第117話

文字数 4,670文字

 「…なんだか、外が騒がしくなってきたな…」

 稲葉五郎が言った…

 当たり前だが、外が、喧騒としていることに、稲葉五郎も気付いた…

 薄暗い店内にいた、私たち4人だが、外の喧騒は伝わってきた…

 稲葉五郎は、立ったままだった…

 私と大場は、きちんと椅子に座っていた…

 女将さんは、飲み物を私たちに持ってきたところで、稲葉五郎が、やって来たので、やはり、立ったままだった…

 今さらながら、それに気付いた大場が、

 「…オバサンも、稲葉のオジサンも座ったら? 立ったままじゃ、疲れるでしょ?…」

 と、声をかけた…

 「…そうだね…」

 女将さんは言って、席に座った…

 「…オジサンも座ったら…」

 が、稲葉五郎は、座らなかった…

 まるで、聞こえないように、大場の言葉を無視した…

 「…五郎は、座らないよ…」

 女将さんが、言った…

 「…どうして、座らないの?…」

 「…逃げるためさ…」

 女将さんが、断言する。

 「…逃げるためって?…」

 大場が、絶句する…

 「…あるいは、すぐに反撃するため…椅子に座れば、どうしても、すぐに動けない…だから、この店に入って来たときから、ずっと、立ちっぱなし…すぐに、動けるように、準備してるのさ…そうだろ、五郎?…」

 稲葉五郎は、

 「…」

 と、答えなかった…

 女将さんの質問を無視した…

 「…変わらないねえ…若いときから、ずっとさ…古賀さんのボディガードをしていたときから、ずっと同じ…当時は、古賀さんを守る、番犬だと思っていたけど、今、考えると、それも違った…」

 「…どう、違うんだ?…」

 「…オマエは古賀さんの番犬なんかじゃない…オマエは、オマエを守っていたのさ…」

 「…」

 「…おそらく、オマエの生まれが、無意識にそういう行動をさせるんだろうね…いかに、過酷な人生を送ってきたのか、わかるよ…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…稲葉五郎…いや、宋国民…オマエの人生さ…」

 その言葉に、稲葉五郎は、

 「…」

 と、なにも言わなかった…

 言葉を返せなかったのかも、しれない…

 「…ホントは、オマエは番犬というより、狂犬だ…力が強く、コントロールが効かない…きっと、古賀さんは、内心、オマエを恐れていたんだと思う…だから、このお嬢ちゃんが、オマエの血の繋がった娘か、どうかは、ともかく、オマエの弱点を掴んでいたかったんだと思う…」

 「…」

 「…コントロールの効かない狂犬ほど、恐ろしいものは、ないからね…」

 女将さんが、意味深に呟く…

 そのときだった…

 勢いよく、店の扉が開いて、誰かが入って来た…

 「…オヤジ…大変だ!…」

 勢いよく、店に飛び込んできたのは、戸田だった…

 稲葉五郎の子分だ…

 「…どうした?…」

 「…大場代議士が、刺されました…」

 「…なんだと?…」

 稲葉五郎が、驚愕する…

 いや、

 稲葉五郎だけではない…

 娘の大場敦子は、もちろんだが、私も、女将さんも、同じように、驚いた…

 私と、女将さんは、慌てて、大場敦子を見た…

 いや、

 私と女将さんだけではない…

 稲葉五郎も、戸田も、同じく、敦子を見た…

 「…刺された?…」

 そう一言、呟くや、敦子は、カッと目を見開いて、絶句した…

 それから、いち早く、稲葉五郎が、我に返った…

 「…誰に、だ? 誰に刺された? 刺した野郎は、摑まったのか?…」

 「…いえ…逃走したとのことです…」

 「…逃走した? …だが、おかしいな…大場代議士には、SPが付いているはずだ? なのに、なぜ、刺された?…」

 「…いえ、それが、犯人が顔見知りっていうか…」

 戸田が、話ながら、チラリと大場を見た…

 「…顔見知り? なら、SPも遠慮するっていうか…席をはずすな…で、誰なんだ?…」

 「…それが、どうも、高雄の坊ちゃんのようで…」

 言いにくそうに、戸田が言った…

 「…ウソッ?…」

 思わず、私は叫んだ…

 叫んだ後に、しまったと思った…

 大場の気持ちを、考えたとき、なにか、言葉を発しては、いけないと、思ったのだ…

 私は、急いで、大場を見た…

 そして、

 「…ごめんなさい…」

 と、詫びようとした…

 が、

 大場の口から出たのは、

 「…やっぱり…」

 という、思いがけない言葉だった…

 「…どういうことだ?…」

 稲葉五郎が、聞いた…

 「…高雄さんが…悠(ゆう)さんが、報復に出ることは、わかっていた…だから、パパは、悠(ゆう)さんを、逮捕して…」

 意外なことを、口にした…

 「…でも、悠(ゆう)さんが、警察から、出ていたなんて…」

 大場が、驚く…

 私は、考えた…

 高雄悠(ゆう)が、報復?

 報復?

 ということは、大場代議士と、高雄悠(ゆう)の間に密約というか、なんらかの取引があったに違いない…

 そして、大場代議士は、その密約を裏切ったというか、反故にした…

 だから、悠(ゆう)に、報復された…

 そういうことだろう?

 私は、思った…

 だが、

 となると、一体、悠(ゆう)と、大場代議士の間に、どんな密約があったのだろうか?

 考える…

 そのときだった…

 「…外が騒がしいのは、大場代議士が刺されたためだったのか?…」

 稲葉五郎が言う。

 が、

 すぐに、戸田が、それを否定した…

 「…原因は、うちの事務所です…」

 「…なんだと? どうして、だ?…」

 「…悠(ゆう)さんが、大場代議士を刺して、逃げたんで、それで、そのとばっちりと言うか…警察(サツ)が、ガサ入れにやって来て…」

 「…そうか…」

 稲葉五郎が言った…

 一瞬、驚いた表情だったが、原因がわかると、すばやく対応した…

 「…だったら、オレも事務所に顔を出さねえといけねえな…」

 稲葉五郎が呟く…

 「…そういうことだ…また今度…」

 そう断言するやいなや、稲葉五郎は、戸田を連れて、風のように、店を出て行った…

 あっけなく、店を去った…

 後には、私たち3人が、残った…

 しばらくは、誰もなにも言わなかった…

 虚無感というと、大げさだが、大きな脱力感があった…

 なにより、誰もが、なにを言っていいのか、わからなかった…

 ただ、大きな喪失感があった…

 3人とも、それを共有していた…

 「…まさか…悠(ゆう)さんが、大場代議士を…」

 女将さんが、力なく、呟いた…

 椅子に座って、心底、参ったというように、天井を見上げた…

 「…バカな男…昔から、ずっと自信過剰で…」

 大場が呟く…

 私は、その言葉を聞きながら、たしか、以前も林が、同じ言葉を言っていたのを思い出していた…

 「…バカな男…」

 林も、たしかに、そう言っていた…

 私は気付かなかったが、身近に接すれば、誰もが、同じ感想を抱くのかもしれない…

 外見は、花屋や図書館が似合う、おとなしめの男だが、その中身は、真逆…

 まったく違う…

 異常なまでに、自分のルックスに自信を持ち…自分の頭脳に自信を持つ…

 そして、その結果、野心満々…

 その化けの皮が剥がれたということだろう…

 私は、考える。

 「…バカな男…」

 大場が繰り返した…

 「…バカな男…」

 何度も繰り返した…

 そして、いつしか、大場の頬を涙が伝った…

 私は、それを見て、気付いた…

 ピンときた…

 もしかしたら?

 もしかしたら、大場が、私を連れて、来たのは、高雄に…高雄悠(ゆう)に、頼まれたからではないのか?

 そう思った…

 いや、

 それはないか?

 今、大場は、

 「…悠(ゆう)さんが、警察から出ていたなんて…」

 と、ポツリと漏らした…

 これは、高雄悠(ゆう)が、自由の身になれたことを知らなかったことに、ほかならない…

 だから、今日、私を、この店に連れてきて、この渡辺えりに似た女将さんが、稲葉五郎の正体を告げることを、事前に、打ち合わせていても、その決定を知ることはできない…

 なにより、大場は、今、父親の大場小太郎が、高雄悠(ゆう)を、逮捕させたと、言っていた…

 ということは、どうだ?

 高雄悠(ゆう)を、逮捕させなければならい理由があるということだ…

 つまりは、大場小太郎は、おそらく、高雄悠(ゆう)を裏切った…

 その報復を恐れて、悠(ゆう)を、逮捕したに決まっている…

 が、

 おそらく、逮捕したのが、無理筋というか、微罪だったのだろう…

 だから、長期間、高雄悠(ゆう)の身柄を拘束できなかったに違いない…

 だから、釈放したのだろう…

 しかし、

 しかし、今さらながら、思った…
 
 この大場が、涙を流すということは、やはり、恋人関係と言うか…

 普通の間柄ではない…

 私は、思った…

 このときは、わからなかったが、大場小太郎は、実は、高雄組の資産を狙っていた…

 つまり、亡くなった古賀会長を監視する目的で、山田会の最高幹部たる、稲葉五郎と高雄組組長たちと接しているうちに、経済ヤクザである、高雄組の資産が欲しくなった…

 そして、それを合法的に、自分のものにするには、どうすれば、いいか?

 思いついたのが、娘の敦子と、悠(ゆう)の結婚だった…

 無論、大物政治家の娘と、大物ヤクザの息子の結婚なんて、バカげている…

 できるはずがない…

 そんなことは、百も承知の上だが、やはり諦めきれなかった…

 これは、以前も書いた…

 そして、大場小太郎が、密かに、そう考えていることは、敦子もまた、手に取るようにわかった…

 いや、

 わかったのではないのかもしれない…

 卵が先か、鶏が先かの例えではないが、大場小太郎は、高雄悠(ゆう)と、敦子が、仲良く接しているのを見て、考え付いたのかもしれない…

 思ったのかもしれない…

 自分の娘と、高雄組組長の息子が、仲が良い…

 それは、傍から見ても、わかる…

 誰の目にも、わかる…

 だから、思いついたのかもしれない…

 大物政治家の娘と大物ヤクザの息子の結婚…

 所詮、無理な組み合わせと思いつつも、もしも、と、考えたのかもしれない…

 夢想したのかもしれない…

 そして、その結果、行きついたのが、高雄悠(ゆう)と、娘の敦子を結婚させることで、高雄組の資産を、自分のモノにするということだったのかもしれない…

 私は、思った…

 と、そこまで、考えたとき、女将さんが、私と、大場を見て、呟いた…

 「…似ているね…」

 当たり前のことを言った…

 そもそも、私と大場、林の3人が、偶然、似ていることから、杉崎実業を舞台にした物語が始まった…

 柴野も野口も、私たち3人と、似ているから、杉崎実業に合格した…

 言葉は悪いが、付け足しだ…

 本命ではない…

 「…あっちゃんは、悠(ゆう)さんのことが、好きだった?…」

 女将さんが、優しく言った…

 「…好き…」

 と、言って、首を縦に振った…

 「…そうかい…」

 女将さんが、嬉しそうに呟いた…

 それから、一転して、

 「…で、それを、大場代議士は知ってるのかい?…」

 と、聞いた…

 大場敦子は、黙って、首を縦に振って、頷いた…

 それを見て、女将さんが、

 「…おかしいね?…」

 と、突然、言った…

 「…おかしい? どういうこと?…」

 涙で頬を濡らした大場が聞いた…

 「…だって、そうだろ? 大物ヤクザの息子と大物政治家の娘…これが恋愛に発展すれば、双方が困る? 違うかい?…」

 女将さんの言葉に、

 「…」

 と、大場は答えなかった…

 その通りだったからだ…

 それから、ニヤッとして、

 「…案外、このお嬢ちゃんと、あっちゃんは、入れ替わったのかも? そしたら、大場代議士は、自分の娘じゃないから、悠(ゆう)さんとあっちゃんの交際を見て、見ぬふりをしていたのかも…」

 と、仰天の言葉を発した…

                

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み