第115話

文字数 5,150文字

 「…そんなわけない…私が、稲葉さんの娘であるはずがない…」

 私は、繰り返した…

 「…そんなこと、あるはずない!…」

 絶叫した…

 私が、大声で、絶叫すると、その場にいた全員が、黙り込んだ…

 誰も、なにも、言わなかった…

 薄暗い店内に、私の声だけが響いた…

 「…そんなこと…あるはずが…」

 私は、小さく繰り返した…

 本当ならば、ここで、涙を流すはずだが、涙は、一滴も、出てこなかった…

 当たり前だ…

 いきなり、稲葉五郎が、私の父親だと言われても、現実感もなにもない…

 ここに、私の両親が現れ、説明でも、されれば、話は別だ…

 だが、当然、両親はいない…

 だから、ここで、誰が、なにを言っても、現実感に乏しい…

 そういうことだ…

 私は、思った…

 そう、自分自身に、強弁した…

 そう、自分自身に、言い聞かせたときだった…

 「…当たり前だ…」

 小さく、言った声がした…

 稲葉五郎だった…

 稲葉五郎の声だった…

 「…お嬢が、オレの娘のはずがない…そもそも、お嬢は、古賀会長の血を引き継いだ、数少ない血縁者で…」

 「…それは、オマエが作ったストーリーだろ…」

 町中華の女将さんが、稲葉五郎の話を遮った…

 「…ストーリー?…」

 大場が、声を上げた…

 「…ストーリーって?…」

 「…すべては、この五郎が、自分の娘である、お嬢ちゃんを、守るために作った物語さ…」

 「…物語?…」

 「…古賀さんは、晩年、ボケが始まった…それをいいことに、この五郎は、自分の娘である、お嬢ちゃんを、守ろうとした…自分が、山田会で、敵を作り過ぎて、自分のことを、あれこれ、詮索する輩(やから)が、大勢出てきたことに、気付いたのさ…それで、一計を案じた…」

 「…どういうこと?…」

 大場が聞いた…

 「…古賀さんが、晩年、若いときに、作った娘が生きていることを知って、その血筋の娘がいることを知って会いたがっていた、という物語をでっち上げたのさ…そうすれば、お嬢ちゃんに、堂々と会える…そして、古賀さんの血筋を引く、数少ない血縁者と、山田会の人間に、知らせれば、誰も、お嬢ちゃんに、手が出せない…例え、五郎の敵に回っていても、手が出せないって、話さ…そうだろ…五郎?…」

 女将さんの話に、稲葉五郎は、

 「…」

 と、返事をしなかった…

 当たり前だ…

 「…それは、オバサンが作った物語だろ?…」

 間を置いて、発した…

 「…オバサンの頭の中で、作り出した妄想だ…第一、百歩譲って、このお嬢が、オレの娘だとする…だが、例え、ここに、お嬢の母親を連れてきても、オレは、お嬢の母親を知らねえ…面識がねえ…会ったこともなければ、当たり前だが、子供を作ることはできねえ…だから、お嬢が、オレの娘であるはずがねえ…」

 稲葉五郎が、勝ち誇ったように、言った…

 「…なんなら、これから、お嬢の家に行って、お嬢の母親に訊いてみるか? オレを知ってるかって? …例え、知らねえと言っても、ホントは、知ってれば、お嬢の母親は、動揺するに決まってるから、見れば、わかるはずさ…」

 稲葉五郎は、当たり前のことを言った…

 今、私は、22歳…

 だから、私の母親が、もし、稲葉さんと付き合っていれば、それは、22年前…

 22年前ならば、当たり前だが、面影はあるに違いない…

 だから、もし、稲葉五郎と、私の母が、昔、恋人同士ならば、動揺するに決まっている…

 それは、どう隠そうが、態度に出るに、決まっている…

 稲葉五郎の言葉が正しい…

 私は、思った…

 が、

 そのときに、小さな笑い声がした…

 「…フッフッフッ…」

 と、最初は、小さかったが、すぐに、

 「…ハッハッハッ…」

 と、大きな笑い声に変わった…

 町中華の女将さんだった…

 「…笑わせるんじゃないよ…五郎…オマエは、いつの時代に生きてるんだい?…」

 女将さんが、激高する…

 「…どういう意味だ?…」

 「…セックスをしなきゃ、子供が産めない時代じゃないんだよ…」

 女将さんが、断言する…

 稲葉五郎の顔色が変わった…

 薄暗い店内でも、稲葉五郎の顔色が変わったのが、わかった…

 明らかに、緊張した表情になった…

 …一体、どういうことだろう?…

 私は、思った…

 当然、男女がセックスをして、子供が生まれる…

 それがないなんて…一体?…

 「…オバサン…それ、不妊治療かなにか?…」

 突然、大場が、口を挟んだ…

 「…その通り…」

 女将さんが、即答した…

 …不妊治療?…

 私は、驚いた…

 ビックリした…

 「…不妊治療って?…」

 気が付くと、いつのまにか、私も声を出していた…

 「…このお嬢ちゃんは、父親が、子種がなくて、それで、この五郎から、精子を提供されて、お嬢ちゃんが、生まれたのさ…」

 「…ウソッ?…」

 思わず、声に出した…

 あまりにも、予想外というか、考えもしないことだった…

 文字通り、頭が混乱した…

 もちろん、言葉の意味はわかるが、それが、私に当てはまることとは、どうしても、思えなかった…

 現実感が、皆無…

 文字通り、他人事だった…

 「…稲葉のオジサンが、精子を提供した? …どうして? だって、竹下さんの母親と面識はないんでしょ? 知り合いでも、なんでもないんでしょ…」

 「…そうさ…」

 「…だったら、どうして?…」

 「…あっちゃん…不妊治療で、精子を提供する男って、どんな男かわかるかい?…」

 女将さんの質問に、

 「…」

 と、大場は、沈黙した…

 「…わからないだろ?…」

 「…わからない…」

 大場が答える…

 「…今は知らないけど、昔は医大生や大学病院を担当する製薬会社のMRっていう営業社員が大半だった…不妊治療は高度な医療だから、大学病院が大半だし、どうしても、身近なところで、精子を集めようと思うだろ…それになにより、男も女も、若い方が、妊娠できる確率が高い…50歳の男の精子より、20歳の男の精子の方が、いきがいいっていうか…」

 「…でも、オジサンは、医大生でも製薬会社の人間でもないんじゃ…」

 「…金をもらって、同じアパートに住む、製薬会社の社員に頼まれて、提供したのさ…そうだろ …五郎…」

 稲葉五郎は、

 「…」

 と、答えなかった…

 「…もちろん、慎重に相手を選ぶ…相手っていうのは、出身地…」

 「…出身地?…」
 
「…精子を提供した医学生やら、製薬会社の男だって、大抵は、結婚するだろ…そして、そんなことはありえないと思うけど、もし、自分が、精子を提供して、できた子供と、自分の子供が将来、出会って結婚したいと言ったら、困るだろ…だから、出身地を選ぶ…福岡在住の母親だったら、北海道出身の医大生やらMRとか…まず、一生出会わないであろう、出身地の異なる人間の精子を選ぶ…」

女将さんの言葉に、

「…」

と、誰もなにも、言わなかった…

「…この五郎は、昔から、何事にも慎重で、特定の恋人も作らなかった…自分の正体を詮索されると困るからさ…だから、金に困った、五郎が、精子を提供したのは、数少ない不手際っていうか…後で、若き日の自分の失敗を悔やんで、懸命に、自分の精子を提供してできた子供の行方を捜した…それで、見つけたのが、このお嬢ちゃんさ…」

女将さんが、説明する…

私は、その説明を聞きながら、ボンヤリと、思い出していた…

子供の頃、近所のひとや、両親の昔からの知人に、

「…やっと、出来て、良かったね…おめでとう…」

と、よく声をかけてもらったことを、思い出した…

要するに、結婚したのは、早かったが、子宝に恵まれなかった…

私が、やっと出来た子供だった…

しかも、私は、一人っ子…

兄弟はいない…

そして、もし、今、この女将さんが言ったことが、本当だとすれば、その理由がわかる…

母は、不妊治療で、私の父以外の男のひとから、精子をもらうことが嫌だったのではないか?

もし、本当ならば、私なら、そう考える…

自分の夫以外の男から、精子を提供されるのが、たとえ、夫が、承知していても、心苦しいからだ…

 私が、そこまで、考えたときだった…

 「…バカバカしい…」

 稲葉五郎が吐き捨てた…

 「…そんな絵物語のようなことが、どこにある…」

 「…ここにあるさ…」

 女将さんが、反撃する…

 「…なんなら、これから、大きな大学病院に行って、五郎…オマエと、このお嬢ちゃんのDNA検査をしてみるか? 血の繋がった父子だと、すぐに、わかるさ…」

 女将さんの言葉に、稲葉五郎は、

 「…」

 と、答えなかった…

 なにも、言わなかった…

 不気味な沈黙が、この薄暗い店内を、占めた…

 文字通り、不気味だった…

 薄暗い店内だから、余計に、不気味に感じたのだ…

 「…」

 と、誰も、なにも、言わなかった…

 薄暗い店内で、沈黙が、あたりを支配した…

 実に重苦しい空気だった…

 誰も、なにも、言わないことが、余計に、空気を重くした…

 そのときだった…

 「…なんだ? そういうことだったんだ?…」

 と、いう若い女の声が、突然した…

 私は、声の主を見た…

 声の主は、目の前の、大場敦子だった…

 「…竹下さんは、稲葉のオジサンの娘だったんだ?…」

 あっけないほど、軽い口調だった…

 一気に、空気が緩んだ…

 この重苦しい空気をどうにか、したかったのだろう…

 わざと、軽く言ったに違いない…

 「…だから、オジサンは、山田会の会長になりたかったんだ…」

 大場が続ける…

 「…私は、てっきり…」

 そこまで、言うと、

 「…てっきり、なんだ?…」

 と、稲葉五郎が続けた…

 大場が、大きく目を見開いて、稲葉五郎を見た…

 稲葉五郎の形相が変わっていた…

 これまで、見たことのない顔だった…

 文字通り、ヤクザ…

 凶暴なヤクザそのものだった…

 まるで、今すぐに、ひとを殺しに行くかと、思えるほど、切羽詰まった、それでいて、どこか、哀しそうな表情だった…

 「…さあ…あっちゃん…続けてくれ…」

 稲葉五郎が、陰鬱な声で言う…

 が、

 大場敦子は、続けられなかった…

 文字通り、恐怖で、声が出なかった…

 ただ、蒼ざめた顔で、ガタガタと、小刻みにカラダを震わせていた…

 恐怖のためだ…

 それを見て、女将さんが、

 「…余裕がなくなってきたね…五郎…」

 と、声をかけた…

 …余裕?…

 …どういう意味だろう?…

 私は、考える…

 「…どういう意味だ?…」

 稲葉五郎が、私が思った通りのことを、言った…

 「…五郎…オマエは、あっちゃんを子供の頃から、可愛がったろ? そのあっちゃんを怖がらせるなんて、真似は、絶対しなかった…それを、今、初めて、した…あっちゃんの前で、これまで見せたことのない極道の顔を見せた…余裕を失った証拠さ…」

 女将さんの言葉に、

 「…」

 と、稲葉五郎は、言葉もなかった…

 再び、沈黙が、この薄暗い店内を支配した…

 誰もが、沈黙した…

 十秒、

 二十秒、

 いや、

 それ以上、沈黙した…

 誰もが、息苦しいほどだった…

 「…余裕か?…」

 その沈黙を破ったのは、やはりというか、稲葉五郎だった…

 「…余裕なんて、言葉…オレの人生には、一瞬たりとも、なかった…」

 ボソッと呟いた…

 「…いつも、緊張していた…一瞬たりとも、緊張がなかった瞬間がなかったといえば、大げさだが、常に、どこかに、緊張があった…そして、それを見抜いたのが、古賀会長だった…」

 「…古賀さん?…」

 女将さんが、驚いた…

 が、

 稲葉五郎は、女将さんを見なかった…

 女将さんを見ないというより、どこか、自分自身に、言っているようだった…

 「…あのひともまた根無し草っていうか…実態がない人生だった…それをオレの中にも、見たんだろう…二人とも、どこか、似ていた…」

 稲葉五郎が、寂しそうに、告白する…

 …実態がない人生って?…

 私は、考える…

 一体、どういう意味なんだろう?…

 私は、聞いてみたかった…

 が、

 聞けなかった…

 とても、聞ける雰囲気ではなかった…

 しかし、私の代わりに、

 「…オジサン…実態のない人生って?…」

 大場が聞いた…

 稲葉五郎は、大場を見た…

 そして、

 「…それは、現実感の乏しい人生だ…」

 と、優しく、大場に言った…

 「…現実感に乏しいって?…」

 「…若い頃は、誰彼となく、ケンカを吹っ掛け、相手を殴り倒すか、全力で、逃げ出す…そんなときが、この上ない高揚感っていうか…生きてるっていう実感があった…」

 「…」

 「…そして、いつしか、古賀さんに出会った…古賀さんは、オレの中に自分を見たんだと思う…なにをしても、空虚で満たされない…そんな思いを抱いているのを、見抜いたんだと思う…」

 「…」

 「…いつのまにか、オレは、古賀さんから、杯をもらい、山田会に入った…だが、それが、間違いの始まりだった…」

                
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