第119話
文字数 4,725文字
「…高雄…高雄悠(ゆう)さんなの?…」
大場が繰り返す。
が、
すぐに、相手は、答えなかった…
少し間を置いて、
「…そうだよ…」
と、返答した…
ケータイから漏れる声が、私や、女将さんにも、聞こえた…
「…今、どこにいるの? いえ、どうして、お父さんを刺したの?…」
大場が聞く。
鬼のような形相だった…
当たり前だ…
自分の父親を刺した相手からの電話だ…
だが、
それは、同時に、自分の幼馴染(おさななじみ)であり、恋人でもあった…
「…仕方ないよ…」
高雄の声が漏れた…
「…つい、やっちまった…」
蚊の鳴くような声だった…
「…これで、刑務所行きかな…出所したら、オヤジの組で、雑用か、電話番から、始めるかな…」
「…バカなこと、言わないで…」
大場が怒った…
「…アンタみたいに弱っちいヤクザがいるものですか…アンタみたいな弱っちいのは、花屋か図書館で、働いていれば、いいのよ…」
大場がケータイに怒鳴る…
同じだ…
私と、まったく、同じだ…
高雄悠(ゆう)に、暴力は似合わない…
ヤクザは、似合わない…
似合うのは、花屋や図書館といった、おとなしめの職業…
私が、いつも、考えていたことと、大場が同じことを言ったので、申し訳ないが、もう少しで、
…プッ!…
と、吹き出すところだった…
危なかった…
この深刻な状況で、笑うことはできない…
吹き出すことは、できない…
にもかかわらず、吹き出しそうになった(苦笑)…
…まずい!…
…まずい!…
「…そうだな…あっちゃんの言う通りだ…」
スマホの向こう側から、高雄悠(ゆう)の弱弱しい声が、聞こえてきた…
「…でも、刺した男の娘に、電話しているなんて、なんか、複雑…オレって、ホント、救いようがねえな…ダメだな…」
電話の向こう側から、自虐の声が漏れる…
私は、驚いた…
なぜなら、高雄が、自分のことを、オレと言ったのを、初めて聞いたからだ…
いかにも、いいとこのお坊ちゃんっぽい、高雄には、ボクが、似合う…
だから、普段から、いつもボク…
それが、一転して、オレとは?
なんだか、すごく追い込まれてる…
そんな当たり前のことを感じた…
「…とにかく、今、どこにいるか、言いなさい…」
大場が、怒鳴る…
「…言えねえよ…そんなことより、オマエの声を聞けて、よかった…」
と、言うなり、プチっと、電話が切れた…
「…チョッ…チョット…」
慌てて、大場が、叫んだが、後の祭りだった…
大場が、呆然とする。
が、
すぐに、我に返ると、急いで、電話しようとした…
と、そのときだった…
またも、
プル…プル…プル…と、電話が鳴った…
「…悠(ゆう)さん…」
と、慌てて、大場が電話に出た…
が、
相手は、悠(ゆう)ではなかった…
「…敦子…今、どうしているの?…」
中年の女の声だった…
「…ママ?…」
大場が驚く…
が、
それ以上に、驚いたのは、
…ママ…
と、大場が呼んだことだった…
いっときは、ヤンキーを気取って、私の前に現れたこともある、大場に、
…ママ…
は、似合わない(笑)…
だったら、父親の大場代議士のことを、
…パパ…
と、呼んだのは、どうなんだ? と、言いたくなるが、やはり、パパより、ママの方が、私的には、インパクトが強かった(笑)…
やはり、お金持ちは、私と違うのかもしれない…
そうも、思った…
が、
そんなことを、深く考えてる間もなく、
「…さっさと、帰って来なさい…お父さんが刺されて…」
電話から、狼狽した声が漏れた…
「…知ってる…だから、さっき、電話したけど、ママも、電話出なくて…」
「…今、すごくバタバタしているから、電話に出れなかったの…」
母親が、怒った様子で、答える…
すると、大場は、
「…」
と、黙った…
当たり前のことだからだ…
「…とにかく、帰って来なさい…詳しい話はそこで…」
言うなり、プチっと、電話が切れた…
大場は、所在なさげというか、どうしていいか、わからない様子だった…
それを見た女将さんが、
「…とにかく、お母さんの言う通り、家に帰りな…あっちゃん…」
と、声をかけた…
大場の背中を押したのだ…
「…どうなるかは、わからないけど、とにかく、お母さんの言う通りに…」
女将さんが言う…
これは、まずい…
思わず、女将さんの本音が漏れた…
どうなるか、わからないというのは、大場代議士の容態もそうだし、高雄悠(ゆう)の今後もそう…
どうなるか、さっぱり、わからない…
しかし、それを口にするわけには、いかない…
だが、思わず、女将さんは、その本音を口にしてしまった…
が、
狼狽した大場は、そのことに、気付かなかった…
そんな余裕がなかったからだ…
「…わかった…オバサンの言う通りにする…」
と、言うなり、あっけなく、店を出て行ってしまった…
私は、唖然とした…
私をここへ連れてきたくせに、すでに、私の存在など、忘れているようだった…
店には、ポツンと、女将さんと私だけが、残された…
なんだか、取り残された感じだった…
私と、女将さんの間に、気まずい沈黙が流れた…
元々、大した知り合いではない…
出会ったのが、たしか、今日が、3度目か、四度目という、きわめて浅いレベルの知り合い…
しかも、女将さんは、私が、稲葉五郎の娘かもしれないと、暴露した…
だから、女将さんも、私に対して、遠慮というか、及び腰だった…
だから、互いが互いを牽制するように、どうしていいか、わからなかった…
ピリピリというほどの雰囲気ではないが、明らかに、空気が緊張した…
そう、考えたときだった…
「…飲みなよ…せっかく持ってきたんだ…」
女将さんが、突然言った…
私は、ビックリした…
いきなり、なにを言われたのか、わからなかった…
「…飲み物だよ…お嬢ちゃん…さっき、五郎が来たときに、アタシが、あっちゃんと、二人分、持ってきただろ…」
そうだ…
すっかり、忘れていた…
手元に置かれたグラスに手を伸ばした…
「…いただきます…」
と、言って、口をつけた…
「…おいしい…」
思わず言った…
私の言葉に、渡辺えりに似た女将さんが、満足げに、笑った…
「…この店をやるにあたって、さんざ勉強したからね…この飲み物もオリジナルさ…」
女将さんが言う…
「…オリジナル?…」
「…そうさ…どこにでもある味なら、お客さんは、来てくれない…どこにもないようなオリジナルなもので、勝負する…これが、理想さ…」
女将さんが、解説する。
たしかに、女将さんの言うことは、わかる…
お店は競争が激しい…
生き残るには、その店オリジナルのもので、おいしいものがあるのが、一番だからだ…
私は、女将さんの入れてくれたドリンクを飲みながら、
「…女将さん…稲葉さんの話だけど…」
と、言った…
言わずには、いられなかった…
「…アンタが、五郎の娘かもしれないって、話かい?…」
「…そうです…」
「…あながち、間違いじゃないと思うよ…」
女将さんが言う。
「…間違いじゃない?…」
女将さんが、婉曲に断言しないことが、気になった…
「…アタシが知ったのは、つい最近…なにより、五郎が否定しなかっただろ?…」
曖昧にぼかした…
私も、それ以上は、突っ込めなかった…
「…それになにより、五郎のお嬢ちゃんに対する態度を見れば、わかるよ…溺愛する娘に対する態度そのものじゃないか? …まさにデレデレ…」
「…デレデレ?…」
「…それでいて、お嬢ちゃんに変な下心がないのは、わかるだろ? それで、気付いたんだ…」
女将さんが、ぶちまける。
それから、私は、考えた…
女将さんに、そこまで、言われても、私自身は、稲葉五郎の娘かもしれないという実感はない…
まったくない…
だけど、私は、これから、どうすれば、いいのだろう?
両親…いや、母親を問い詰めれば、いいのだろうか?
いや、
母を問い詰めれば、本当のことを言うだろうか?
ならば、やはり稲葉五郎と私のDNAを鑑定して…
そこまで、考えたとき、
「…お嬢ちゃん…ご両親には、なにも聞かない方がいいよ…」
と、女将さんが言った…
「…どうしてですか?…」
「…世の中、知っていても、知らないフリをしていた方が、いいことがいっぱいある…お嬢ちゃんが、ご両親に聞いて、もし、五郎が、実の父親ならば、お嬢ちゃんと、今の父親との間に溝ができる…それは、五郎も望んじゃいないと断言できる…」
「…」
「…無用に波風を起こして、あとで、取り返しのつかないことになったら、困るからね…」
女将さんが、しんみりと言った…
私も、女将さんの言うことが、わかった…
痛いほど、わかった…
不用意に、変な言葉を言って、相手を傷つければ、相手との間に溝ができる…
付き合っている恋人でも、いれば、それが、好例だろう…
その言葉をきっかけに、破局する…
たとえ、いったんは、仲直りしても、
…アイツ、実は、こんなこと、思ってたんだ!…
と、思って、それが、心に刺さるというか…
気になってくる…
結局は、なんとなく、ギクシャクして、そのうちに、うまくいかなくなってしまう…
そういうことだ…
それが、子供のいない、若い夫婦や、若い恋人同士ならば、いいが、私のように、父娘では、困る…
取り返しがつかなくなる…
22歳になるまで、父娘をやってきた…
私は、父になんの不満もない…
母にも、なんの不満もない…
それが、私が、今回の件を持ち出して、両親を責めれば、どうなるだろう?
仮に、間違いならば、なんでもないが、本当だったら、取り返しのつかないことになる…
もはや、以前の両親と私の関係に、戻れない可能性が高い…
いや、
戻れないに決まっている…
双方に禍根が残るというか…
しこりが残る…
そして、それを、元に戻すことは、たぶん、できない…
それを、忘れることは、できないからだ…
それを、考えれば、なにも聞かない方が、いい…
このまま、なにもしない方が、いい…
女将さんの言葉で、あらためて、思った…
そう、思ったときだった…
「…五郎は、寂しいのさ…」
いきなり、女将さんが、言った…
「…寂しい?…」
思わず、女将さんの言葉を繰り返した…
「…五郎も歳さ…50にもなる…50にもなって、独身…身寄りもなにもない…それが、お嬢ちゃんが、自分の娘かもしれないと、知ったときは、複雑な反面、嬉しかったに違いないさ…」
しんみりと、女将さんが言う…
「…稲葉さんが、女将さんに、言ったんですか?…」
「…まさか…いくら、五郎でも、言わないよ…でも、ハタから見れば、誰でも、わかる…五郎のあんな嬉しそうな顔を見たのは、長年付き合っているが、初めてといっていい…ホント、嬉しそうさ…」
私は、女将さんの言葉に、どう言っていいか、わからなかった…
すると、女将さんが、
「…だからね…お嬢ちゃんに、アタシから、ひとつ、お願いがあるんだ…」
…お願い?…
…一体、なんだろう?…
考える…
「…なんでしょうか?…」
「…たいしたことじゃない…お嬢ちゃんに、このままでいてもらいたいんだ…」
「…」
「…五郎と、これまで通り接してあげて、もらいたいんだ…」
「…これまで通り?…」
「…今度の一軒で、五郎から、お嬢ちゃんが、離れたら、五郎もショックが大きいからね…」
「…」
「…おそらく、恋人と別れるときより、つらいと思うよ…」
女将さんが、指摘する…
「…男にとって、娘と別れるのは、その母親の奥さんと別れるより、はるかに、つらいって、いうからね…」
私は、女将さんの言葉に、なんと言っていいか、わからなかった…
だから、
「…」
と、黙った…
答えなかった…
が、
女将さんは、それを承知で、
「…頼むよ…」
と、言って、私に頭を下げた…
私は、女将さんに、どう答えていいか、わからず、
「…」
と、無言のまま、頭を下げた…
昼間だというのに、薄暗い店内で、女二人の奇妙なやりとりが続いた…
大場が繰り返す。
が、
すぐに、相手は、答えなかった…
少し間を置いて、
「…そうだよ…」
と、返答した…
ケータイから漏れる声が、私や、女将さんにも、聞こえた…
「…今、どこにいるの? いえ、どうして、お父さんを刺したの?…」
大場が聞く。
鬼のような形相だった…
当たり前だ…
自分の父親を刺した相手からの電話だ…
だが、
それは、同時に、自分の幼馴染(おさななじみ)であり、恋人でもあった…
「…仕方ないよ…」
高雄の声が漏れた…
「…つい、やっちまった…」
蚊の鳴くような声だった…
「…これで、刑務所行きかな…出所したら、オヤジの組で、雑用か、電話番から、始めるかな…」
「…バカなこと、言わないで…」
大場が怒った…
「…アンタみたいに弱っちいヤクザがいるものですか…アンタみたいな弱っちいのは、花屋か図書館で、働いていれば、いいのよ…」
大場がケータイに怒鳴る…
同じだ…
私と、まったく、同じだ…
高雄悠(ゆう)に、暴力は似合わない…
ヤクザは、似合わない…
似合うのは、花屋や図書館といった、おとなしめの職業…
私が、いつも、考えていたことと、大場が同じことを言ったので、申し訳ないが、もう少しで、
…プッ!…
と、吹き出すところだった…
危なかった…
この深刻な状況で、笑うことはできない…
吹き出すことは、できない…
にもかかわらず、吹き出しそうになった(苦笑)…
…まずい!…
…まずい!…
「…そうだな…あっちゃんの言う通りだ…」
スマホの向こう側から、高雄悠(ゆう)の弱弱しい声が、聞こえてきた…
「…でも、刺した男の娘に、電話しているなんて、なんか、複雑…オレって、ホント、救いようがねえな…ダメだな…」
電話の向こう側から、自虐の声が漏れる…
私は、驚いた…
なぜなら、高雄が、自分のことを、オレと言ったのを、初めて聞いたからだ…
いかにも、いいとこのお坊ちゃんっぽい、高雄には、ボクが、似合う…
だから、普段から、いつもボク…
それが、一転して、オレとは?
なんだか、すごく追い込まれてる…
そんな当たり前のことを感じた…
「…とにかく、今、どこにいるか、言いなさい…」
大場が、怒鳴る…
「…言えねえよ…そんなことより、オマエの声を聞けて、よかった…」
と、言うなり、プチっと、電話が切れた…
「…チョッ…チョット…」
慌てて、大場が、叫んだが、後の祭りだった…
大場が、呆然とする。
が、
すぐに、我に返ると、急いで、電話しようとした…
と、そのときだった…
またも、
プル…プル…プル…と、電話が鳴った…
「…悠(ゆう)さん…」
と、慌てて、大場が電話に出た…
が、
相手は、悠(ゆう)ではなかった…
「…敦子…今、どうしているの?…」
中年の女の声だった…
「…ママ?…」
大場が驚く…
が、
それ以上に、驚いたのは、
…ママ…
と、大場が呼んだことだった…
いっときは、ヤンキーを気取って、私の前に現れたこともある、大場に、
…ママ…
は、似合わない(笑)…
だったら、父親の大場代議士のことを、
…パパ…
と、呼んだのは、どうなんだ? と、言いたくなるが、やはり、パパより、ママの方が、私的には、インパクトが強かった(笑)…
やはり、お金持ちは、私と違うのかもしれない…
そうも、思った…
が、
そんなことを、深く考えてる間もなく、
「…さっさと、帰って来なさい…お父さんが刺されて…」
電話から、狼狽した声が漏れた…
「…知ってる…だから、さっき、電話したけど、ママも、電話出なくて…」
「…今、すごくバタバタしているから、電話に出れなかったの…」
母親が、怒った様子で、答える…
すると、大場は、
「…」
と、黙った…
当たり前のことだからだ…
「…とにかく、帰って来なさい…詳しい話はそこで…」
言うなり、プチっと、電話が切れた…
大場は、所在なさげというか、どうしていいか、わからない様子だった…
それを見た女将さんが、
「…とにかく、お母さんの言う通り、家に帰りな…あっちゃん…」
と、声をかけた…
大場の背中を押したのだ…
「…どうなるかは、わからないけど、とにかく、お母さんの言う通りに…」
女将さんが言う…
これは、まずい…
思わず、女将さんの本音が漏れた…
どうなるか、わからないというのは、大場代議士の容態もそうだし、高雄悠(ゆう)の今後もそう…
どうなるか、さっぱり、わからない…
しかし、それを口にするわけには、いかない…
だが、思わず、女将さんは、その本音を口にしてしまった…
が、
狼狽した大場は、そのことに、気付かなかった…
そんな余裕がなかったからだ…
「…わかった…オバサンの言う通りにする…」
と、言うなり、あっけなく、店を出て行ってしまった…
私は、唖然とした…
私をここへ連れてきたくせに、すでに、私の存在など、忘れているようだった…
店には、ポツンと、女将さんと私だけが、残された…
なんだか、取り残された感じだった…
私と、女将さんの間に、気まずい沈黙が流れた…
元々、大した知り合いではない…
出会ったのが、たしか、今日が、3度目か、四度目という、きわめて浅いレベルの知り合い…
しかも、女将さんは、私が、稲葉五郎の娘かもしれないと、暴露した…
だから、女将さんも、私に対して、遠慮というか、及び腰だった…
だから、互いが互いを牽制するように、どうしていいか、わからなかった…
ピリピリというほどの雰囲気ではないが、明らかに、空気が緊張した…
そう、考えたときだった…
「…飲みなよ…せっかく持ってきたんだ…」
女将さんが、突然言った…
私は、ビックリした…
いきなり、なにを言われたのか、わからなかった…
「…飲み物だよ…お嬢ちゃん…さっき、五郎が来たときに、アタシが、あっちゃんと、二人分、持ってきただろ…」
そうだ…
すっかり、忘れていた…
手元に置かれたグラスに手を伸ばした…
「…いただきます…」
と、言って、口をつけた…
「…おいしい…」
思わず言った…
私の言葉に、渡辺えりに似た女将さんが、満足げに、笑った…
「…この店をやるにあたって、さんざ勉強したからね…この飲み物もオリジナルさ…」
女将さんが言う…
「…オリジナル?…」
「…そうさ…どこにでもある味なら、お客さんは、来てくれない…どこにもないようなオリジナルなもので、勝負する…これが、理想さ…」
女将さんが、解説する。
たしかに、女将さんの言うことは、わかる…
お店は競争が激しい…
生き残るには、その店オリジナルのもので、おいしいものがあるのが、一番だからだ…
私は、女将さんの入れてくれたドリンクを飲みながら、
「…女将さん…稲葉さんの話だけど…」
と、言った…
言わずには、いられなかった…
「…アンタが、五郎の娘かもしれないって、話かい?…」
「…そうです…」
「…あながち、間違いじゃないと思うよ…」
女将さんが言う。
「…間違いじゃない?…」
女将さんが、婉曲に断言しないことが、気になった…
「…アタシが知ったのは、つい最近…なにより、五郎が否定しなかっただろ?…」
曖昧にぼかした…
私も、それ以上は、突っ込めなかった…
「…それになにより、五郎のお嬢ちゃんに対する態度を見れば、わかるよ…溺愛する娘に対する態度そのものじゃないか? …まさにデレデレ…」
「…デレデレ?…」
「…それでいて、お嬢ちゃんに変な下心がないのは、わかるだろ? それで、気付いたんだ…」
女将さんが、ぶちまける。
それから、私は、考えた…
女将さんに、そこまで、言われても、私自身は、稲葉五郎の娘かもしれないという実感はない…
まったくない…
だけど、私は、これから、どうすれば、いいのだろう?
両親…いや、母親を問い詰めれば、いいのだろうか?
いや、
母を問い詰めれば、本当のことを言うだろうか?
ならば、やはり稲葉五郎と私のDNAを鑑定して…
そこまで、考えたとき、
「…お嬢ちゃん…ご両親には、なにも聞かない方がいいよ…」
と、女将さんが言った…
「…どうしてですか?…」
「…世の中、知っていても、知らないフリをしていた方が、いいことがいっぱいある…お嬢ちゃんが、ご両親に聞いて、もし、五郎が、実の父親ならば、お嬢ちゃんと、今の父親との間に溝ができる…それは、五郎も望んじゃいないと断言できる…」
「…」
「…無用に波風を起こして、あとで、取り返しのつかないことになったら、困るからね…」
女将さんが、しんみりと言った…
私も、女将さんの言うことが、わかった…
痛いほど、わかった…
不用意に、変な言葉を言って、相手を傷つければ、相手との間に溝ができる…
付き合っている恋人でも、いれば、それが、好例だろう…
その言葉をきっかけに、破局する…
たとえ、いったんは、仲直りしても、
…アイツ、実は、こんなこと、思ってたんだ!…
と、思って、それが、心に刺さるというか…
気になってくる…
結局は、なんとなく、ギクシャクして、そのうちに、うまくいかなくなってしまう…
そういうことだ…
それが、子供のいない、若い夫婦や、若い恋人同士ならば、いいが、私のように、父娘では、困る…
取り返しがつかなくなる…
22歳になるまで、父娘をやってきた…
私は、父になんの不満もない…
母にも、なんの不満もない…
それが、私が、今回の件を持ち出して、両親を責めれば、どうなるだろう?
仮に、間違いならば、なんでもないが、本当だったら、取り返しのつかないことになる…
もはや、以前の両親と私の関係に、戻れない可能性が高い…
いや、
戻れないに決まっている…
双方に禍根が残るというか…
しこりが残る…
そして、それを、元に戻すことは、たぶん、できない…
それを、忘れることは、できないからだ…
それを、考えれば、なにも聞かない方が、いい…
このまま、なにもしない方が、いい…
女将さんの言葉で、あらためて、思った…
そう、思ったときだった…
「…五郎は、寂しいのさ…」
いきなり、女将さんが、言った…
「…寂しい?…」
思わず、女将さんの言葉を繰り返した…
「…五郎も歳さ…50にもなる…50にもなって、独身…身寄りもなにもない…それが、お嬢ちゃんが、自分の娘かもしれないと、知ったときは、複雑な反面、嬉しかったに違いないさ…」
しんみりと、女将さんが言う…
「…稲葉さんが、女将さんに、言ったんですか?…」
「…まさか…いくら、五郎でも、言わないよ…でも、ハタから見れば、誰でも、わかる…五郎のあんな嬉しそうな顔を見たのは、長年付き合っているが、初めてといっていい…ホント、嬉しそうさ…」
私は、女将さんの言葉に、どう言っていいか、わからなかった…
すると、女将さんが、
「…だからね…お嬢ちゃんに、アタシから、ひとつ、お願いがあるんだ…」
…お願い?…
…一体、なんだろう?…
考える…
「…なんでしょうか?…」
「…たいしたことじゃない…お嬢ちゃんに、このままでいてもらいたいんだ…」
「…」
「…五郎と、これまで通り接してあげて、もらいたいんだ…」
「…これまで通り?…」
「…今度の一軒で、五郎から、お嬢ちゃんが、離れたら、五郎もショックが大きいからね…」
「…」
「…おそらく、恋人と別れるときより、つらいと思うよ…」
女将さんが、指摘する…
「…男にとって、娘と別れるのは、その母親の奥さんと別れるより、はるかに、つらいって、いうからね…」
私は、女将さんの言葉に、なんと言っていいか、わからなかった…
だから、
「…」
と、黙った…
答えなかった…
が、
女将さんは、それを承知で、
「…頼むよ…」
と、言って、私に頭を下げた…
私は、女将さんに、どう答えていいか、わからず、
「…」
と、無言のまま、頭を下げた…
昼間だというのに、薄暗い店内で、女二人の奇妙なやりとりが続いた…