第142話 全く罪じゃないバターブレッド(4)完

文字数 2,541文字

 店員の名前は、橋本瑠偉というらしい。白いコックコートの胸元にそう刺繍されていた。頭には白い帽子、腰にも白いエプロンをつけていて、一目でパン職人とわかる。職人らしく腕や手もしっかりとしていて、体格も良かった。

 年齢は二十三歳ぐらいだろうか。黒く深い海のような目が印象的で、よく見ると堀が深い。イケメンというには、知的さや落ち着きさが上回る。ちょっと古臭いが二枚目と言いたくなる。そう言えば昔の文豪とも雰囲気が被る。コックコートも似合ってるいるが、着流しもかなり似合いそうな雰囲気だった。

 それでも何故か色気が全くない。なぜかアイドルのようにキャーキャー騒がれているところは想像できない。多分、顔が整いすぎて隙がないから色気がないのだろう。

「お客様、何かパンをお探しですか?」

 瑠偉は、少し距離をとりながらも蘭子の隣に座り、質問してきた。

「いや、パンっていうか。私、グルテンフリーもやっていて」
「あー、うちのパンの小麦粉は農薬も遺伝子組み換えもやってないから大丈夫です。これ、バターブレッドの試食ですが、どうでしょう?」
「え、でも」

 瑠偉は、小さなバスケットに入ったバターブレッドをこれみよがしに見せてきた。食べやすいように小さく切っているが、デニッシュ生地のようで、ふわっと甘いバターの香りがする。色も黄金色に輝いている。かなりバターを使っているようだ。コンビニで見た罪深いバターブレッドより、かなり美味しそうだった。コンビニのは、あまりバターは使っていないように見える。

 それに瑠偉の指先が綺麗だった。確かに職人なので、全体的にゴツっとはしているが、指先はすらっと長めで、思わず目が奪われていた。

「で、でも。バターブレッドなんて罪深いですよ」

 あのコンビニにある罪深いバターブレッドが頭に浮かぶ。いくらオーガニック素材でも、完全に安心して食べられない。

「いえ、バターブレッドは罪ではありません!」

 どちらかと言えば大人しそうなイケメンが、強く主張するので、蘭子は目を瞬かせていた。

「俺は、てん、いやクリスチャンですが、一般的な罪と聖書でいう罪の概念は違うのです」
「へー、どんな風に?」

 そう言えば自然派ママにコミュニティではクリスチャンも何人かいるのを思い出したが、彼女達は恥ずかしがり、あんまりそう言った話題はしなかった。逆に瑠偉は妙に堂々としている。

「罪って神様から心が離れる事なんです」
「えー? 清く正しくない事じゃないの? クライムじゃないの?」
「ええ。だから、パンを罪深いなんていう事はおかしいんです。むしろ、自分の欲もコントロール出来ずに何でも他のものせいにするのが、良くないですね。神様が心にいないから、自分勝手に欲深くなるんです。ちょっと不幸な目にあえば、神様のせいにしたりするのは、完全に罪です。あと、神様以外のものに依存したり、崇めるのも」

 そういう事なのかと、意外と納得してしまった。自分の中にも、人のせいにしたり、何かのせいにする心はある。自分の健康も食べ物や環境のせいにばかりしていた。

 確かにバターブレッド自体は、何も悪くない。他の食べ物も、蘭子自身が一方的にジャッジして嫌ったり、避けたり、禁止しているだけだった。それ自体は、何か悪さをしてるわけでもなく、何も善悪も判断できないのに、自分のフィルターだけで全部見ていた気もする。

「なんか、私も人のせいとかにしてたかも……」
「あ、違うんです。お客様を責めてるわけじゃないですから!」

 瑠偉は慌てて否定して頭を下げた。

「あの、看板は何? 聖書?」
「お客様は差別的な視線をぶつけて来ないので、ありがたいです。ええ、聖書です」
「毒にならないの?」
「ええ。クリスチャンは毒を飲んでも大丈夫です。市場にあるものは食べて良いって聖書に書いてますしね。もちろん、神様から貰った身体を大切にする為に健康に良いものを食べるのは必要ですが」

 それは全く信じられないし、宗教というか、カルトっぽいと思ったりしたが、瑠偉はやけに自信満々に胸を張っていた。

「でも、私はクリスチャンではないし、添加物とか農薬とか怖いよ」
「クリスチャンが作ったものも、安全ですよ。修道院のクッキーやジャムも無添加でしょう」
「本当にー?」

 思わずジトッとした目をで、瑠偉の顔を見てしまうが、なぜか心を縛っていた恐怖心みたいのが解けてきた。

「試食していい?」
「どうぞ」

 蘭子は、瑠偉の持つバスケットの中から、バターブレッドを摘む。

 おそるおそる口に入れる。ふわっとバターの香りがしたと思ったら、デニッシュ生地の食感が美味しい。久々に食べた小麦粉のパンは、想像以上に美味しかった。この小麦粉は、悪いものではなさそうだ。どこのオーガニック素材か謎だが、昔食べたパンより単純に味も良かったし、食べていると、何だか心が休まってきた。やはり、特別な素材で作られているのかもしれない。

「美味しい……」

 必死にグルテンフリーをし、ベジタリアンもやってバターも牛乳も卵も避けていたのに、このバターブレッドは、素直にそう言うしかなかった。

「ね、美味しいよね。だから、バターブレッドは、全く罪では無いでしょう?」
「そうかも……」

 キリスト教的な罪の概念は、よくわからない所もあるが、確かにこのバターブレッドは全く罪じゃない。

「グルテンフリーやベジタリアン、少しお休みしてもいいかな」
「賛成です。食べ物が苦痛になるぐらいなら、お休みするのも良いと思います。神様もせっかく美味しい食べ物を創造してくれましたから、喜んで食べるのが一番です。何か禁止して心を縛らず、いつも喜んで食べ物を食べてください。それも神様が望まれている事ですよ」

 そんな事を言われてしまうと、肩の荷が降りてくる。グルテンフリーやベジタリアンも義務感ではなく、喜びや感謝の気持ちで行った方が良いとも思う。

「あの、パン買いたいです。息子や主人にお土産買っていきたいし」
「もちろんです! どうぞ、どうぞ」

 瑠偉はパン屋の扉を開けてくれた。また、ふわりと良い香りが鼻をくすぐる。

 気づくと、恐れや義務感みたいなものは消えていた。これからどんなパンを選ぼう。ワクワクした気持ちで、福音ベーカリーの中に足を踏み入れた。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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