第172話 共に食べる田舎パン(4)完

文字数 1,946文字

 店に入ると、ふわりと甘い香りが鼻に届いた。店の外にも風に乗っていた香りだが、店内はより良い香りに満たされていた。

 明るいオレンジ色の照明に、パンはてりてりと輝いているように見えた。店の中央にある大きなテーブルの上には、たくさんのパンが並んでいる。このパン屋は量より種類の方が豊富なので、こういった陳列の方が映えるだろう。いつもは平べったいクラッカーみたいな変なパンや三つ編み型のパンも多くあったが、今はイースターの時期なのか鳩型のコロンバンやゆで玉子が丸々入ってパン、ウサギの形のパンなども置いてある。特にウサギの形のパンは、子供に受けるだろう。

 ただ、香織はいい歳なので、イースターの派手なパンは気後れしてしまう。今はむしろ黒いライ麦パンや、パン・ド・カンパーニュという田舎パンが気になってしまった。特に田舎パンは、全粒粉とライ麦を混ぜて作り、皮はパリっとサクサクでスープとよく合う。サンドイッチにしても美味しいが、町のレストランで働いている時は、よく出していた事も思い出す。家族連れが食事をし、笑顔で「ごちそうさま!」と感謝されるのが何より嬉しかった。その笑顔を思い出していると、やっぱり自分が選んだ選択は間違いだとは思いたくなかった。家族や誰かと一緒の食事は、かけがえの無いものだろう。その手伝いを出来てたと思えば、何の後悔もなかった。

「香織さん! こんにちは」

 厨房の方から店員の瑠偉が現れた。相変わらずのイケメンだ。ただのイケメンというよりは、知的で落ち着きがある方だが、最近の香織の目からは若い人は全員同じ顔に見えたりする。若い人が好きそうな歌手などは、さっぱり名前も思いつかなかった。

 瑠偉は焼きたてのメロンパンをテーブルの上に陳列していく。瑠偉の手が大きめで指も長いので、メロンパンが小さく見えるほどだった。確かに焼きたてのメロンパンも惹かれるが、今は田舎パンが食べたい気分だった。確かに色は黒っぽくメロンパンやイースターのコロンバンのような派手さはないが、食事にピッタリなパンだった。

「瑠偉さん、田舎パンをスライスしてサンドイッチに出来る? あとイートインで食べるから、トマトスープとコーヒーも頼めるかしら?」

 香織はおっとりと優しく微笑みながら、瑠偉に尋ねた。頭の中は、過去、レストランで働いていた時のお客さんの顔ばかり浮かんでいた。

「かしこまりました。無料の麦茶もサービスしますね。しかし、本当に田舎パンでいいんですか? 地味ですよね」
「いえ、いいんです。今日は田舎パンの気分なのよね」

 香織はテーブルの上に陳列されている田舎パンを見ながら再び目を細める。

「香織さん、ちょっと豆知識語っていいですか。田舎パンってパン・ド・カンパーニュって言うんですよね。カンパーニュって本当は、共に食べるって意味ですね」
「へー」
「英語のカンパニーの語源もそうという説も。パンを一緒に誰かと食べるって大事です。キリスト教では、聖餐式という儀式があり、みんなと一緒にパンと葡萄酒(または葡萄ジュース)をいただくんです。一見宗教儀式ですが、これをすると、神様との関係も、隣人との関係も深まります」
「不思議ねー」
「ええ。食べる事は生きる事ですから。誰かと一緒に食べるのは、大事です。別にクリスチャンでもなくても、それはわかりますよね? 黙食とか辞めた方がいいですよ。早食いして健康にも悪い。俺は過剰な感染症対策は反対の立場です。特に若者や子供は黙食なんて必要ないでしょう」

 そんな事を言われてしまうと、今、一人で食事をしているのが、余計に寂しくなってしまうではないか。思わず下を向きかかけた時、真琴がヒソプを連れて帰ってきた

「瑠偉さん、ただいま。ヒソプの散歩から帰ってきました」
「わん」

 今日のヒソプは機嫌が良いのか、香織の足元により、小さく吠えていた。焼いたパンの色にそっくりなヒソプを見下ろすと、香織の表情も柔らかくなる。狭い店内はヒソプと真琴が帰ってきたので、一気に賑やかになった。

「あれ、香織さんも来てたんですか?」

 真琴は香織に気づくと、驚いたような表情を見せる。

「ええ。イートインでお昼ご飯食べようと思ってね」

 香織は賑やかになった店内で、少し大きな声を出して言う。

「だったら、真琴さんもみんなで一緒にイートインでお昼ご飯食べません? 真琴さんにはヒソプの散歩やってもらったし、全員奢る!」
「やった!」

 今日は妙に太っ腹な瑠偉に、香織も真琴も手を叩いて喜んでいた。なぜかヒソプも機嫌が良さそうに吠えている。

 この日、みんなで一緒に食べた田舎パンは、想像以上に美味しかった事は言うまでも無いだろう。黒っぽく見た目は地味、その上少し硬いが、噛みしめる度に幸せになれそうな気がしていた。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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