第29話 穴の空いたドーナツ(2)
文字数 2,283文字
リビングのソファの上で、美穂子はダラダラとスマートフォンを弄っていた。その姿は、怠惰な動物、たとえばナマケモノのようだったが、本人は、特に罪悪感はない。こうしてスキャンダルにあい、ネットで炎上し、「休んでいて何が悪いんですか?」というのが本心だった。可愛いルックスと違い、中身は男だった。
スマートフォンで福音ベーカリーの口コミを調べていた。うっかり芸能人好きの店員や店長がいるパン屋なんかに行ったら、めんどくさい事になる。ちゃんと仕事していた時は良いが、こうしてスキャンダル中は、出来るだけ騒がれたくない。今は、ぽっちゃり体型だが、それでも一般人よりは良いルックスは隠せず、街を歩くと人の視線が気になる。子供の頃は、シンガーソングライターに憧れて、レッスン漬けだったが、こんなリスクがあるとは知らなかった。
同業者はメンタル病んでいるものも多く、特にパニック障害を持っている人の話はよく聞く。人前に出る仕事は、別に言われているほど楽でも幸せでもない。ちょっと具合が悪い時に店に行っただけで、「塩対応」「態度が悪い」などと一方的にネットに書かれる。ネットの言葉に病み、休業している同業者もいて、人々の無責任な言葉は、才能や人を殺すほどの威力を感じる。
また、美穂子は完全にネット世代だ。高校の時は、スマホ依存が危険という授業も受けたが、今はなくてはならないものだ。店に行く前は、ネットの口コミなども、購買を決定するキッカケになったりする。かくいう自分も全く興味のない企業から依頼がきて、ボディ クリームをSNSでこっそりと宣伝した事がある。いわゆるステマだ。ボデディクリームはベタベタして使いにくかったが、表では「最高です!」などと言っていた。
所詮、SNSも虚構でファンタジー。画像も加工しまくっているが、時々そんなファンタジーを楽しもたくなったりする。今の子は、そんなファンタジーもライバルになるから、確かに生きにくそうだ。ソファの上でゴロゴロする事に罪悪感を持たない美穂子だったが、自分もファンタジーを作っていた側の人間としては、悪い気持ちもある。子供の頃から必死に努力し、歌やギター、踊りのスキルを上げていたわけだが、誰かを幸せにできた実感はほとんどない。むしろ、なぜか見ている人を苦しませていたような気もしていた。
「うん? 福音ベーカリーってうちのすぐ裏にあるパン屋じゃん。こんなパン屋あったっけ?」
ネットの情報を探すと、福音ベーカリーはこの叔母の家のすぐ裏にある事がわかった。近隣住民の口コミなどは、なぜか全く載っていなかったが、SNSは開設されていた。数々のパンの画像とともに、聖書の言葉が紹介されていた。
「なぜ、聖書?」
全く意味がわからないが、どうやら店主はクリスチャンらしい。
聖書というと、美穂子は嫌な記憶を思い出してしまった。不倫していたプロデューサーは、なぜか聖書を読んでいた。もちろん、彼は女遊びが激しい男で、クリスチャンなんかではない。
「美穂子、不思議な事に聖書と反する事を曲にすると売れるんだよ」
「マジで?」
いつか彼と旅行した時に、そんな事を言っていた。いかにこの世で流行っているものが、聖書に逆らっているものだと詳しく説明してくれた。
「陰謀論じゃない? なんかそういうオカルトサイトがあったわ。片目を隠したり、ルシファーをかっこよく書くと売れるとか」
「ところがどっこい、陰謀論じゃないんだよ。よぉ、美穂子。次の新曲は、それやってみない? まずは下ネタでも入れてみようぜ」
上手くプロデューサーに誘導され、新曲にはこっそりと性的な表現をいれた。見かけは可愛らしいラブソングだったが、オカルトに詳しい人間なら、すぐにわかるような露骨な表現だった。
美穂子は、こんな下ネタは売れないと思っていたが、予想より遥かに売れ、人気歌番組にも呼ばれるようになった。確かに聖書と逆をすれば売れるのかもしれない。陰謀論サイトのように怪しい秘密結社なんかには属してはいないが、業界内では暗黙の了解は何かあるようだった。
美穂子は、よく片目を隠して状態の写真を撮られる事が多かったが、これもオカルトサインらしい。こうする事で悪魔に忠誠を誓っているサインになるらしい。
そんな頭がおかしい陰謀論とも思ったが、実際曲が売れ、人気も出るのだから仕方がない。万が一聖書で書かれる神が存在したとしたら、自分は相当嫌われている側に入るだろう。長年プロデューサーと不倫をし、聖書に反逆するという実力とは関係のない事をしていたりする。
福音ベーカリーのSNSを見ていたら、昔の事を思い出し、嫌な気分になってしまった。
「そんな、聖書なんてないわ」
嫌な気持ちを振り払うように、呟く。福音ベーカリーのSNSなんて見るのをやめ、目を閉じた。
しばらく夢を見ていた。スポットライトを浴び、客席から拍手喝采を浴びる自分の姿があった。幼い頃からレッスン漬けで、ようやく夢が叶ったと思った。
しかし、歌っている曲は別に美しくはない。プロデューサーに命令されて作成した下ネタ隠語だらけの曲だった。
「この世の栄華をくれるなら、禁断の果実だって人々に売りまくるわ。ああ、悪魔よ、この唇にキスをして」
プロデューサーに命令されて書いた歌詞を、実に楽しそうに歌っていたが、なぜか全く嬉しくはなかった。
むしろ、心にある空洞が大きくなっていった。美穂子は、まるで誰かの操り人形になった気がしていた。
これが叶えたかった夢だったかは、わからない。大きく何かを間違えていた事は、事実のようだった。
スマートフォンで福音ベーカリーの口コミを調べていた。うっかり芸能人好きの店員や店長がいるパン屋なんかに行ったら、めんどくさい事になる。ちゃんと仕事していた時は良いが、こうしてスキャンダル中は、出来るだけ騒がれたくない。今は、ぽっちゃり体型だが、それでも一般人よりは良いルックスは隠せず、街を歩くと人の視線が気になる。子供の頃は、シンガーソングライターに憧れて、レッスン漬けだったが、こんなリスクがあるとは知らなかった。
同業者はメンタル病んでいるものも多く、特にパニック障害を持っている人の話はよく聞く。人前に出る仕事は、別に言われているほど楽でも幸せでもない。ちょっと具合が悪い時に店に行っただけで、「塩対応」「態度が悪い」などと一方的にネットに書かれる。ネットの言葉に病み、休業している同業者もいて、人々の無責任な言葉は、才能や人を殺すほどの威力を感じる。
また、美穂子は完全にネット世代だ。高校の時は、スマホ依存が危険という授業も受けたが、今はなくてはならないものだ。店に行く前は、ネットの口コミなども、購買を決定するキッカケになったりする。かくいう自分も全く興味のない企業から依頼がきて、ボディ クリームをSNSでこっそりと宣伝した事がある。いわゆるステマだ。ボデディクリームはベタベタして使いにくかったが、表では「最高です!」などと言っていた。
所詮、SNSも虚構でファンタジー。画像も加工しまくっているが、時々そんなファンタジーを楽しもたくなったりする。今の子は、そんなファンタジーもライバルになるから、確かに生きにくそうだ。ソファの上でゴロゴロする事に罪悪感を持たない美穂子だったが、自分もファンタジーを作っていた側の人間としては、悪い気持ちもある。子供の頃から必死に努力し、歌やギター、踊りのスキルを上げていたわけだが、誰かを幸せにできた実感はほとんどない。むしろ、なぜか見ている人を苦しませていたような気もしていた。
「うん? 福音ベーカリーってうちのすぐ裏にあるパン屋じゃん。こんなパン屋あったっけ?」
ネットの情報を探すと、福音ベーカリーはこの叔母の家のすぐ裏にある事がわかった。近隣住民の口コミなどは、なぜか全く載っていなかったが、SNSは開設されていた。数々のパンの画像とともに、聖書の言葉が紹介されていた。
「なぜ、聖書?」
全く意味がわからないが、どうやら店主はクリスチャンらしい。
聖書というと、美穂子は嫌な記憶を思い出してしまった。不倫していたプロデューサーは、なぜか聖書を読んでいた。もちろん、彼は女遊びが激しい男で、クリスチャンなんかではない。
「美穂子、不思議な事に聖書と反する事を曲にすると売れるんだよ」
「マジで?」
いつか彼と旅行した時に、そんな事を言っていた。いかにこの世で流行っているものが、聖書に逆らっているものだと詳しく説明してくれた。
「陰謀論じゃない? なんかそういうオカルトサイトがあったわ。片目を隠したり、ルシファーをかっこよく書くと売れるとか」
「ところがどっこい、陰謀論じゃないんだよ。よぉ、美穂子。次の新曲は、それやってみない? まずは下ネタでも入れてみようぜ」
上手くプロデューサーに誘導され、新曲にはこっそりと性的な表現をいれた。見かけは可愛らしいラブソングだったが、オカルトに詳しい人間なら、すぐにわかるような露骨な表現だった。
美穂子は、こんな下ネタは売れないと思っていたが、予想より遥かに売れ、人気歌番組にも呼ばれるようになった。確かに聖書と逆をすれば売れるのかもしれない。陰謀論サイトのように怪しい秘密結社なんかには属してはいないが、業界内では暗黙の了解は何かあるようだった。
美穂子は、よく片目を隠して状態の写真を撮られる事が多かったが、これもオカルトサインらしい。こうする事で悪魔に忠誠を誓っているサインになるらしい。
そんな頭がおかしい陰謀論とも思ったが、実際曲が売れ、人気も出るのだから仕方がない。万が一聖書で書かれる神が存在したとしたら、自分は相当嫌われている側に入るだろう。長年プロデューサーと不倫をし、聖書に反逆するという実力とは関係のない事をしていたりする。
福音ベーカリーのSNSを見ていたら、昔の事を思い出し、嫌な気分になってしまった。
「そんな、聖書なんてないわ」
嫌な気持ちを振り払うように、呟く。福音ベーカリーのSNSなんて見るのをやめ、目を閉じた。
しばらく夢を見ていた。スポットライトを浴び、客席から拍手喝采を浴びる自分の姿があった。幼い頃からレッスン漬けで、ようやく夢が叶ったと思った。
しかし、歌っている曲は別に美しくはない。プロデューサーに命令されて作成した下ネタ隠語だらけの曲だった。
「この世の栄華をくれるなら、禁断の果実だって人々に売りまくるわ。ああ、悪魔よ、この唇にキスをして」
プロデューサーに命令されて書いた歌詞を、実に楽しそうに歌っていたが、なぜか全く嬉しくはなかった。
むしろ、心にある空洞が大きくなっていった。美穂子は、まるで誰かの操り人形になった気がしていた。
これが叶えたかった夢だったかは、わからない。大きく何かを間違えていた事は、事実のようだった。