第114話 御翼とヴェックマン(3)

文字数 2,459文字

 駅ビルを後にした真雪は、トボトボと住宅街を歩いていた。この辺りの住宅街は、駅の近くと違って静かだった。単に道を歩いているだけで、結婚とか婚活について考えてしまい、気が重い。しかも今年のクリスマスはぼっちで過ごす可能性も高く、真雪の肩には重い荷が乗っているようだった。

 そんな憂鬱な気分を抱えていると、鼻に良い匂いが届く。パンやお菓子が焼けるような良い匂いだった。それに粉砂糖やメープルシロップのような甘い香りもして、一瞬重い気持ちは忘れていた。まだ十一月だったが、どこかでクリスマスケーキでも焼いているのかもしれない。

 良い香りがする方向に足を進めると、パン屋があった。赤い屋根とクリーム色の壁が印象的な小さなパン屋だった。長年、この住宅街に住んでいるが、こんなパン屋は知らなかった。新しく出来た店かもしれない。店の名前は福音ベーカリーというらしいが、福音ってどういう意味なのか全くわからなかった。どこかで聞いた事のあるような言葉だ。たぶん、クリスマス時期に聞いたような記憶があるが、全く思い出せない。

 店の前には、黒板状の立て看板もあり、何か描いてあった。

「何、この絵……」

 絵は神様らしき男性と、ドレスをきている若い娘の絵だった。男の顔は描かれていないが、髭也髪の感じからして、すぐに神様だとわかる。日本の神様というよりは、西洋の神様のような雰囲気だった。若い女性は、まるでお姫様のような白いドレスに身を纏い、神様と見つめあって幸せな表情を浮かべていた。

 その絵の上には「クリスマスは、キリストの花嫁になろう!」と書いてあった。何の事だかさっぱりわからないが、少女漫画もたいな可愛い絵で、嫌な感じはしない。

 キリストとあるので、おそらく宗教関係だろうが、その絵から滲み出る幸せオーラは、悪いものには見えなかった。もっとも宗教は胡散臭く、良い印象は無いが、母の知り合いにクリスチャンがいた。母は化粧品の営業をやっていたが、会社がブラックでプライベートでも知り合いに営業をやっている事はあった。そんな時、クリスチャンの知り合いは、一番高いぼったくり商品を契約してくれたそうだ。そのおかげで、宗教にはイメージは悪いが、こういった自己犠牲的なものは、悪い印象は全くなかった。

 その印象のお陰かはわからないが、真雪はこのパン屋に入ってみる事にした。おい匂いを嗅いでいたらお腹も減ってきたし、あの黒板に描かれたイラストも気になった。キリストの花嫁ってなんだろうか。

 店の中は、想像以上に狭かったが、イートインスペースもあり、居心地の良さそうな雰囲気だった。なぜかイートイスペースには、柴犬が寝そべっていたが、看板犬かもしれない。暖かみのあるオレンジ色の照明のおかげで、今が冬に近い季節である事を忘れそうになった。

 クリスマスムードも溢れ、ツリーやリースなども飾られていた。アドベントカレンダーカレンダーは、聖書の言葉も書かれていた。明らかにキリスト教関係者だが、クリスマスの華やかな雰囲気のおかげで、宗教的な悪いイメージは全く浮かんでこなかった。

 店の中央にあるテーブルには、パンが並んでいた。こちらもクリスマスなのか、シュトレン、パネトーネ、パンドーロが全面に推されていた。クリスマスクッキーもあり、ツリーやリースにデコレーションされてていて華やかだった。天使がデザインされたクッキーもあり、メルヘンな雰囲気だ。ここを見ているだけでも、気分が華やぎ、婚活の悩みが吹き飛んでいきそうだった。

「いらっしゃいませ!」

 そこにトレイを持った店員が現れた。トレイの上には、焼きたてのパンがあった。手の平サイズだったが、人型のパンで見たこと無いものだった。ちゃんと顔もついていたので、さほど怖い印象の無いパンだが、気になる。

 店員もまだ二十歳そこそこの若い男だったが、イケメンだった。幼い雰囲気は否定できないが、その分、純粋さが透けて見えているような男だった。悪く言えば子供っぽいが、巣立ちしたばかりの雛鳥のような雰囲気の癒し系で、真雪は思わず微笑んでしまった。白いコックコートの胸元には「知村柊」と刺繍されているのが見えた。柊という名前らしい。

「このパン、何?」

 真雪はイケメンよりもパンの方が気になっていた。花より団子ならず、花よりパンだ。

「このパンは、ヴェックマンというドイツのパンです。聖マルティンを祝っているパン」
「へぇ。というと、キリスト教関係者なのね」
「関係者っていうか、会社員というか」
「は?」
「いえいえ、何でもないです。宗教の話題してもいい? 嫌いな人も多いから」

 いちいち確認をとる柊は、誠実そうに見えた。背も低めで幼い雰囲気の柊だが、接客は向いていそうだった。

「いいよ。宗教は気持ち悪いけど、クリスマスだからね」
「ありがとう! じゃあ、ちょと豆知識話すよ。この聖マルティは、寒い冬の日、貧しい人の自分のマントを分け与えたんだ」
「へー」

 宗教は気持ち悪いが、こういった自己犠牲エピソードは素直に良いと思う。

「うん。で、マルティンは、その後、夢にイエス様が出てきて、司祭になったとか。いい話だよね〜。このヴェックマンも、マルティンを祝ったものでね」
「へー」

 豆知識は意外と面白く、ついついこのヴェックマンを買ってしまった。宗教は気持ち悪いが、こういうヨーロッパ的な文化は悪くはない。そてに、このパン屋にいたら、婚活のこともすっかり忘れていた。

「では、良いクリスマスを!」

 パンを買うと、厨房からもう一人の店員も出てきて、丁寧に見送くられてしまった。宗教に良いイメージはなかったが、美味しいパンとクリスマス、それにイケメン店員に限っては悪くない。もう一人の店員も色黒でガタイは良い男だったが、眉毛が凛々しク、顔は良かった。

 それにしても、キリストの花嫁ってどういう意味だったんだろう。家に帰ってヴェックマンを食べながら、真雪は首を傾げていた。ヴェックマンはフワフワなロールパンのような食感で、想像以上に美味しかったが。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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