差しが差し込んでいた。少し眩しいぐらいだったが、もう夕方のようだ。他の生徒達ももう学校から帰っているようだが、歩美はあまり帰りたい気分ではない。親も仕事で家にいない。一人で夕飯を食べていると、虚しくなってくる。

『死ね、歩美なんて消えちゃえ!』

 その声は聞こえてくる事があり、手を動かそながらも歩美の表情は暗かった。

「あんた、なんなの?」

 思わず声に反応してしまった。こんな声に反応している自分は、客観的にみたらおかしい存在だろうが、うっかり反応してしまった。こんな事は初めてだったが、たぶん少し疲れていたのだろう。

 その声は数々の罵倒を繰り返しているだけで、会話は成立しなかった。ただ、ずっと声を聞いていると、自分の思考と混じり、どれが自分の考えなのか区別出来なくなってきた。

「私は死ぬべきなのか。いじめなんてしたから、当然?」

 そんな言葉も溢れてくる。本格的に疲れているらしい。

「あれ、歩美。残ってたの?」

 そこに友達の春歌が教室の入ってきた。いじめっ子だった自分にも何故か優しく接してくれて、洗礼にまで導いてくれた人物だ。見た目は典型的な優等生で真面目そうだ。実際、生徒会の仕事もしている。この時間まで残っているのは、その仕事をしていたせいだろう。

「歩美、どうしたの? 顔真っ青だよ」

 春歌は歩美の目の前の席に座る。なぜか視線は歩美の背後に向いていた。

「え、私の背後らへんの何かいる?」
「いるって言うか」

 春歌は困ったように眉根をよせ、その答えは言わなかった。真面目な優等生タイプだが、時々少し変わったところもあった。「うわ、ここ姦淫の悪霊がいる」と一人で呟いている事もあったが、どういう事なのかよくわからない。そういえば悪霊は聖書にも書かれているが、最近は諸々の体調不良で全く読めずにいた。なぜか聖書に手を伸ばそうとすると、強い吐き気が込み上げてきたり、祈ろうとすると電話が鳴ったり宅配業者が来たり、邪魔されているような感覚を覚えていた。

 春歌も同じクリスチャンという事もあり、この事について相談してみた。もちろん、兄にされた事などは決して口外できないが。

「あぁ、それは邪魔されてるわ」
「そんな事できるの?」
「悪霊側からしたら、今まで自分たちの仲間だったのに、急に抜けたわけでしょ? 再びそっちに連れ戻そうとするのは、よくある事だよ。ヤンキー仲間が突然優等生なったら焦るのと同じで。うちの親も牧師だから、そういう話はあるある」

 だからと言って、どうするべきなのかわからない。

「罪を犯している隣人がいたら裁かないでスルーしろっていう考もあるけど、私はそうは思わないんだよね」

 春歌は今度は真っ直ぐに歩美を見つめていた。

「え、私は罪なんてしてないから」
「本当に? 神様に隠し事しているのも罪だよ。もし、子供が怪我しているのに、黙って隠していたら親はどう思う? 早く言えって怒るでしょ?」

 確かに聖書では、神様は親、クリスチャンは子供のように表現されていた。実際、祈る時も「父なる神様」と呼びかける。

「別に裁いてるわけじゃないよ。歩美が心配になっただけ。大きなお世話だったら、ごめんね。今の時代はお節介も出来ないから、嫌だよね」

 春歌の気持ちはわかる。自分が悪役になってもいいから、耳の痛い事も言ってくれているのだろう。

「でも……」

 隠している心の傷をどうやって神様にいえばいいのかわからない。

「第一ペテロ二章になんて書いてあったか覚えてる?」

 そう言われても、最近は聖書を読んでいないから忘れていた。

「イエス様が十字架で受けた傷によって、あなたは癒されましたって書いてあるよ。歩美の心の傷も代わりに背負ってくれたよ」

 そう言われても、今の歩美は、すぐに頷く事ができなかった。

「神様は時間がないお方だから二千年前の十字架は、今でも信じれば有効。さっさと心にあるものは、神様に明け渡した方がいいよ」

 春歌の声も目も優しく、裁いている雰囲気はなかった。むしろ、自分の事を心配してくれる事は伝わってはくる。詳しく事情を話してなくても、今は全く笑えていないので、春歌を心配させていたのは事実もようだった。思えば、自分のようないじめっ子に春歌は一貫して優しかった。彼女の言う事は、嘘ではないと思ったりする。

「うーん、だったら歩美。福音ベーカリーに行ったら? 何かヒントが見つかるかもよ」
「福音ベーカリーか……」

 福音ベーカリーは、学校の近くの住宅街にあるパン屋だった。その店名通りクリスチャンが経営しているパン屋だった。小さなパン屋で、商品はどれもおいしく、時々春歌や光と一緒に食べに行く事も多かった。店員はよく変わり、今は橋本瑠偉という若い男性が経営しているようだった。寡黙なイケメンという雰囲気で、話し方も落ち着いた男だった。ただ、兄のことを思い出してからは、男と話すのも嫌で全く足を運んでいなかった。

「今はイースターで派手なパンとかあるみたいね」
「へえ」
「大丈夫よ。あそこの店員は、色気とかないしね」

 なぜか春歌は、そんな言葉を口にしていた。まるで、自分の気持ちを見透かされたようだが、気のせいと思いたい。確かにあそこのパン屋の店員は、なぜか性別不詳というか、色気はなかった。

「このプリントの仕事、代わりにやっておくし、歩美は早く帰った方がいいかもね」
「いいの?」
「うん、その前に一緒に祈ろうか」

 春歌としばらく一緒に祈っていた。祈っていると、あの声は全く聞こえなくなっていた。そういえば春歌といる時もあの声は聞こえない。

 何か関係があるのだろうか。もしかしたら、あの声の主は、悪魔か悪霊だろうか。そう思うと筋が通ってしまう。その正体がわかり、少しホッとはしてきた。祈りで何かヒントが与えられたのかもしれない。

「じゃあ、春歌。ありがとう」
「いや、いいのよ。気をつけてね」

 春歌と別れ、学校を後にする。空は青黒くなっている。もう夕方というより夜に近いのかもしれない。

 暗くなっていく空を見ながら、以前よりは心が軽くはなっていた。やはり、祈りの力はあるのかもしれない。そんな事を思いながら、今、心に抱えている事を神様に明け渡す必要も感じていた。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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