第169話 共に食べる田舎パン(1)

文字数 1,874文字

 東部香織は、生涯独身を貫く女だった。もう年齢は六十だが、昔の男社会では珍しく仕事をしていた。職種はレストランのシェフで、完璧な男社会だった。料理人口は女性の方が多いが、仕事として極めるシェフは圧倒的に男気が多かった。一つの事を極める事、圧倒的に男性の方が有利だった。

 性別で侮られる事も差別も受けた事もあるし、体力もキツい事も多かったが、町で小さなレストランのシェフをやっている時が一番幸福だった。その時のお客様で来てくれた依田という夫婦と仲良くなり、仕事を退職した後は、そこでお手伝いの仕事をしていた。シェフの仕事も好きだったが、体力は年々落ち、病気もいくつか見つかり、家庭で家族の料理を作る事も悪くない気がした。

 依田家は、近所でも有名な金持ち一家で、家も大きい。キッチンや冷蔵庫も大きく、調理器具や調味料も豊富に揃っていた。まるで夢のようなキッチンで、この仕事も気にいっていた。何より、依田家の一人娘の光が可愛かった。外見はクール系でサバサバしていると思ったが、中見は純粋で正義感の強い娘だった。野良猫や野良犬を拾ったり、時にはホームレスを家に連れてくる事もあったが、弱い者を放っておけない光を好ましく思っていた。高校生になったばかりの頃は親に反抗期などをしていて問題になった事もあるが、今は概ね平和だった。

 家には事情がある親戚の娘・戸田美穂子を預かったり、賑やかで楽しい生活を送っていたが、今年の春になって変化が訪れた。

 まず、美穂子が仕事復帰する為、都内に帰ってしまった。美穂子は色々事情があり、引きめる事ができなかった。次に香織の健康問題がある。三回目の注射を打った後、何故か右足が変になった。注射との因果関係は不明と医者に言われた。原因はよくわからず、杖をついて歩行する事になってしまった。医者によると、最近は原因不明で足に不調がある者が多いと言っていたが、原因もわからなければ、治療方針も定まらず、結局、様子を見る事になった。

 杖をつきながら、依田家でお手伝いの仕事をするのは大変だった。あの家はバカ広い。家や掃除の仕事が、元々一番大変だったが、杖をつきながらでは、仕事がしずらい。依田家の主人も奥様も海外の仕事で忙しく、滅多に会えないが、ちょうど彼らが帰国した時に事情を説明した。こうなってからは仕方ないので、新しく家政婦を雇う事になった。もちろん、香織も家政婦の料理の仕事は続けるが、他の掃除などは新しい人に任せる事になった。

 新しい人は、ひょんな事から簡単に見つかる。依田家、特に光の知り合いの福音ベーカリーというパン屋の店員から紹介を受けた。二宮真琴というまだ若い女性だった。正直、どこの馬の骨か分からない女性だったが、何か訳ありのようだった。何よりお嬢様である光も真琴に深く同情している様子なので、断れる雰囲気ではなかった。真琴は家も無いようで、依田家で住み込んで仕事をするという。

 こうして春になり、香織の生活も大きく変わっていった。

 香織の仕事の後任者がすぐ決まった事は、喜ばしい。事情があった美穂子も、仕事復帰できた事も嬉しい事だった。

 しかし、一人でご飯を食べていると、これで良かったのか、悩む瞬間があった。若い頃は、仕男に負けないように仕事を頑張ってきた事や結婚せず生涯独身を貫いている事は、後悔はなかったが、本当に正しい選択だったのかは、断言できなくなってきた。こうして一人で老いていくと思うと、誰かがそれで良いのかと責められている気がする。

 テレビを見ると、生涯現役だと働き続けている老人の姿がある。やけにキラキラした老人で、なんとなく嘘くさい。病気や老い、死後への不安があったり、しないのだろうか。香織は、そう言った不安がある。孤独死のニュースなんかを見ると、とても他人事には思えなくなってくるが、おかしいのだろうか。

 それに一人で食べるご飯も美味しくない。腕によりをかけて酢豚などを作ってみたが、どうも美味しくない。味は完璧なはずなのに、何かが
 足りない気がした。

 美穂子と一緒に住んでいる時は、コンビニのカレーなんかでも一緒に食べると美味しかった。やはり、一人で食べると、美味しくないのかもしれない。友達を誘っても良いが、最近は疫病の事もあり、なかなか言い出せない雰囲気だった。

 何とか一人で自分で作った酢豚を食べるが、満足感は全くなかった。食べたのに、逆にお腹が減ってくるようだった。

 孤独死。

 そんな言葉が頭にも浮かんでくる。もう若くもなく、健康でもなく、死へ近づいている事は確かのようだった。
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登場人物紹介

天野蒼

不思議なパン屋の店員。その正体は天使で、神様から依頼された仕事を行う。根っからの社畜体質。天使の時の名前はマル。

ヒソプ

蒼の相棒の柴犬。

依田光

蒼が担当し、守っているクリスチャン。しかし、サンデークリスチャンで日曜以外は普通の女子高生。

知村紘一

蒼の後輩の天使。悪霊が出入りする門で警備をしている。人間界にいるの時は知村紘一という名前を持つ。

知村柊

蒼の後輩天使。人間界にいる時は知村柊という名前をもつ。

橋本瑠偉

後輩天使。人間の時の名前は橋本瑠偉。

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