第30話 穴の空いたドーナツ(3)
文字数 2,399文字
夕方、叔母が福音ベーカリーの袋を片手に帰ってきた。
結局、この日も美穂子がダラダラとSNSを閲覧し、YouTubeを見て、ソファの上で怠惰極まりない時間を過ごして終わった。福音ベーカリーに行く気にはなれなかった。おそらくクリスチャンがやっているパン屋だと思うと、過去の自分の行いを思い出してしまう。
「美穂子ー。今日は仕事忙しくて疲れちゃったわ。今日の夕飯はパンでいい?」
「う、うん」
食卓は叔母が買ってきたパンで溢れていた。カレーパン、サンドイッチ、塩バターパン、フレンチトースト、それにドーナツもあった。
「なんでこんなに買ってきたの?」
「買ってきたというか、賞味期限近いからって全部タダでくれたのよ。食品ロス出すのが嫌なんですって。明らかに貧困そうな女性なんかも貰ってたわね」
「へー」
「店員が超イケメンだったけど、多分金持ちも御曹司とかよ。副業でパン屋やってるとか言ってたし、道楽でやってるかもね」
噂好きの叔母はぺちゃくちゃと福音ベーカリーの店主について話していた。仕事では顔の良い人間をよく見ていたが、女の扱いが悪いものばかりだった。叔母のように無邪気にイケメンだとはしゃげない。
「道楽でパン屋か。美味しいのかね?」
美穂子は疑いつつも、サンドイッチの包みをあけてみた。どっさりと卵サラダが入っているサンドイッチだった。濃厚な卵サラダとふわふわのパンの食感は、不味くはない。道楽でやっている割には、味は良い。
叔母はカレーパンを食べてニコニコ笑っていた。職業柄、味覚が鋭い叔母が笑って食べているという事は、このカレーパンも不味くはないのだろう。確かにサクサクしたカレーパンの表面を見ていると、こっちを選んでもよかったかもしれないと後悔するほどだった。
「福音ベーカリーの店員って、どんな感じのイケメンなの?」
「色素薄いタイプで王子様って感じよー。でも体格は良くて、逞しい感じもあるわ。今度美穂子も行ったらいいんじゃない?」
「イケメンは見慣れてるんだよね」
「贅沢ねー。あと可愛いワンコもいた。柴犬で、あの子は超可愛いかったね」
イケメンには興味はないが、柴犬は興味がある。最近美穂子は、猫の犬のYouTube動画ばかり見ていた。動物は見ているだけで癒される。人間と違ってSNSで悪口言ったり、人の不倫にとやかく言わない。何で会った事もない他人の不倫をとやかく言えるんだろう。関係者ならともかく、赤の他人の恋愛事情など、どうでも良いはずだが。その点動物は、生きるのに一生懸命だ。人間なんかより、よっぽど命を大事にしてる。
「美味しい」
「うん、叔母さん。パンの味は悪くはないね」
こうして叔母と一緒に黙々とパンを食べた。正直、叔母と共通点もなく、あまり話題も盛り上がらない。
食卓にあるパンは順調になくなり、最後にドーナツだけになった。オールドファッションドーナツと、ストロベリーチョコレートがかかったドーナツだった。
そういえばドーナツは、仕事の撮影の小道具で使った事がある。片目をドーナツで隠すのだ。おそらく何かのオカルトシンボルだと思われるが、プロデューサーの命令だったので逆らえなかった。他にもバンドサインなど色々やらされたが、全部プロデューサーの命令だったので逆らう事はできない。当時の事を思い出すと、自分は本当に操り人形だった。あの業界で成功できるのは、実力は当然必要だが、プラスしてこういう柔順さが必要だった。何の夢もない世界だ。インディースで好きに配信などやっていた同業者の方がよっぽど楽しそうだった事も思い出す。
ドーナツの空いた穴を見ていると、自分の心が可視化されたようだ。死にものぐるいで努力し、夢を成功させたのに、何か全く埋まらない空洞が心の内にある気がした。
「うん? 美穂子、ドーナツ食べないの?」
「あ、うん、そうじゃなくて、何でドーナツって穴空いてるのかなって」
「ああ、それはね」
叔母は、ドーナツの穴が空いてる理由を四つ説明してくれた。所説あるようで、確かな情報ではないが、一つは真ん中に穴をあけて火の通りを良くするため。二つ目は、昔の船長が操舵輪に引っ掛ける為に穴を開けた。三つ目は、ヨーロッパでは中央に胡桃入りのドーナツが主流だったが、アメリカでは胡桃が取れないので中央に穴を開けた。四つ目は、インディアンが放った矢がドーナツの中央に刺さった説。
「私は、一つ目の生焼け説だと思うのよね。実際、どんな料理も生焼けって気を使うし」
「ふーん」
料理を職業にしていた叔母の言うことは、説得力があった。
オールドファッションドーナツを齧ってみる。表面はサクサクしているが、中見が生地がびっちり詰まっていて美味しい。ほんのりとバニラのような甘い香りに気が緩んでいた。
「そういえば、福音ベーカリーのイケメン店員は、ドーナツをお店に出しながら、変な事言ってたわ」
「変な事?」
「ええ。人間は元々心に穴が空いた状態で生まれてるんですって。まるで、ドーナツみたいな心なんだって。どういう意味かしら?」
叔母は首を傾げていたが、美穂子だってよくわからない。
その夜、何となく福音ベーカリーのSNSを見てみた。オールドファッションドーナツやチョコドーナツの画像とともに聖書の言葉が引用されていた。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。(伝道者の書1:2〜3)」
聖書など全く興味がない美穂子だったが、この言葉だけはスッと心に入ってきた。まるで、美穂子にある心の穴の中に食い込むような感覚だった。
過去の仕事や今日食べたドーナツの甘い味、プロデューサーの顔が浮かんでは消えていく。これからの事は全くわからないが、再び操り人形に戻るのだけは、嫌だった。
次の日は、この福音ベーカリーに行こうと思った。何か答えが見つかりそうな気がした。
結局、この日も美穂子がダラダラとSNSを閲覧し、YouTubeを見て、ソファの上で怠惰極まりない時間を過ごして終わった。福音ベーカリーに行く気にはなれなかった。おそらくクリスチャンがやっているパン屋だと思うと、過去の自分の行いを思い出してしまう。
「美穂子ー。今日は仕事忙しくて疲れちゃったわ。今日の夕飯はパンでいい?」
「う、うん」
食卓は叔母が買ってきたパンで溢れていた。カレーパン、サンドイッチ、塩バターパン、フレンチトースト、それにドーナツもあった。
「なんでこんなに買ってきたの?」
「買ってきたというか、賞味期限近いからって全部タダでくれたのよ。食品ロス出すのが嫌なんですって。明らかに貧困そうな女性なんかも貰ってたわね」
「へー」
「店員が超イケメンだったけど、多分金持ちも御曹司とかよ。副業でパン屋やってるとか言ってたし、道楽でやってるかもね」
噂好きの叔母はぺちゃくちゃと福音ベーカリーの店主について話していた。仕事では顔の良い人間をよく見ていたが、女の扱いが悪いものばかりだった。叔母のように無邪気にイケメンだとはしゃげない。
「道楽でパン屋か。美味しいのかね?」
美穂子は疑いつつも、サンドイッチの包みをあけてみた。どっさりと卵サラダが入っているサンドイッチだった。濃厚な卵サラダとふわふわのパンの食感は、不味くはない。道楽でやっている割には、味は良い。
叔母はカレーパンを食べてニコニコ笑っていた。職業柄、味覚が鋭い叔母が笑って食べているという事は、このカレーパンも不味くはないのだろう。確かにサクサクしたカレーパンの表面を見ていると、こっちを選んでもよかったかもしれないと後悔するほどだった。
「福音ベーカリーの店員って、どんな感じのイケメンなの?」
「色素薄いタイプで王子様って感じよー。でも体格は良くて、逞しい感じもあるわ。今度美穂子も行ったらいいんじゃない?」
「イケメンは見慣れてるんだよね」
「贅沢ねー。あと可愛いワンコもいた。柴犬で、あの子は超可愛いかったね」
イケメンには興味はないが、柴犬は興味がある。最近美穂子は、猫の犬のYouTube動画ばかり見ていた。動物は見ているだけで癒される。人間と違ってSNSで悪口言ったり、人の不倫にとやかく言わない。何で会った事もない他人の不倫をとやかく言えるんだろう。関係者ならともかく、赤の他人の恋愛事情など、どうでも良いはずだが。その点動物は、生きるのに一生懸命だ。人間なんかより、よっぽど命を大事にしてる。
「美味しい」
「うん、叔母さん。パンの味は悪くはないね」
こうして叔母と一緒に黙々とパンを食べた。正直、叔母と共通点もなく、あまり話題も盛り上がらない。
食卓にあるパンは順調になくなり、最後にドーナツだけになった。オールドファッションドーナツと、ストロベリーチョコレートがかかったドーナツだった。
そういえばドーナツは、仕事の撮影の小道具で使った事がある。片目をドーナツで隠すのだ。おそらく何かのオカルトシンボルだと思われるが、プロデューサーの命令だったので逆らえなかった。他にもバンドサインなど色々やらされたが、全部プロデューサーの命令だったので逆らう事はできない。当時の事を思い出すと、自分は本当に操り人形だった。あの業界で成功できるのは、実力は当然必要だが、プラスしてこういう柔順さが必要だった。何の夢もない世界だ。インディースで好きに配信などやっていた同業者の方がよっぽど楽しそうだった事も思い出す。
ドーナツの空いた穴を見ていると、自分の心が可視化されたようだ。死にものぐるいで努力し、夢を成功させたのに、何か全く埋まらない空洞が心の内にある気がした。
「うん? 美穂子、ドーナツ食べないの?」
「あ、うん、そうじゃなくて、何でドーナツって穴空いてるのかなって」
「ああ、それはね」
叔母は、ドーナツの穴が空いてる理由を四つ説明してくれた。所説あるようで、確かな情報ではないが、一つは真ん中に穴をあけて火の通りを良くするため。二つ目は、昔の船長が操舵輪に引っ掛ける為に穴を開けた。三つ目は、ヨーロッパでは中央に胡桃入りのドーナツが主流だったが、アメリカでは胡桃が取れないので中央に穴を開けた。四つ目は、インディアンが放った矢がドーナツの中央に刺さった説。
「私は、一つ目の生焼け説だと思うのよね。実際、どんな料理も生焼けって気を使うし」
「ふーん」
料理を職業にしていた叔母の言うことは、説得力があった。
オールドファッションドーナツを齧ってみる。表面はサクサクしているが、中見が生地がびっちり詰まっていて美味しい。ほんのりとバニラのような甘い香りに気が緩んでいた。
「そういえば、福音ベーカリーのイケメン店員は、ドーナツをお店に出しながら、変な事言ってたわ」
「変な事?」
「ええ。人間は元々心に穴が空いた状態で生まれてるんですって。まるで、ドーナツみたいな心なんだって。どういう意味かしら?」
叔母は首を傾げていたが、美穂子だってよくわからない。
その夜、何となく福音ベーカリーのSNSを見てみた。オールドファッションドーナツやチョコドーナツの画像とともに聖書の言葉が引用されていた。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。(伝道者の書1:2〜3)」
聖書など全く興味がない美穂子だったが、この言葉だけはスッと心に入ってきた。まるで、美穂子にある心の穴の中に食い込むような感覚だった。
過去の仕事や今日食べたドーナツの甘い味、プロデューサーの顔が浮かんでは消えていく。これからの事は全くわからないが、再び操り人形に戻るのだけは、嫌だった。
次の日は、この福音ベーカリーに行こうと思った。何か答えが見つかりそうな気がした。