第44話

文字数 5,171文字

 …杉崎実業…

 私は、会社の看板が見えてきたのを、見て、心が高鳴ったというか…

 大場や林、柴野、野口と会える…

 そう考えた…

 そう、考えたときに、いきなり、クルマが急ブレーキを踏んだ…

 何事かと思った…

 私も、稲葉五郎も、ミニバンの中で、カラダが大きく揺れた…

 二人とも、危うく、前の席のシートに頭というか、カラダごと、ぶつかりかけた…

 私は焦ったが、なんとか、両手で、その衝撃を和らげたというか…

 偶然と言うか、うまく反射的に、両手が前に出て、前のシートに手をやることで、直接、頭が、シートにぶつかることはなかった…

 だが、当然のことながら、痛い…

 「…い、いたーい!…」

 思わず、声に出した…

 本当は、稲葉五郎の前で、こんな声を出したくはなかった…

 せっかく、私に気を使って、ここまで、送ってくれた、いわば恩人の前で、こんなことは、いいたくなかったからだ…

 すると、間髪入れずに、

 「…大丈夫ですか? …お嬢…」

 と、隣の稲葉五郎が、声をかけた…

 「…大丈夫です…」

 私も、間髪入れずに、即答する…

 ホントは、全然、大丈夫じゃなかったが、稲葉五郎に心配をかけるわけには、いかない…

 稲葉五郎を見ると、心底、私を心配している様子が、表情から、見て取れた…

 だからこそ、余計に心配させるわけには、いかなかった…

 「…よかった…」

 私の言葉を聞いて、稲葉五郎が安堵する。

 それから、すぐに、大声で、

 「…どうした? …なにがあった?…」

 と、叫んだ…

 前の座席にいる、二人の若い衆に、聞いたのだ…

 「…スイマセン…いきなり、女が、このクルマの前に、飛び出してきて…」

 「…なんだと?…」

 稲葉五郎は、答えるや、すぐに、ドアを開けて、外に飛び出した…

 …早い!…

 私は、とっさに思った…

 しかも、ドアを開ける前に、わずかの間だが、窓から、外を見て、周囲の状況を、窺っている…

 稲葉五郎は、ヤクザ者だから、外にヒットマンがいるか、どうか、確認したのかもしれない…

 外に、ヒットマンがいれば、このまま、ミニバンに隠れていた方が、安全だからだ…

 しかし、普通は、ヒットマンがいるとは思えない…

 いかにヒットマンがいても、真っ昼間で、拳銃をバンバン撃ち合うとは、思えない…

 いや、思えないからこそ、あえて決行するとも、考えられる…

 誰もが、そんなことはありえないと、考える、真逆をいくことで、相手の隙を突くことができるからだ…

 それに、なにより、今、山田会は、次期会長の座を巡って、ゴタゴタしている…

 他団体との抗争はないが、身内の方が、いったん揉めた場合は、厄介に違いない…

 堅気(かたぎ)というか、一般の家庭でもそうだが、他人と、揉めるよりも、身内の親戚や兄弟で、揉める方が深刻だ…

 普段から、近い関係だから、言いたいことは言える…

だから、いったん揉めると、他人とのケンカよりも、壮絶なものになりがちだ…

私は、思った…

と、そこまで、考えたとき、

「…ちょっと、場所を考えて下さい…」

という、大きな女の声がした…

私は、慌てて、開けっぱなしにしたミニバンの扉から、外を見た…

一人の背の高い女のひとが、立っていた…

私は、その顔に見覚えがあった…

杉崎実業の人事部の女性…

…たしか、藤原綾乃とかいった女だった…

…人見人事部長の部下だと、言っていた女だった…

「…どういうことだ? テメエ?…」

稲葉五郎の怒声が、響き渡った…

「…今が、どういう状況だか、わかるでしょ? 稲葉さん…」

藤原綾乃の声が聞こえる。

藤原綾乃が、

「…稲葉さん…」

と、名指ししたことで、藤原綾乃が、稲葉五郎を知っていることが、わかった…

「…状況?…どういう意味だ?…」

「…この杉崎実業は、高雄総業の子会社…稲葉さんと、対立する、高雄さんの関連会社…それが、どういうことか、おわかりになるはず…」

「…どういう意味だ?…」

「…無用な争いごとを作って欲しくないの…ただでさえ、みんなピリピリしてる…それなのに、稲葉さんが、ここにやって来ては、ダメ…」

藤原綾乃が強い口調で言う…

「…瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず李下(りか)に冠(かんむり)を正さず…」

「…どういう意味だ?…」

「…疑わしいことはするなと、言いたいの…」

藤原綾乃が、断言する。

すると、稲葉五郎が黙った…

たしかに、稲葉五郎は、高雄の父親と、山田会の次期会長の座を巡って争っている…

その争っている当人が、相手の牙城と言うか、勢力圏にある場所に、顔を出すのは、抗争の火種になるのでは? と、言いたいのだろう…

稲葉五郎もまた、それを理解したからこそ、黙ったに違いない…

「…オレは、今日、ここに用事がある女のコを連れてきただけだ…」

「…女のコ?…」

私は、その言葉を聞いて、ミニバンから降りた…

ミニバンから降りた私を見て、藤原綾乃が、

「…アナタ…」

と、仰天する。

それから、稲葉五郎を振り返って、

「…アナタもやるものね…」

と、声をかけた。

「…どういう意味だ?…」

稲葉五郎の顔色が変わった…

突然、まるでスイッチが入ったように、獰猛な素顔が剥き出しになった…

「…このお嬢ちゃん…」

と、藤原綾乃が、そこまで、言って、止めた…

「…それは話すのは、愚問ね…」

と、藤原綾乃は、笑った…

そして、また稲葉五郎もまた、

「…」

と、なにも言わなかった…

「…とりあえず、このお嬢ちゃんを、無事に送ってきてくれたことには、感謝するわ…」

藤原綾乃が言う。

しかし、この言葉にも、稲葉五郎は、無反応というか、

「…」

と、なにも言わなかった…

代わりに、私に振り向いて、

「…お嬢…お気を付けて…」

と、稲葉五郎が丁寧に頭を下げる。

まるで、私が、どこかの令嬢というか…

敬礼というか、頭を下げた相手が、ヤクザ界のスター、稲葉五郎だから、日本を代表する暴力団のお嬢様になった気分だった…

なにより、ヤクザやヤンキーが大の苦手な私が、高名なヤクザ者に頭を下げられる…

この現実が受け入れられないというか、変な気分だった…

シュールというか、あまりにも、非現実的だった…

暴力の匂いが大の苦手というか、率直に言って、怖い、私、竹下クミが、高名な暴力団の組長に、入社する予定の会社まで、送ってもらい、丁寧に頭まで下げられてる…

見る者が見れば、むしろ、お笑いになる…

ヤクザが怖い、女が、高名なヤクザ者に頭を下げられてる…

とても、現実とは思えない…

ありえない光景だからだ…

だから、笑えるのだ…

私は、そんなことを考えながら、

「…ありがとうございました…」

と、稲葉五郎に丁寧に頭を下げた。

が、稲葉五郎は、そんな私を見ることもなく、丁寧に頭を下げ続けた…

私は、どうしていいか、わからなかった…

「…顔を上げて下さい…」

と、本当ならば、声をかけたかったが、それも憚(はばか)れたというか、できなかった…

だから、つい、藤原綾乃の顔を見た…

藤原綾乃は、私が、どうしていいか、わからず困った顔をしているのを見て、

「…稲葉さん…頭を上げて…このお嬢さん…どうしていいか、わからず困ってるわよ…」

と、声をかけた。

「…困ってる?…」

藤原綾乃の指摘で、稲葉五郎が、頭を上げた。

「…自分の父親ぐらいの年齢の男の人に、丁寧に頭を下げられれば、誰でも、困るでしょ? 困らないのは、生まれつき、そういう環境に生まれた人間…日本では、皇族ぐらいよ…」

藤原綾乃が指摘する。

それを聞いて、うまいことを言うと、思った…

たしかに、この日本で、今の時代、生まれたときから、他人に頭を下げられるのを、慣れている人間は、皇族ぐらいの者だろう…

その言葉で、今度は、稲葉五郎が困った顔になった…

自分が丁寧に、頭を下げることで、私を困らせたことに、あらためて、気付いたというか…

「…それは、スイマセン…」

と、顔を真っ赤にして、謝った…

そして、謝ったのは、藤原綾乃ではなく、当然、この竹下クミ…

私は、この対応に固まった…

どうして、いいか、わからなかった…

が、その対応を、

「…相変わらず、不器用な男ね…」

と、藤原綾乃が笑った…

「…高雄さんも心配してたわ…周りに乗せれられて、利用されて、ポイされかねないって…」

「…兄貴が?…」

そう言って、稲葉五郎が絶句した…

私は、凄いことを言うと思った…

ヤクザ界のスターに向かって、なんということを…

すでにチャレンジャーを超えて、命知らずと言うか…

が、稲葉五郎はなにも言わなかった…

ただ、私に、

「…それでは、お嬢…お気を付けて…」

と、一言、言ったきり、踵を返して、歩き出して、ミニバンに乗り込んだ…

私は、唖然として、その姿を見ていた…

そして、ふと、気付いた…

…どうして、藤原綾乃が、あのミニバンを見て、稲葉五郎と気付いたのかと言うことを、だ…


私が、藤原綾乃を見ながら、それを聞こうかどうか、悩んでいると、その視線に気付いたのだろう…

「…どうしたの? …お嬢ちゃん…なにか、私に聞きたいことがあるの?…」

と、藤原綾乃が、私に言った。

私は迷うことなく、

「…どうして、あのクルマが、稲葉さんのクルマだと知っていたんですか?…」

と、聞いた。

この藤原綾乃は、当然、ヤクザではない…

だから、聞きやすかった…

「…簡単よ…」

藤原綾乃が、即答する。

「…ナンバーよ、ナンバー、クルマの…」

「…ナンバー?…」

「…稲葉さんは、0、1、7、8…1(い)、7(な)、8(ば)と、わかりやすい、ナンバーにしているの…だから…」

と、藤原綾乃が指摘する。

だが、私は、信じなかった…

藤原綾乃が今言っていることは、ウソではないだろう…

しかし、稲葉五郎のクルマが、杉崎実業に着いた時点で、藤原綾乃が、クルマの前に飛び出したのは、タイミングが良すぎる。

誰か、稲葉五郎の動静を、この藤原綾乃に伝えた人間がいるのでは?

私は、思った…

あるいは、藤原綾乃に直接ではなくとも、この藤原綾乃の上司の人見人事部長に伝えたのかもしれない…

そして、そこまで、考えると、あの稲葉五郎の周辺にも、やはり、稲葉五郎の動静を、直接、あるいは、間接にせよ、この藤原綾乃に伝えた人間がいるということ…

稲葉五郎の周辺に、はっきり言えば、稲葉五郎を裏切っている人間がいるということだ…

私は、考える。

と、そこまで、考えたとき、藤原綾乃が、

「…さあ、お嬢ちゃんも、難しい顔をしてないで、行きましょう…」

と、声をかけた。

私は、その声で、現実に引き戻されたといおうか…

思考が中断した…

「…さあ、お嬢ちゃんが、やって来なきゃ、始まらないわ…」

藤原綾乃が、声をかける。

…私が、やって来なければ、始まらない?…

…一体、どういうことだ?…

私は、藤原綾乃のモデルのような均整の取れたカラダの上にちょこんと載った端正な小さな顔を見た。

私の視線に気付いたのだろう…

「…なに? …お嬢ちゃん…真剣な顔をして、私を見ているの?…」

と、藤原綾乃が、口にする。

私は、言っていいか、どうか、しばし悩んだが、

「…私が、やって来なければ、始まらないって、一体どういう意味ですか?…」

と、直球に聞いた…

私の質問に、藤原綾乃は、

「…エッ?…」

と、小さく呟いて、驚いたが、すぐに態勢を立て直した…

何事もなかったように、

「…バカね…お嬢ちゃん…社交辞令に決まってるでしょ…」

と、説明した。

「…社交辞令?…」

「…そう、社交辞令…誰も、本気で、お嬢ちゃんが、来なければ始まらないなんて、思っちゃいないわ…」

そう言って、藤原綾乃がケラケラと楽しそうに笑った…

だが、私は、それを信じなかった…

いや、信じられなかった…

稲葉五郎と、この藤原綾乃が、まるで、大切な宝物のように、私を扱っていたからだ…

社交辞令でもなんでもなく、本気で、私が来なければ、始まらない…

そう信じてる可能性の方が、はるかに高かった…

               
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