第31話 穴の空いたドーナツ(4)完

文字数 1,660文字

 翌日、昼過ぎ。美穂子は福音ベーカリーの店の前にいた。住宅街に埋もれるようにあるパン屋だった。叔母の家からは五分も歩かずに到着した。

 クリーム色の壁に、赤い屋根の外観はメルヘンな雰囲気のパン屋だった。赤い屋根は青い空と対比され、SNS映えしそうな雰囲気もある。福音ベーカリーという看板も出ていたが、全部英語の店名にしたら、もっとSNS映えしそうではあった。

 店の前にあるミントグリーンのベンチには、柴犬が座っていた。よく躾された大人しい柴犬のようで、美穂子が隣に座っても、騒がれる事はなかった。

 ベンチのそばにある黒板状の立て看板には、この柴犬のイラストも描いてあった。カレーパンやコッペパン、サンドイッチのイラストとともに、聖書の言葉も書かれていた。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(新約聖書 マタイ11:28〜30」

 黒板の手書きの文字を見ていたら、なぜか泣きたくなるようだった。意味は全くわからないが、心の空洞にこの言葉が一つ一つが積もっていく感覚がした。単なる言葉なのに、まるで生きているかのような力強さみたいなものは感じた。言霊ってやつだろうか。

「ねえ、この言葉なに? 何だと思う? 普通の言葉とどこか違うみたいなんだけど?」

 隣にいる柴犬に聞いても答えはない。小さく吠え、ニコニコ笑っているように見えた。昼過ぎの暖かい日差しに、気が抜けてきた。

 ちょうどそこに店員が店から出てきた。叔母行言った通りのイケメン店員のようだ。色素が薄めの二十五歳ぐらいの男性だった。確かの王子様っぽいが、職人っぽい白いコックスーツもよく似合っていた。見かけに合わず中身は仕事大好きなワーカーホリックかもしれない。こういったタイプは音楽業界にもよくいた事を思い出す。

 かくいう美穂子も外見はフワフワしてうたが、仕事中の中身は完全に男だった。泣き言なんて決して言えないし、言いたくもなかった。操り人形だったのに、人並みのプライドだけはあったようだった。いくら男女平等といっても、女だから舐められる事は日常茶飯事だった。思えばずっと走り続けていた。息切れをおこし、再起不能になる前に、しばらく今は休む時期なのかもしれない。あの言葉のように休ませてくれるのなら……。

「あれ、戸田美穂子ちゃん?」
「バレた。面倒くさいから、他人のフリしていい?」

 店員は、グイグイと美穂子の隣に座ってきた。人懐こいというか、案外図々しいタイプらしい。パンの甘い香りがした。よく見ると、白いコックコートの胸元には、名前が刺繍されていた。天野蒼という名前らしい。

「ねえ、ドーナツって何で穴空いてるの?」
「さあ。でも、そういう風にできてるからさ」
「ふーん」

 蒼は美穂子が知りたかった答えは、安易に教えてくれないようだった。

「人間の心もそうなの? そういう風に出来てるの?」
「うん。そうじゃないと神様が必要じゃないでしょ? 人間は完璧じゃないんだよ」

 チラリと蒼は、あの言葉が書かれた看板に目をやる。看板は、太陽の日差しを浴び、キラキラと光っているように見えた。

「美穂子ちゃん。香織さんから聞いたよ。毎日暇なんだってね」
「うん、暇。仕事干されたしね」
「だったら、讃美歌でも歌わない?」

 蒼は、鼻歌で何か歌っていた。

「主は良いお方〜。私の一生を良いもので満たす〜」

 その優しい声に、柴犬はすっかりリラックスし、目尻を下げていた。

「下手くそ。音程ズレてるよ?」

 この声も、すっと心の穴の染み込むようで、泣きたくなってくる。でも人前で泣き顔なんて見せたくない。そんな気持ちを誤魔化すように、悪態をついてしまった。

「うーん、やっぱりプロは厳しいね」

 蒼は美穂子の悪態など全く気にせず、再び何かを口ずさんでいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み