第154話 良心とマリトッツォ(3)

文字数 2,379文字

 福音ベーカリーは、教会の隣にあった。赤い屋根とクリーム色の壁が印象的で、イチゴのショートケーキを連想してしまった。パン屋からも甘いメープルシロップのような、バターのような香りもし、食欲が刺激されていた。疲れて具合が悪いが、美味しいものは食べられそうで矛盾している。風邪を引いた時、必ず母にシュークリームやケーキをねだっていた。具合が悪くてこ生クリームだけは、するっと食べられてしまう。

 店の前には、ミントグリーンのベンチもあり、そこに柴犬が座っていた。垂れ耳の可愛い柴犬で、思わず小夜も目尻が下がってしまう。やっぱり自分がしている事は正しくはないんだろうか。やっぱり行くのはやめようかと思うが、首を振り、そんな思考を無理矢理追い出す。

 店の前には、黒板式の立て看板もあり、何か書いてある。おススメのパンではなく、何か言葉が書いてあった。

「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。創世記1:26 より。

 人は神様の似姿によって創られました。人の正義感、優しさ、思いやり、良心も神様に似たところなんでしょう。美味しいものをそう感じるのも、神様に似てるから?」

 そんな言葉の横に、パンを美味しそうに食べている女の子のイラストが描いてある。少女漫画ティストの絵で、可愛らしい。今の店主は若い男と聞いているが、メルヘン趣味なのだろうか。このパン屋の雰囲気もだいぶ、メルヘンだったが。

「う、何か気持ち悪くなってきた」

 なぜか胸がムカムカとしてきた。黒板の文字、特に聖書からの引用した言葉を見ていたら、自分の中にある、良心がチクチク刺激されてくる。今、やってる事本当に正しいのか。いや、正しくはない。絵名の仕事のやる方に疑問がある癖に、一言も意見すら言えない自分が情けなくなってきた。

「お客様!」

 そこにパン屋から、店員が出てきた。噂通り、大人しい雰囲気のイケメンだった。パン屋だけあり、体格は良いが、顔つきは知的な雰囲気だった。若干三白眼気味の目が、その印象を強めていた。白いコックコートの胸元には、橋本瑠偉という刺繍がされている。そういえば、この店主は瑠偉という名前だった。

「お客様、どうされました? 顔が真っ青ですよ」

 瑠偉はとても心配した声をあげていた。低く、ベースのように落ち着いた声だった。

「いえ、少し具合が悪くなってしまって」
「だったら、お水かお茶でも出しますよ。うちのイートインで少し休みましょう」
「いや、でも」
「お金なんてとりませんから」

 最初は断ったが、瑠偉に手を引かれて、店の中に入り、イートインの席に座らされた。店の中は案外涼しく、座っているだけで少し良くなってきた。イートインのテーブルは水玉のクロスがかけられ、可愛いヒヨコの小物も飾ってある。イートインというよりカフェのような雰囲気もある。店内にあるパンも気になるが、今はカレーパンやあんぱんなどを食べたい気分ではない。

「お客様、水とお茶です」

 瑠偉は、紙コップに入ったそれを、小夜の目の前のテーブルにおく。なぜか瑠偉も、小夜の隣の席に座った。

 側でみる瑠偉は、意外とまつ毛も長く、鼻も高めだった。雰囲気は大人しそうなイケメンだったが、細かいパーツが芸術品のように綺麗だった。歯並びもいい。今もまだマスクをしている人が多いが、瑠偉はマスクなどしない方がいいかもしれない。本来の目的をそっちのけで、そんな事を考えてしまう。

 水は冷たく、舌や喉に染み込む。わざわざお茶も用意してくれたと思うと、さらに小夜の中にある良心は痛んでいた。

「ありがとう。でも、何にも得にならない人を助けていいの?」

 それぢどころか、小夜は害をなそうとしている人物だった。

「俺たちは、てん、いやクリスチャンですからね。善きサマリア人の例え話に従い、誰でも平等に助けます」
「善きサマリア人?」
「ええ。宗教家とかは困ってい人を無視しましたが、善きサマリア人だけは、何の得にもならない人を助けたっていう話が聖書に載っています。そもそも神様も、全員を助けましたからね。自分を犠牲にして」

 宗教は気持ち悪いと言いたくもなったが、この例え話を聞いていたら、小夜の心は、罪悪感でかなり痛んでいた。

「でも、人間の心って悪いとも思う。表の看板に、神様に似せて創られたってあるけど、悪い心があるのは、なぜ?」
「それは、けっこう長い話になるよ。短いバージョンがいい? ショートバージョンがいい?」
「ショートバージョンで」
「わかりました。アダムとイブが悪魔に騙されて、人類は善悪を自分で判断するようになってしまった。だから、何が良い事か悪い事か、人それぞれになり、人の心は自分、自分、自分。エゴに塗れてしまったんですね」

 アダムとイブの話は、どこかで聞いたことがあった。

「神様が創ったものは、本当は全部良いものでした。自然も毒とかもなかったし、動物も共食いもしなかったし、人間が殺して食べる必要もなかったね」
「そうなんだ」

 宗教は気持ち悪いとも言えない雰囲気になってきた。人の心の弱さというか、エゴについては、心当たりもあり、胸が痛い。こうして絵名の命令に断れず、悪い事の片棒を担ぐ自分は、良心ではなく、エゴの方に心が言っていたとしか言えないだろう。

 そんな話をしていたら、お腹がなっていた。瑠偉と話していたら、いつのまにか身体は良くなってきたようだった。店内に広がる甘くて香ばしい香りが、食欲を刺激していた。

「お客様、何か一つパン食べます?」
「いいんですか?」
「もちろん。乗り掛かった船です。具合歩くて疲れた人を放って置けませんし」
「シュークリームかケーキみたいのないですか? 具合悪い時って、生クリーム食べたくなるんですよね」
「パン屋さんにそれ言うかな。まあ、生クリームだったら、あれか……」

 瑠偉は厨房に一旦戻っていった。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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