第88話

文字数 5,515文字

 「…お嬢、お久しぶりです…」

 稲葉五郎が、ニコニコして、愛想よく私に話しかける。

 稲葉五郎のゴツイ顔が、まるで、子供のように、屈託のない、顔で、私に笑いかける…

 演技ではない…

 演技などではない…

 まさしく、心の底から、私を好きな顔だった…

 心の底から、私を愛しているのが、よくわかる笑顔だった…

 「…お嬢、偶然ですね…」

 愛想よく、続ける…

 …偶然?…

 …ホントに、偶然か?…

 …偶然なわけ、ないだろ!…

 私は、心の底で、思った…

 稲葉五郎の稲葉一家の事務所は、私の今いる場所と、全然違う場所だ…

 たしかに、偶然、クルマに乗ってたら、私を見かけた可能性は、ゼロではない…

 しかし、それは、ありえない…

 なにしろ、稲葉五郎のライバル、高雄組組長もまた、以前、この場所で、私を待ち構えていたぐらいだ…

 私を待ち伏せしていたぐらいだ…

 偶然なわけはない…

 私は、そう、確信した…

 しかし、

 この稲葉五郎は、次期山田会会長と言われている…

 それほどの大物ヤクザが、どうして、こんなにも、私に優しいのだろう…

 愛しているのだろう…

 考えれば、考えるほど、不思議だ…

 首をひねる…

 私は、考える。

 「…お嬢、これから、どこへ行くんですか?…よかったら、乗せて行きますよ…」

 「…ウチに帰るんです…」

 「…ウチへ?…」

 「…ハイ…家はすぐ近くなんで…」

 私の言葉に、稲葉五郎は、落胆した…

 見る見る元気をなくした…

 「…そうですか?…」

 声を落とした…

 「…残念です…」

 稲葉五郎が、肩を落とす…

 私は、そんな稲葉五郎を見ると、なんだか、可哀そうになった…

 なんだか、悪いことをした気持ちになった…

 稲葉五郎のゴツイ顔が、まるで、子供が、親に怒られたように、がっかりした顔になったからだ…

 私が、そんな稲葉五郎の顔を見ていると、ふと、その大きなミニバンを運転している男の顔が、私の目に飛び込んだ…

 戸田だった…

 あの前回、会った時、この稲葉五郎に、こっぴどく、殴られた戸田だった…

 私を稲葉一家の事務所に連れて行ったことで、稲葉五郎に怒られた戸田だった…

 私は、思わず、

 「…戸田さん…お久しぶりです…」

 と、声をかけた。

 ハンドルを握る戸田は、黙って、首を振って、コクンと、私に挨拶した…

 もしかしたら、前回、私を事務所に、連れて行き、稲葉五郎に、ぶん殴られたのが、トラウマになっているのかも?

 私は、思った…

 稲葉五郎は、そんな戸田の態度を見て、

 「…オイ、コラ…お嬢に向かって、なんて、態度だ…ちゃんと、返事をしろ…」

 と、怒鳴った…

 稲葉五郎の圧=威力は、凄かった…

 「…ハイ!…」

 と、まるで、雷に打たれたかのように、礼儀正しい声で、返事をした…

 これが、ミニバンの中で、なかったら、いきなり立ち上がって、直立不動で、返事をするところだ…

 「…お、お嬢…お、お久しぶりで、ございます…」

 と、震える声で、戸田は、叫ぶように言った…

 私は、その声を聞いて、なんだか、戸田が可哀そうになった…

 前回、あの稲葉一家のある事務所の近くで、偶然、この戸田と会わなかったら、戸田も、私を、稲葉一家の事務所に連れてゆくことはなかっただろう…

 それを考えれば、戸田に同情した…

 あのとき、偶然、私と会ったばかりに…

 そんな気持ちが、私の中に芽生えた…

 そして、気付いた…

 先日、この稲葉五郎は、あの大場代議士の家のクルマのガレージに、発砲して、世間を賑わせた…

 あれは、一体どうなったのだろう?

 今、私の前に、何事もなく、姿を現せたということは、すでに、トラブルはなくなったということだろうか?

 そういえば、あの後、続報がなかった…

 これは、一体、どういうことだろうか?

 普通に考えれば、当事者同士で、話し合って、キチンと解決した…

 が、

 別の可能性もある…

 この稲葉五郎が、トラブった相手は、大場小太郎代議士だ…

 大場小太郎代議士は、父親が、やはり政治家で、国家公安委員長を歴任している…

 高雄悠(ゆう)に言わせれば、大場代議士は、国家の命で、亡くなった古賀会長を監視していたそうだ…

 つまり、異常なまでに、国家権力の力を行使できる立場…

 あの後、出版社や、テレビ等のマスコミが、続報を報じないのも、なんらかの圧力を受けた可能性がある…

 大場代議士が、権力を行使した可能性がある…

 で、なければ、続報があるはずだ…

 私は、それに、気付いた…

 そして、稲葉五郎と、大場代議士の争い同様、山田会と松尾会の争いの報道も、あの後、プッツリと途絶えた…

 なんらかの力が、加わったと見るのが、普通…

 一般的だ…

 つまり、それまでの、トラブルが、すべてなかったことになっている…

 そして、それは、すべて、中国…

 あの後、高雄悠(ゆう)が、私に指摘したように、亡くなった古賀会長が、宋国民と言う名前の中国人であり、中国政府の後ろ盾を得て、山田会を日本有数のヤクザ組織に拡大させたと、告白してからだ…

 私は、遅ればせながら、その事実に気付いた…

 果たして、これは、偶然なのだろうか?

 考える。

 そして、もう一つ…

 この前、大場代議士と、高雄組組長が、あの松尾会会長の松尾聡(さとし)と、会った際、この稲葉五郎は、いなかった…

 これは、偶然なのだろうか?

 思えば、それ以前、私が、あの大場代議士と、アルトワークスという名前の軽自動車で、ドライブに誘われた際も、行きついた先には、高雄悠(ゆう)が、待っていて、その後、高雄の父?である、高雄組組長が、現れて、実は、二人が、血縁関係がない父子だと、わかった…

 あのときも、この稲葉五郎は、いなかった…

 これは、偶然だろうか?

 なにを言いたいかと言えば、重要な局面で、この稲葉五郎がいない…

 外されてる…

 これは、偶然なのだろうか?

 前回、あの松尾会会長は、高雄組組長に対して、

 「…山田会の次期会長は、稲葉さんです…」

 と、断言した…

 松尾会会長は、亡くなった山田会の古賀会長と、五分の盃の兄弟分だそうだ…

 ネットによると、稲葉五郎や、高雄組組長は、古賀会長の子分だから、松尾会会長は、叔父に当たる…

 ヤクザは、疑似家族…

 古賀会長=父親の弟だから、叔父なのだ…

 つまりは、叔父=松尾会会長が、甥=高雄組組長に対して、次の会長は、稲葉五郎と言ったわけだ…

 これは、強制力がある…

 家族間で、叔父が甥に、こうしろと、言えば、普通は、強制力があると思えばいい…

 それと同じだ…

 ただ、その場面でも、この稲葉五郎はいない…

 これは、偶然なのかもしれないが、見方を変えれば、外されているとも、いえる…

 これは、偶然なのだろうか?

 山田会次期会長は、この稲葉五郎と、周囲が言っているにもかかわらず、肝心の本人は、いない…

 これは、偶然なのだろうか?

 私は、思った…

 もしや?

 そんなことは、ないかもしれないが、

 もしかしたら、周囲の人間が、この稲葉五郎を貶(おとし)めようとしている?

 ふいに、そんなことに気付いた…

 あくまで、可能性というか?

 私の妄想に過ぎないかもしれないが、ふと、思った…

 そう思うと、急に、この稲葉五郎に、その事実を知らせなければ、いけないと、思った…

 私のような門外漢というか、ヤクザでもなんでもない、私が、稲葉五郎に、そんなことを告げれば、この戸田のように、激しく叱責される可能性はあるが、それでも、稲葉五郎に伝えなければ、ならないと思った…

 一宿一飯の恩義というと、言い過ぎだが、この稲葉五郎には、世話になっている…

 なにより、この稲葉五郎は、私を愛してくれている…

 見返りもなにも求めず、無条件で、私を愛してくれている…

 それが、痛いほど、わかる…

 だから、稲葉五郎に知らせなければ、ならない…

 私は、思った…

 固く、心に誓った…

 ゆえに、

 「…稲葉さん…」

 と、声をかけた…

 「…なんですか? …お嬢?…」

 私の問いかけに、稲葉五郎が、即座に反応した…

 私が一体、なにを言い出すんだろうか? と、いう顔になった…

 「…私とお茶しませんか?…少しですけど、稲葉さんに、お伝えしたいことがあって…」

 「…お嬢がオレと?…」

 私の突然の申し出に、意外と言うか、意外過ぎる表情になった…

 「…オレが、お嬢と…」

 と、繰り返す…

 見る見る喜びで、顔がクシャクシャになった…

 喜びが、爆発した感じだった…

 私自身、稲葉五郎が、こういう反応を示すのは、予想していたというか、わかっていたことだが、それでも、間近に、こういう反応をされると、嬉しかった…

 誰もがそうだが、自分を好きだと言ってくれる人間は、誰もが嬉しいものだ…

 それは、相手が、ヤクザでも変わらない…

 まして、稲葉五郎は、私の父親と同世代…

 しかも、私に対して、変な下心とか、ないのは、わかる…

 これも、誰でも同じだが、相手が、自分に対して、下心を抱いているかどうかは、なんとなくわかるものだ…

 まあ、相手が私だから、稲葉五郎も下心はないのかもしれない(笑)…

 私が、佐々木希のような美人女優ならば、また違うだろう(笑)…

だが、下心もなにもないにもかかわらず、私をこれほど、可愛がるのもまた、納得できないというか…

おかしい…

何度も言うが、私が、古賀会長の血縁者だから、稲葉五郎が、山田会の二代目会長に就任するに当たって、私を可愛がれば、有利に働く…

それは、以前、女優の渡辺えりに似た街中華の女将さんが、指摘したから、わからないでもないが、どうしても、それだけとは、思えない…

これは、私の勘…

女の勘に過ぎないのだろうか?

女の勘=根拠のない直感に過ぎないのだろうか?

しかしながら、私には、どうしても、そうは、思えないのだ…

自信を持って、それだけではないと、言いきれる…

断言できる…

私は、思った…


結局、私は、稲葉五郎と、戸田と三人で、近くのファミレスで、お茶した…

いわゆる、暴対法が、できてから、ヤクザが、外で、ご飯を食べることが、難しくなった…

どこの店でも、ヤクザと関わってはいけないと、法律で決められたからだ…

事実上、ヤクザの人権が制限されているからだ…

いわゆる、締め出しだ…

食事でも、宅急便でも、葬式でも、銀行でも、ヤクザと、関わってはいけないと、法律で、決められた…

つまり、ヤクザに社会的な地位は与えないという国の判断だ…

ヤクザをこの国からなくす判断だ…

だから、普通ならば、絶対、稲葉五郎は、ファミレスに入れないはずだった…

誰が見ても、一目見て、ヤクザとわかる外観だからだ…

しかし、なぜか、問題なく入れた…

理由は、簡単だった…

稲葉五郎は、一見して、ヤクザだが、威張ったところが、まるでないのだ…

一見して、コワモテのヤクザだが、腰が低く、ファミレスの受付でも、軽く頭を下げて、

「…よろしく、お願いします…」

と、小さな声で、言うことで、なんとなく、相手も安心するというか…

少なくとも、警察に慌てて通報することがなかった…

稲葉五郎のこの態度を見て、店で、問題を起こすとは、到底、思えないからだ…

実は、これが稲葉五郎の強みだった…

稲葉五郎自身は、誰が見ても、コワモテのヤクザだが、ニッコリと笑うと、妙に魅力があるというか…

チャーミングに見える…

つまり、一見して、コワモテの顔が、笑うことで、妙に、愛想よく見えるのだ…

そのギャップが見るものに、実は、このひと、誰が見ても、ヤクザに見えるけど、案外いいひとなのかも? と、思わせる…

ちょうど、俳優で言えば、遠藤憲一のようなものだ…

コワモテのときの顔と、笑ったときの顔に、物凄くギャップがある…

そのギャップ=落差に萌えるというか(笑)…

このひと、案外いいひとなのかも? と、誰にも思わせるのだ…

私は、それを見て、不思議なことに、気付いた…

同じなのだ…

誰と同じかと、いえば、高雄…

高雄悠(ゆう)…

あのおとなしめのイケメンと同じなのだ…

同じように、ギャップがある…

稲葉五郎は、顔のギャップだが、高雄は、外見と中身のギャップ…

いずれにしろ、その差が魅力だった…

同時に、思った…

この稲葉五郎と、私が、いっしょにいる理由…

それは、案外、このギャップにあるのでは? と、気付いた…

コワモテにもかかわらず、稲葉五郎が、私と接するときは、どこまでも、優しい…

なぜかは、わからないが、とことん優しく、私に接する…

まるで、父親のように、優しく接する。

それが、私にとって、心地いい…

なにより、稲葉五郎が、父親のように、私に接しているのが、わかったのが、この戸田といっしょに、稲葉一家の事務所にいたときだった…

あのとき、稲葉五郎は、まるで、怒髪天を衝いたように、激怒して、戸田を殴った…

それは、まるで、愛する自分の愛娘は、自分の職業に一切関わらせないというような態度だった…

自分は、ヤクザだが、娘には、一切、ヤクザと関わって欲しくない…

それが、この戸田が、愛娘を職場=ヤクザ事務所に連れてきたから、激怒した…

そう思えば、理解できる…

そう考えれば、理解できる…

事実、そう思える行動だった…

が、いずれにしろ、謎がある…

どうして、稲葉五郎は、私を実の娘のように扱うのか?

それが、根本的な謎だった…

私が、亡くなった古賀会長の血縁者というだけでは、説明できない…

それとも、稲葉五郎は、私と同じぐらいの年齢の娘でもいるのだろうか?

その娘と、私を重ねて、見ているのだろうか?

ふいに、思った…

そう思えば、稲葉五郎が、私を溺愛する理由がわかる…

私は、そんな目で、稲葉五郎を見た…

初めて、そんな気持ちで、稲葉五郎を見た…

                
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