第148話

文字数 5,429文字

 …公安の犬?…

 あの稲葉五郎が、公安の犬


 ありえない!

 稲葉五郎は、誰が見ても、ヤクザ者…

 正真正銘のヤクザ者だ…

 コンビニに置いてある、実話系の雑誌を見ても、

 …ヤクザ界のスター…

 と、書いてある…

 まるで、プロレスラーと見間違えるような大きなカラダに、ゴツイ顔…

 誰が、どう見ても、正真正銘のヤクザ…

 本物のヤクザにしか、見えない…

 それが、こともあろうに、公安の犬なんて…

 ありえない!

 ありえない!

 公安と、ヤクザ…

 文字通り、真逆の存在…

 しかも、稲葉五郎は、今、日本で二番目に、大きな暴力団の会長…

 押しも押されぬ、ヤクザ界の大物だ…

 その稲葉五郎を指して、公安の犬だ、なんて…

 悪ふざけにも、ほどがある…

 と、言いたいところだが、誰もが真剣だった…

 真剣な表情だった…

 大場父娘、そして、町中華の女将さんも、真剣な表情をして、私を見ていた…

 とても、冗談を言っている雰囲気ではなかった…

 私は、考えた…

 だったら、もし、稲葉五郎が、公安の犬だとして、その証拠はあるのだろうか?
 
 それは、目の前にいる、大場小太郎に聞けば、わかるはず…

 大場小太郎は、父親が国家公安委員長をしていて、その縁で、ヤクザ界に目を光らせていた…

 だから、当然、公安について、詳しいはずだ…

 「…証拠は…証拠はあるんですか?…」

 「…証拠…なんの証拠だい?…」

 渡辺えりに似た町中華の女将さんが、口を開く…

 が、

 女将さんには、悪いが、女将さんを無視して、大場小太郎を見た…

 「…稲葉さんが、公安の関係者だという証拠です…」

 私が、言うと、

 「…なんだい…お嬢ちゃんが、古賀さんの娘だという話じゃなく、五郎のことかい?…」

 と、女将さんが、肩を落とした…

 が、

 私は、そんな女将さんを無視した…

 自分が、古賀会長の娘うんぬんは、本当か、どうか、わからないが、稲葉五郎が、公安の犬と、呼ばれたことの方が、はるかに、関心があった…

 それは、やはり、稲葉五郎の精液と、古賀会長の精液を亡くなった高雄組組長が、すり替えたと言った説明を聞いたことが大きい…

 その説明が、本当か、ウソか、わからないが、とりあえず、納得のできる説明には、なっている…

 DNA鑑定の話もそうだ…

 その話が、本当か、嘘っぱちかは、わからない…

 でも、とりあえず、納得できる説明には、なっている…

 しかし、稲葉五郎が、公安の犬だという話には、なんの説明もない…

 だから、聞いた…

 いや、

 もしかしたら、私にとって、私が稲葉五郎の娘か否かよりも、稲葉五郎が、公安の犬と、呼ばれたことの方が、実は、はるかに関心が高いことなのかもしれない…

 私自身、気付いていないが、もしかしたら、そうなのかもしれない…

 私が、そんなことを考えていると、

 「…証拠はありません…」

 と、大場小太郎が答えた…

 「…証拠がない? だったら、どうして?…」

 私は、呟いた…

 証拠がないにも、かかわらず、稲葉五郎を公安の犬、呼ばわりする理由が、わからない…

 そんな私の疑問に、答えるように、

 「…でも、それは、確実な証拠がないというだけです…」

 大場小太郎が、続けた…

 「…確実な証拠?…」

 「…公安の職員名簿とか、そういう確実な証拠がない…だから、こちらとしても、公安の関係者と、推測するしかない…」

 大場小太郎が、ぶっちゃける…

 「…名簿がない…」

 あまりにも、意外な言葉だった…

 「…でも、だったら、どうして、公安のスパイなんて…」

 と、私。

 「…スパイに名簿はありません…」

 大場小太郎が、告白する…

 「…なぜなら、もし、名簿があるならば、どこそこの組織に潜入している誰々は、スパイだと、その名簿を見れば、すぐにわかってしまう…」

 大場小太郎が、説明する。

 「…だったら、なぜ、稲葉さんが、スパイだなんて?…」

 「…状況証拠だよ…お嬢ちゃん…」

 町中華の女将さんが、口を挟んだ…

 「…五郎が、どこそこの小学校や、中学校を出てると、口にする…でも、そこには、稲葉五郎が、在籍した記録がなかったり、あったとしても、五郎とは、別人…つまり、五郎は、過去を消している…といっても、稲葉五郎という人間は、明らかに存在するし、その証拠に、運転免許証も、住民票も、戸籍も存在している…それも、偽物なんかじゃない……本物だ…そんなことができるのは、国家機関の関係者だけ…つまりは、国家の力を借りて、過去を消している…そして、そんなことができるのは、公安のスパイ以外考えられないのさ…」

 町中華の女将さんが、理路整然と、説明する…

 たしかに、そう説明されれば、わかる…

 そう説明されれば、納得する…

 でも、いくらなんでも、日本で、二番目に大きな暴力団の会長が、公安の関係者だなんて…

 ありえない!

 いくら、なんでも、ありえない…

 私は、思った…

 それが、私の表情に現れたのだろう…

 「…その顔じゃ、信じられない様子ね…」

 と、大場敦子が、私に声をかけた…

 「…でも、それは、わかる…正直、私も信じられない…」

 大場が続けた…

 「…あくまで、状況証拠…確実な証拠はない…でも…」

 「…でも、なに?…」

 「…以前、私は、竹下さんに言った…覚えてる?…」

 「…覚えてるって、なにを?…」

 「…稲葉のオジサンの正体を、竹下さんに聞かれて、答えようとして…」

 私は、大場の言葉で、あのときを思い出した…

 私の質問に答えようとして、

 「…稲葉のオジサンの正体は、たぶん…」

 と、言いかけたところで、終わった…

 邪魔が入ったからだ…

 私は、それを思い出した…

 しかし、

 しかし、だ…

 私は、考える…

 あくまで、状況証拠…

 稲葉五郎が、公安の関係者だとしても、それは状況証拠…

 確実な証拠はない…

 いや、

 だとしたら、誰が、確実な証拠を持ってるのだろう…

 いや、

 そうではない…

 もう一歩話を進めて、誰が、公安のスパイだと知っているのだろう…

 今、目の前の大場小太郎は、公安にスパイの名簿はないと言った…

 これも、たしかに、当たり前かもしれない…

 そんな名簿があれば、どこそこに、潜入している誰々は、公安のスパイだと、たやすくバレる…

 だから、名簿はない…

 存在しない…

 でも、だったら、一体誰が、公安のスパイだと知っているのだろうか?

 だから、それを聞いた…

 「…だったら、一体誰が、稲葉さんが、本当は、公安のスパイだと知ってるんですか?…」

 「…それは、稲葉さんに、スパイを命じた人間でしょう…」

 大場小太郎が言った…

 「…スパイを命じた人間ですか?…」

 「…その通りです…ただし、もし仮に、稲葉さんがスパイだとしても、それを命じた人間は、すでに亡くなっている可能性もあります…」

 「…亡くなってる? だったら、誰が、稲葉さんをスパイだと知ってるんですか?…」

 「…警察庁のトップクラスの数名…片手の指の数もいないと思います…」

 「…」

 「…彼らは、どんなことがあっても、政治家に、その手の情報は、与えません…例え、国家公安委員長の要職を与えられてもです…」

 大場小太郎が、断言する…

 「…頻繁に変わる、政治家に、そんな貴重な情報は、与えられません…そして、それは、警察官僚上がりの政治家もまた同じです…彼らもまた、警察に、影響力はありますが、貴重な情報は、与えられません…」

 大場小太郎が続ける…

 つまりは、この話では、稲葉五郎が、本当に、公安のスパイなのかは、わからないということだ…

 だが、それでか?

 私は、思った…

 亡くなった古賀会長が、稲葉五郎に跡目を渡さなかった理由を、だ…

 稲葉五郎が、もし、公安のスパイだとしたら、当然、山田会の跡目を譲ることはできない…

 なにより、山田会は、というより、古賀会長は、中国の資金援助を受けて、山田会を大きくした…

 ということは、山田会は中国寄り…

 それが、稲葉五郎が、会長になれば、嫌でも、日本寄りになる…

 もしかしたら、亡くなった古賀会長は、それを嫌がったのかもしれない…

 だが、もう一つ、疑問がある…

 なぜ、亡くなった、高雄組組長は、古賀会長と、稲葉五郎の精液をすり替えたか? という疑問だ…

 どうして、そんなことをしたのか?

 「…どうして、高雄さんは、稲葉さんと、古賀さんの精液をすり替えたんですか?…」

 私は、町中華の女将さんに聞いた…

 町中華の女将さんは、私の直球の質問に考え込んだ…

 そして、

 「…たぶん、五郎を好きだったからだと思うよ…」

 と、答えた…

 「…好きだったから?…」

 「…だから、精液をすり替えた…古賀さんも、五郎も、高雄さんも皆、子供がいない共通点があった…」

 「…」

 「…それゆえ、シンパシーというのかな…子供がいないことで、お互いを理解できることがあった…女を抱けない古賀さんだったけど、やはり自分の子供には、興味があってね…それで、不妊治療じゃないけど、自分の精液で、子供を作ろうとしたことがあった…高雄さんは、それを利用した…逆手に取ったんだ…」

 …そんなことが?…

 驚いた…

 たしかに、そう言われれば、納得できる…

 女を抱けない=子供を作れない…

 だが、

 女を抱けない=子供が欲しくない…

 では、ない…

 言葉は、悪いかもしれないが、

 ゲイ=子供が欲しくない…

 というのと、同じなのかもしれない…

 女ではなく、男が好きな男が、稀にいる…

 存在する…

 しかし、

 ゲイ=子供が欲しくない…

 では、ない…

 いわゆる、自分の性癖が、ゲイならば、子供ができるはずがないが、子供が欲しいゲイもいる…

 仮に、男であれば、女とセックスをしなければ、子供はできないということを知りながら、女とセックスはしない…

 できない…

 だが、

 子供は欲しい…

 そういうことだろう…

 矛盾するが、そういうことだ…

 「…でも、その事実を、古賀さんや、稲葉さんは、知ってるんですか?…」

 私の質問に、渡辺えりに似た町中華の女将さんは、首を横に振って、否定した…

 「…知らないに決まってるよ…古賀さんも、知っていれば、真っ先に、私に言ったはずさ…」

 女将さんが答える…

 「…古賀さんは、五郎を警戒していた…」

 女将さんが、続ける…

 「…警戒していた?…」

 「…稲葉五郎は、ヤクザとして、優秀だった…半端なくね…だから、すぐに、側近として、取り上げた…でもね…過去が読めなかった…」

 「…」

 「…さっき、お嬢ちゃんに、言ったように、五郎が告げた、小学校や、中学校に行っても、稲葉五郎という人間は、存在しても、別人…
明らかに、あの稲葉五郎じゃない…だから、古賀さんは、後ろ盾の中国政府に頼んで、五郎の過去を洗ってもらった…でも、なにも、出てこない…そうこうするうちに、五郎は、山田会内部でも、力をつけ、会長の古賀さんですら、おいそれと、五郎に口出しすることができなくなった…」

 「…」

 「…もっとも、それを見越してか、古賀さんは、事前に手を打っていた…」

 「…どういうことですか?…」

 「…さっき言った、五郎の精液さ…製薬会社の社員に、五郎の精液を渡して、五郎の知らないところで、五郎の子供を作り、いざというときは、その子供を人質にとるつもりだった…」

 「…そんな?…」

 「…汚いといやあ、汚い…でも、古賀さんは、満州から、アタシの祖父母と、命からがら、逃げてきた…そのときに、さんざ、汚いことを見ている…文字通り、嫌というほどね…だから、そんなことを思いついたというか…正直、ノホホンと生きてきた、アタシなんかには、なにも、そこまでって、思うことを、平然とやった…生きてきた…くぐってきた修羅場が、半端ないというか…地獄を見てきたんだ…」

 私は、唖然として、町中華の女将さんの話を聞いていた…

 「…もっとも、これは、中国から引きあげてきた日本人は、大なり小なり、経験していることさ…あの三船敏郎も、宝田明も同じ…満州からの引き揚げ者だ…」

 女将さんが、説明する…

 「…でも、その五郎の弱点も、高雄さんが、拒んだことで、なくなった…」

 「…でも、どうして、高雄さんは、古賀さんの命令を拒んだんですか?…」

 「…それは、さっきも言ったように、高雄さんが、五郎を好きだったからだろうね…それと、いくらなんでも、そこまでするのは?…と、躊躇ったんだろう…いかに、ヤクザ者といえでも、所詮、高雄さんと、古賀さんじゃ、生まれた時代が、違うし、くぐってきた修羅場が、違う…だから、どうしても、高雄さんは、ぬるくなる…」

 女将さんが、説明する…
 
 「…五郎や高雄さんと同じ時代に生まれた人間と、古賀さんとじゃ、生まれた時代も、くぐってきた修羅場も違い過ぎる…」

 女将さんが、ため息を漏らした…

 「…だから、五郎の精液と古賀さんの精液を替えるなんて、ことをしたんだろう…これが、古賀さんが、命じられる立場ならば、そんなことは、絶対しなかった…」

 女将さんの説明を聞きながら、ふと、疑問が湧いた…

 だったら、

 だったら、

 もし、

 もしかして、

 稲葉五郎が、そのことを知っていたら?

 本当は、高雄組組長が、自分の精液と、古賀さんの精液をすり変えた事実を知っていたら…

 そもそも、最初に、私に会ったときに、すでに、私が、古賀さんの娘だと知っていたとしたら?

 そんな可能性が、ふいに、私の脳裏に浮かんだ…

                

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