第186話 復活のコロンバ(4)完

文字数 2,706文字

 一子は福音ベーカリーから、事務所に帰っていた。

 クライアントと会うために事務所には、ソファも置いてある。そこに座り、瑠偉から受け取った紙袋の中身を開ける。

 中にはケーキのような大きなパンが入っていた。包み袋を開くと、羽ばたく鳩を模したパンが入っていた。表面はザラメとアーモンドが埋まったマカロン生地だった。まるで雪溶け道のような色合いで、確かに春のイースターにはピッタリなパンなのかもしれない。確か瑠偉はイースターのコロンバというパンだと話していた。

 端の方を包丁で切り分け小皿の載せる。生地は黄色というよりオレンジ色。卵とバターがたっぷりと使われているようだった。中身はふかふかで、口に入れると柔らかな甘味が広がった。オレンジピールも入っているようで、どこか爽やかな口当たりだった。

 表面のマカロン生地はザクザクとしたザラメで、食感も楽しい。

 確かにコロンバは普通に美味しかったが、食べていると徐々に罪悪感も覚えていた。蛇に命令されていたとはいえ、クライアントに何人かは借金漬けにもしていた。全部嘘の情報を発信し、不幸になった人も多いのでは無いかと考え始めていた。あのパン屋の近くにあった貧困層の家も目に浮かんでは消えていく。何より、蛇の言うことを聞いて成功しているのに何も楽しくもない。自分の心はすり減っている感覚がした。

 こんな美味しいパンなど、食べる資格は無いのかもしれない。訳もわからず涙が出て来た。宗教やキリスト教の概念などは全く分からないし、正直気持ち悪いが、自分は何か間違えている気がしていた。

「もう嫌。こんな事もうしたく無い……」

 気づくと、そんな言葉も溢れていた。

「蛇、もうやめて。契約、解消して!」

 しかし、蛇は一子の要望など聞く事はなかったその身体で一子の首を絞めてきた。なぜか今回は肉体へリアルな攻撃もあり、息ができない。

『ふざけるな! 福音ベーカリーの奴らに何か感化されたか? 絶対許さない! 裏切り者!』

 これが蛇の本性だったらしい。いつものような甘い声ではなかった。まるで、鬼や悪魔のような声だった。

 首を絞められた一子は、息もできず、意識を失っていた。この時初めて蛇に騙されている事に気づいた。宗教とかキリスト教は全くわからないが、こう言った存在が悪霊というのは、間違いでは無いかもしれない。

 意識を失った一子は、何処かの地下鉄に乗っているのに気づいた。電車の中は暗く、みな一様に二重マスクをつけ、スマートフォンに釘付けになっていた。リアルな世界とそっくりだったが、どうやら夢の映像のようだった。

 蛇からの攻撃は相変わらず続き、身体に巻き付いていた。引き離そうとしても、すぐに絡みつき、身体を縛られた。電車に乗っている他の乗客も、一子と同じく蛇が巻きついていたが、スマートフォンで漫画やゲームに夢中になり、誰も気づいてはいなかった。

『悪魔の奴隷の皆様、地獄行き列車の乗り心地は如何ですか?』

 車内放送が流れた。

 地獄?

 ドアの側にある車内電光掲示板には、はっきりと地獄行きと書いてある。この電車は一体何か、一子は恐怖で手の平が汗で滲んでいた。

「地獄ってどういう事?」

 一子は思わず叫んでしまった。他の乗客は相変わらずスマートフォンで漫画やゲームに無茶で、一子の叫び声など無視されていた。乗客はどんどん増えて行き、しまいには満員電車になった。一子は人々に押しつぶされ、蛇にも絡まれているので、呼吸が全くできない。電車の乗客をよく見ると、経営者で成功している者や有名な医者、政治家や芸能人もいた。全員蛇に縛られていたが、スマートフォンに夢中で、誰もこの異様な状況に気づいていなかった。

『あと少しで地獄に到着します。悪魔の奴隷の皆様、覚悟はいいですか?』

 電車の灯りも落ち、辺りは暗闇になった。何か異様な匂いもする。昔あった地下鉄サリン事件を思い出し、恐怖で涙が止まらなくなってきた。

「助けて……」

 このままだと死ぬ。地獄に行くかはわからないが、息が苦しく、死にそうだった。

 ふと、瑠偉が神様の名前を言って助けて貰えてと言っていた事を思い出す。もう喉はカラカラで声も出そうになかったが。こんな時だけ神に頼ろうなんて、虫が良すぎる気もした。それでも他に頼れる人も思い浮かばない。

「イエス様、助けて!」

 振り絞るように叫んだ瞬間だった。

 この悪夢が終わった。いつもの事務所の一室の戻ってきたようで、テーブルも上には食べかけのコロンバが放置されていた。かなり時間が経ってしまったようで、コロンバの中見はパサパサと乾燥していた。驚いた事に三日もの時間が経過していたようで、事務所の窓からは朝の眩しい光がさしこんでいた。遠くから小鳥の鳴き声も聞こえる。

「ゆ、夢か……」

 しかしリアルな悪夢だった。それに神の名前を口にしたとたん、元に戻れた。今は蛇を呼んでも、なぜか全く姿を表さない。

「本当に、蛇は悪魔だったかもしれない……」

 安堵で力が抜け、一子はその場で泣き崩れていた。宗教の詳しい事はわからないが、あの蛇は悪魔で、神様は本当のいるかもしれないと思っていた。

 まだ悪夢を見ていた時の恐怖で心臓はドキドキとしていたが、生き返れた事に、身体の力も抜けている。

 まだ、わからない事はいっぱいある。再び福音ベーカリーの行く必要はあるようだ。一子は仕事もキャンセルし、慌てて身支度を整えると、福音ベーカリーへ直行した。

 なぜか、霊視もできなくなっていた。福音ベーカリーの外観を霊視しようとしても、全く見えない。店の前にある黒板式の立て看板には、こんな聖書の言葉が引用されていた。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。新約聖書ヨハネの福音書十五章十六節から十七節より」

 その言葉をまじまじと見ていると、確かに自分で選んでここに来た気がしていなかった。むしろ、誰かに導かれているようだった。もちろん、瑠偉や誰かに強制されたり、無理矢理勧誘されて来たわけでも無い。強いていえばこうなる運命のような気がしていた。

「行かなきゃ」

 誰かに背中を押されている気分だ。宗教とかキリスト教の概念とかは全くわからない。そのイメージも悪い。それでも瑠偉に聞けば何かヒントが掴めそうだった。

 一子は急いで福音ベーカリーの扉を開く。

「待ってましたよ、一子さん」

 瑠偉の明るい声が聞こえた。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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