第148話
文字数 5,429文字
…公安の犬?…
あの稲葉五郎が、公安の犬
?
ありえない!
稲葉五郎は、誰が見ても、ヤクザ者…
正真正銘のヤクザ者だ…
コンビニに置いてある、実話系の雑誌を見ても、
…ヤクザ界のスター…
と、書いてある…
まるで、プロレスラーと見間違えるような大きなカラダに、ゴツイ顔…
誰が、どう見ても、正真正銘のヤクザ…
本物のヤクザにしか、見えない…
それが、こともあろうに、公安の犬なんて…
ありえない!
ありえない!
公安と、ヤクザ…
文字通り、真逆の存在…
しかも、稲葉五郎は、今、日本で二番目に、大きな暴力団の会長…
押しも押されぬ、ヤクザ界の大物だ…
その稲葉五郎を指して、公安の犬だ、なんて…
悪ふざけにも、ほどがある…
と、言いたいところだが、誰もが真剣だった…
真剣な表情だった…
大場父娘、そして、町中華の女将さんも、真剣な表情をして、私を見ていた…
とても、冗談を言っている雰囲気ではなかった…
私は、考えた…
だったら、もし、稲葉五郎が、公安の犬だとして、その証拠はあるのだろうか?
それは、目の前にいる、大場小太郎に聞けば、わかるはず…
大場小太郎は、父親が国家公安委員長をしていて、その縁で、ヤクザ界に目を光らせていた…
だから、当然、公安について、詳しいはずだ…
「…証拠は…証拠はあるんですか?…」
「…証拠…なんの証拠だい?…」
渡辺えりに似た町中華の女将さんが、口を開く…
が、
女将さんには、悪いが、女将さんを無視して、大場小太郎を見た…
「…稲葉さんが、公安の関係者だという証拠です…」
私が、言うと、
「…なんだい…お嬢ちゃんが、古賀さんの娘だという話じゃなく、五郎のことかい?…」
と、女将さんが、肩を落とした…
が、
私は、そんな女将さんを無視した…
自分が、古賀会長の娘うんぬんは、本当か、どうか、わからないが、稲葉五郎が、公安の犬と、呼ばれたことの方が、はるかに、関心があった…
それは、やはり、稲葉五郎の精液と、古賀会長の精液を亡くなった高雄組組長が、すり替えたと言った説明を聞いたことが大きい…
その説明が、本当か、ウソか、わからないが、とりあえず、納得のできる説明には、なっている…
DNA鑑定の話もそうだ…
その話が、本当か、嘘っぱちかは、わからない…
でも、とりあえず、納得できる説明には、なっている…
しかし、稲葉五郎が、公安の犬だという話には、なんの説明もない…
だから、聞いた…
いや、
もしかしたら、私にとって、私が稲葉五郎の娘か否かよりも、稲葉五郎が、公安の犬と、呼ばれたことの方が、実は、はるかに関心が高いことなのかもしれない…
私自身、気付いていないが、もしかしたら、そうなのかもしれない…
私が、そんなことを考えていると、
「…証拠はありません…」
と、大場小太郎が答えた…
「…証拠がない? だったら、どうして?…」
私は、呟いた…
証拠がないにも、かかわらず、稲葉五郎を公安の犬、呼ばわりする理由が、わからない…
そんな私の疑問に、答えるように、
「…でも、それは、確実な証拠がないというだけです…」
大場小太郎が、続けた…
「…確実な証拠?…」
「…公安の職員名簿とか、そういう確実な証拠がない…だから、こちらとしても、公安の関係者と、推測するしかない…」
大場小太郎が、ぶっちゃける…
「…名簿がない…」
あまりにも、意外な言葉だった…
「…でも、だったら、どうして、公安のスパイなんて…」
と、私。
「…スパイに名簿はありません…」
大場小太郎が、告白する…
「…なぜなら、もし、名簿があるならば、どこそこの組織に潜入している誰々は、スパイだと、その名簿を見れば、すぐにわかってしまう…」
大場小太郎が、説明する。
「…だったら、なぜ、稲葉さんが、スパイだなんて?…」
「…状況証拠だよ…お嬢ちゃん…」
町中華の女将さんが、口を挟んだ…
「…五郎が、どこそこの小学校や、中学校を出てると、口にする…でも、そこには、稲葉五郎が、在籍した記録がなかったり、あったとしても、五郎とは、別人…つまり、五郎は、過去を消している…といっても、稲葉五郎という人間は、明らかに存在するし、その証拠に、運転免許証も、住民票も、戸籍も存在している…それも、偽物なんかじゃない……本物だ…そんなことができるのは、国家機関の関係者だけ…つまりは、国家の力を借りて、過去を消している…そして、そんなことができるのは、公安のスパイ以外考えられないのさ…」
町中華の女将さんが、理路整然と、説明する…
たしかに、そう説明されれば、わかる…
そう説明されれば、納得する…
でも、いくらなんでも、日本で、二番目に大きな暴力団の会長が、公安の関係者だなんて…
ありえない!
いくら、なんでも、ありえない…
私は、思った…
それが、私の表情に現れたのだろう…
「…その顔じゃ、信じられない様子ね…」
と、大場敦子が、私に声をかけた…
「…でも、それは、わかる…正直、私も信じられない…」
大場が続けた…
「…あくまで、状況証拠…確実な証拠はない…でも…」
「…でも、なに?…」
「…以前、私は、竹下さんに言った…覚えてる?…」
「…覚えてるって、なにを?…」
「…稲葉のオジサンの正体を、竹下さんに聞かれて、答えようとして…」
私は、大場の言葉で、あのときを思い出した…
私の質問に答えようとして、
「…稲葉のオジサンの正体は、たぶん…」
と、言いかけたところで、終わった…
邪魔が入ったからだ…
私は、それを思い出した…
しかし、
しかし、だ…
私は、考える…
あくまで、状況証拠…
稲葉五郎が、公安の関係者だとしても、それは状況証拠…
確実な証拠はない…
いや、
だとしたら、誰が、確実な証拠を持ってるのだろう…
いや、
そうではない…
もう一歩話を進めて、誰が、公安のスパイだと知っているのだろう…
今、目の前の大場小太郎は、公安にスパイの名簿はないと言った…
これも、たしかに、当たり前かもしれない…
そんな名簿があれば、どこそこに、潜入している誰々は、公安のスパイだと、たやすくバレる…
だから、名簿はない…
存在しない…
でも、だったら、一体誰が、公安のスパイだと知っているのだろうか?
だから、それを聞いた…
「…だったら、一体誰が、稲葉さんが、本当は、公安のスパイだと知ってるんですか?…」
「…それは、稲葉さんに、スパイを命じた人間でしょう…」
大場小太郎が言った…
「…スパイを命じた人間ですか?…」
「…その通りです…ただし、もし仮に、稲葉さんがスパイだとしても、それを命じた人間は、すでに亡くなっている可能性もあります…」
「…亡くなってる? だったら、誰が、稲葉さんをスパイだと知ってるんですか?…」
「…警察庁のトップクラスの数名…片手の指の数もいないと思います…」
「…」
「…彼らは、どんなことがあっても、政治家に、その手の情報は、与えません…例え、国家公安委員長の要職を与えられてもです…」
大場小太郎が、断言する…
「…頻繁に変わる、政治家に、そんな貴重な情報は、与えられません…そして、それは、警察官僚上がりの政治家もまた同じです…彼らもまた、警察に、影響力はありますが、貴重な情報は、与えられません…」
大場小太郎が続ける…
つまりは、この話では、稲葉五郎が、本当に、公安のスパイなのかは、わからないということだ…
だが、それでか?
私は、思った…
亡くなった古賀会長が、稲葉五郎に跡目を渡さなかった理由を、だ…
稲葉五郎が、もし、公安のスパイだとしたら、当然、山田会の跡目を譲ることはできない…
なにより、山田会は、というより、古賀会長は、中国の資金援助を受けて、山田会を大きくした…
ということは、山田会は中国寄り…
それが、稲葉五郎が、会長になれば、嫌でも、日本寄りになる…
もしかしたら、亡くなった古賀会長は、それを嫌がったのかもしれない…
だが、もう一つ、疑問がある…
なぜ、亡くなった、高雄組組長は、古賀会長と、稲葉五郎の精液をすり替えたか? という疑問だ…
どうして、そんなことをしたのか?
「…どうして、高雄さんは、稲葉さんと、古賀さんの精液をすり替えたんですか?…」
私は、町中華の女将さんに聞いた…
町中華の女将さんは、私の直球の質問に考え込んだ…
そして、
「…たぶん、五郎を好きだったからだと思うよ…」
と、答えた…
「…好きだったから?…」
「…だから、精液をすり替えた…古賀さんも、五郎も、高雄さんも皆、子供がいない共通点があった…」
「…」
「…それゆえ、シンパシーというのかな…子供がいないことで、お互いを理解できることがあった…女を抱けない古賀さんだったけど、やはり自分の子供には、興味があってね…それで、不妊治療じゃないけど、自分の精液で、子供を作ろうとしたことがあった…高雄さんは、それを利用した…逆手に取ったんだ…」
…そんなことが?…
驚いた…
たしかに、そう言われれば、納得できる…
女を抱けない=子供を作れない…
だが、
女を抱けない=子供が欲しくない…
では、ない…
言葉は、悪いかもしれないが、
ゲイ=子供が欲しくない…
というのと、同じなのかもしれない…
女ではなく、男が好きな男が、稀にいる…
存在する…
しかし、
ゲイ=子供が欲しくない…
では、ない…
いわゆる、自分の性癖が、ゲイならば、子供ができるはずがないが、子供が欲しいゲイもいる…
仮に、男であれば、女とセックスをしなければ、子供はできないということを知りながら、女とセックスはしない…
できない…
だが、
子供は欲しい…
そういうことだろう…
矛盾するが、そういうことだ…
「…でも、その事実を、古賀さんや、稲葉さんは、知ってるんですか?…」
私の質問に、渡辺えりに似た町中華の女将さんは、首を横に振って、否定した…
「…知らないに決まってるよ…古賀さんも、知っていれば、真っ先に、私に言ったはずさ…」
女将さんが答える…
「…古賀さんは、五郎を警戒していた…」
女将さんが、続ける…
「…警戒していた?…」
「…稲葉五郎は、ヤクザとして、優秀だった…半端なくね…だから、すぐに、側近として、取り上げた…でもね…過去が読めなかった…」
「…」
「…さっき、お嬢ちゃんに、言ったように、五郎が告げた、小学校や、中学校に行っても、稲葉五郎という人間は、存在しても、別人…
明らかに、あの稲葉五郎じゃない…だから、古賀さんは、後ろ盾の中国政府に頼んで、五郎の過去を洗ってもらった…でも、なにも、出てこない…そうこうするうちに、五郎は、山田会内部でも、力をつけ、会長の古賀さんですら、おいそれと、五郎に口出しすることができなくなった…」
「…」
「…もっとも、それを見越してか、古賀さんは、事前に手を打っていた…」
「…どういうことですか?…」
「…さっき言った、五郎の精液さ…製薬会社の社員に、五郎の精液を渡して、五郎の知らないところで、五郎の子供を作り、いざというときは、その子供を人質にとるつもりだった…」
「…そんな?…」
「…汚いといやあ、汚い…でも、古賀さんは、満州から、アタシの祖父母と、命からがら、逃げてきた…そのときに、さんざ、汚いことを見ている…文字通り、嫌というほどね…だから、そんなことを思いついたというか…正直、ノホホンと生きてきた、アタシなんかには、なにも、そこまでって、思うことを、平然とやった…生きてきた…くぐってきた修羅場が、半端ないというか…地獄を見てきたんだ…」
私は、唖然として、町中華の女将さんの話を聞いていた…
「…もっとも、これは、中国から引きあげてきた日本人は、大なり小なり、経験していることさ…あの三船敏郎も、宝田明も同じ…満州からの引き揚げ者だ…」
女将さんが、説明する…
「…でも、その五郎の弱点も、高雄さんが、拒んだことで、なくなった…」
「…でも、どうして、高雄さんは、古賀さんの命令を拒んだんですか?…」
「…それは、さっきも言ったように、高雄さんが、五郎を好きだったからだろうね…それと、いくらなんでも、そこまでするのは?…と、躊躇ったんだろう…いかに、ヤクザ者といえでも、所詮、高雄さんと、古賀さんじゃ、生まれた時代が、違うし、くぐってきた修羅場が、違う…だから、どうしても、高雄さんは、ぬるくなる…」
女将さんが、説明する…
「…五郎や高雄さんと同じ時代に生まれた人間と、古賀さんとじゃ、生まれた時代も、くぐってきた修羅場も違い過ぎる…」
女将さんが、ため息を漏らした…
「…だから、五郎の精液と古賀さんの精液を替えるなんて、ことをしたんだろう…これが、古賀さんが、命じられる立場ならば、そんなことは、絶対しなかった…」
女将さんの説明を聞きながら、ふと、疑問が湧いた…
だったら、
だったら、
もし、
もしかして、
稲葉五郎が、そのことを知っていたら?
本当は、高雄組組長が、自分の精液と、古賀さんの精液をすり変えた事実を知っていたら…
そもそも、最初に、私に会ったときに、すでに、私が、古賀さんの娘だと知っていたとしたら?
そんな可能性が、ふいに、私の脳裏に浮かんだ…
あの稲葉五郎が、公安の犬
?
ありえない!
稲葉五郎は、誰が見ても、ヤクザ者…
正真正銘のヤクザ者だ…
コンビニに置いてある、実話系の雑誌を見ても、
…ヤクザ界のスター…
と、書いてある…
まるで、プロレスラーと見間違えるような大きなカラダに、ゴツイ顔…
誰が、どう見ても、正真正銘のヤクザ…
本物のヤクザにしか、見えない…
それが、こともあろうに、公安の犬なんて…
ありえない!
ありえない!
公安と、ヤクザ…
文字通り、真逆の存在…
しかも、稲葉五郎は、今、日本で二番目に、大きな暴力団の会長…
押しも押されぬ、ヤクザ界の大物だ…
その稲葉五郎を指して、公安の犬だ、なんて…
悪ふざけにも、ほどがある…
と、言いたいところだが、誰もが真剣だった…
真剣な表情だった…
大場父娘、そして、町中華の女将さんも、真剣な表情をして、私を見ていた…
とても、冗談を言っている雰囲気ではなかった…
私は、考えた…
だったら、もし、稲葉五郎が、公安の犬だとして、その証拠はあるのだろうか?
それは、目の前にいる、大場小太郎に聞けば、わかるはず…
大場小太郎は、父親が国家公安委員長をしていて、その縁で、ヤクザ界に目を光らせていた…
だから、当然、公安について、詳しいはずだ…
「…証拠は…証拠はあるんですか?…」
「…証拠…なんの証拠だい?…」
渡辺えりに似た町中華の女将さんが、口を開く…
が、
女将さんには、悪いが、女将さんを無視して、大場小太郎を見た…
「…稲葉さんが、公安の関係者だという証拠です…」
私が、言うと、
「…なんだい…お嬢ちゃんが、古賀さんの娘だという話じゃなく、五郎のことかい?…」
と、女将さんが、肩を落とした…
が、
私は、そんな女将さんを無視した…
自分が、古賀会長の娘うんぬんは、本当か、どうか、わからないが、稲葉五郎が、公安の犬と、呼ばれたことの方が、はるかに、関心があった…
それは、やはり、稲葉五郎の精液と、古賀会長の精液を亡くなった高雄組組長が、すり替えたと言った説明を聞いたことが大きい…
その説明が、本当か、ウソか、わからないが、とりあえず、納得のできる説明には、なっている…
DNA鑑定の話もそうだ…
その話が、本当か、嘘っぱちかは、わからない…
でも、とりあえず、納得できる説明には、なっている…
しかし、稲葉五郎が、公安の犬だという話には、なんの説明もない…
だから、聞いた…
いや、
もしかしたら、私にとって、私が稲葉五郎の娘か否かよりも、稲葉五郎が、公安の犬と、呼ばれたことの方が、実は、はるかに関心が高いことなのかもしれない…
私自身、気付いていないが、もしかしたら、そうなのかもしれない…
私が、そんなことを考えていると、
「…証拠はありません…」
と、大場小太郎が答えた…
「…証拠がない? だったら、どうして?…」
私は、呟いた…
証拠がないにも、かかわらず、稲葉五郎を公安の犬、呼ばわりする理由が、わからない…
そんな私の疑問に、答えるように、
「…でも、それは、確実な証拠がないというだけです…」
大場小太郎が、続けた…
「…確実な証拠?…」
「…公安の職員名簿とか、そういう確実な証拠がない…だから、こちらとしても、公安の関係者と、推測するしかない…」
大場小太郎が、ぶっちゃける…
「…名簿がない…」
あまりにも、意外な言葉だった…
「…でも、だったら、どうして、公安のスパイなんて…」
と、私。
「…スパイに名簿はありません…」
大場小太郎が、告白する…
「…なぜなら、もし、名簿があるならば、どこそこの組織に潜入している誰々は、スパイだと、その名簿を見れば、すぐにわかってしまう…」
大場小太郎が、説明する。
「…だったら、なぜ、稲葉さんが、スパイだなんて?…」
「…状況証拠だよ…お嬢ちゃん…」
町中華の女将さんが、口を挟んだ…
「…五郎が、どこそこの小学校や、中学校を出てると、口にする…でも、そこには、稲葉五郎が、在籍した記録がなかったり、あったとしても、五郎とは、別人…つまり、五郎は、過去を消している…といっても、稲葉五郎という人間は、明らかに存在するし、その証拠に、運転免許証も、住民票も、戸籍も存在している…それも、偽物なんかじゃない……本物だ…そんなことができるのは、国家機関の関係者だけ…つまりは、国家の力を借りて、過去を消している…そして、そんなことができるのは、公安のスパイ以外考えられないのさ…」
町中華の女将さんが、理路整然と、説明する…
たしかに、そう説明されれば、わかる…
そう説明されれば、納得する…
でも、いくらなんでも、日本で、二番目に大きな暴力団の会長が、公安の関係者だなんて…
ありえない!
いくら、なんでも、ありえない…
私は、思った…
それが、私の表情に現れたのだろう…
「…その顔じゃ、信じられない様子ね…」
と、大場敦子が、私に声をかけた…
「…でも、それは、わかる…正直、私も信じられない…」
大場が続けた…
「…あくまで、状況証拠…確実な証拠はない…でも…」
「…でも、なに?…」
「…以前、私は、竹下さんに言った…覚えてる?…」
「…覚えてるって、なにを?…」
「…稲葉のオジサンの正体を、竹下さんに聞かれて、答えようとして…」
私は、大場の言葉で、あのときを思い出した…
私の質問に答えようとして、
「…稲葉のオジサンの正体は、たぶん…」
と、言いかけたところで、終わった…
邪魔が入ったからだ…
私は、それを思い出した…
しかし、
しかし、だ…
私は、考える…
あくまで、状況証拠…
稲葉五郎が、公安の関係者だとしても、それは状況証拠…
確実な証拠はない…
いや、
だとしたら、誰が、確実な証拠を持ってるのだろう…
いや、
そうではない…
もう一歩話を進めて、誰が、公安のスパイだと知っているのだろう…
今、目の前の大場小太郎は、公安にスパイの名簿はないと言った…
これも、たしかに、当たり前かもしれない…
そんな名簿があれば、どこそこに、潜入している誰々は、公安のスパイだと、たやすくバレる…
だから、名簿はない…
存在しない…
でも、だったら、一体誰が、公安のスパイだと知っているのだろうか?
だから、それを聞いた…
「…だったら、一体誰が、稲葉さんが、本当は、公安のスパイだと知ってるんですか?…」
「…それは、稲葉さんに、スパイを命じた人間でしょう…」
大場小太郎が言った…
「…スパイを命じた人間ですか?…」
「…その通りです…ただし、もし仮に、稲葉さんがスパイだとしても、それを命じた人間は、すでに亡くなっている可能性もあります…」
「…亡くなってる? だったら、誰が、稲葉さんをスパイだと知ってるんですか?…」
「…警察庁のトップクラスの数名…片手の指の数もいないと思います…」
「…」
「…彼らは、どんなことがあっても、政治家に、その手の情報は、与えません…例え、国家公安委員長の要職を与えられてもです…」
大場小太郎が、断言する…
「…頻繁に変わる、政治家に、そんな貴重な情報は、与えられません…そして、それは、警察官僚上がりの政治家もまた同じです…彼らもまた、警察に、影響力はありますが、貴重な情報は、与えられません…」
大場小太郎が続ける…
つまりは、この話では、稲葉五郎が、本当に、公安のスパイなのかは、わからないということだ…
だが、それでか?
私は、思った…
亡くなった古賀会長が、稲葉五郎に跡目を渡さなかった理由を、だ…
稲葉五郎が、もし、公安のスパイだとしたら、当然、山田会の跡目を譲ることはできない…
なにより、山田会は、というより、古賀会長は、中国の資金援助を受けて、山田会を大きくした…
ということは、山田会は中国寄り…
それが、稲葉五郎が、会長になれば、嫌でも、日本寄りになる…
もしかしたら、亡くなった古賀会長は、それを嫌がったのかもしれない…
だが、もう一つ、疑問がある…
なぜ、亡くなった、高雄組組長は、古賀会長と、稲葉五郎の精液をすり替えたか? という疑問だ…
どうして、そんなことをしたのか?
「…どうして、高雄さんは、稲葉さんと、古賀さんの精液をすり替えたんですか?…」
私は、町中華の女将さんに聞いた…
町中華の女将さんは、私の直球の質問に考え込んだ…
そして、
「…たぶん、五郎を好きだったからだと思うよ…」
と、答えた…
「…好きだったから?…」
「…だから、精液をすり替えた…古賀さんも、五郎も、高雄さんも皆、子供がいない共通点があった…」
「…」
「…それゆえ、シンパシーというのかな…子供がいないことで、お互いを理解できることがあった…女を抱けない古賀さんだったけど、やはり自分の子供には、興味があってね…それで、不妊治療じゃないけど、自分の精液で、子供を作ろうとしたことがあった…高雄さんは、それを利用した…逆手に取ったんだ…」
…そんなことが?…
驚いた…
たしかに、そう言われれば、納得できる…
女を抱けない=子供を作れない…
だが、
女を抱けない=子供が欲しくない…
では、ない…
言葉は、悪いかもしれないが、
ゲイ=子供が欲しくない…
というのと、同じなのかもしれない…
女ではなく、男が好きな男が、稀にいる…
存在する…
しかし、
ゲイ=子供が欲しくない…
では、ない…
いわゆる、自分の性癖が、ゲイならば、子供ができるはずがないが、子供が欲しいゲイもいる…
仮に、男であれば、女とセックスをしなければ、子供はできないということを知りながら、女とセックスはしない…
できない…
だが、
子供は欲しい…
そういうことだろう…
矛盾するが、そういうことだ…
「…でも、その事実を、古賀さんや、稲葉さんは、知ってるんですか?…」
私の質問に、渡辺えりに似た町中華の女将さんは、首を横に振って、否定した…
「…知らないに決まってるよ…古賀さんも、知っていれば、真っ先に、私に言ったはずさ…」
女将さんが答える…
「…古賀さんは、五郎を警戒していた…」
女将さんが、続ける…
「…警戒していた?…」
「…稲葉五郎は、ヤクザとして、優秀だった…半端なくね…だから、すぐに、側近として、取り上げた…でもね…過去が読めなかった…」
「…」
「…さっき、お嬢ちゃんに、言ったように、五郎が告げた、小学校や、中学校に行っても、稲葉五郎という人間は、存在しても、別人…
明らかに、あの稲葉五郎じゃない…だから、古賀さんは、後ろ盾の中国政府に頼んで、五郎の過去を洗ってもらった…でも、なにも、出てこない…そうこうするうちに、五郎は、山田会内部でも、力をつけ、会長の古賀さんですら、おいそれと、五郎に口出しすることができなくなった…」
「…」
「…もっとも、それを見越してか、古賀さんは、事前に手を打っていた…」
「…どういうことですか?…」
「…さっき言った、五郎の精液さ…製薬会社の社員に、五郎の精液を渡して、五郎の知らないところで、五郎の子供を作り、いざというときは、その子供を人質にとるつもりだった…」
「…そんな?…」
「…汚いといやあ、汚い…でも、古賀さんは、満州から、アタシの祖父母と、命からがら、逃げてきた…そのときに、さんざ、汚いことを見ている…文字通り、嫌というほどね…だから、そんなことを思いついたというか…正直、ノホホンと生きてきた、アタシなんかには、なにも、そこまでって、思うことを、平然とやった…生きてきた…くぐってきた修羅場が、半端ないというか…地獄を見てきたんだ…」
私は、唖然として、町中華の女将さんの話を聞いていた…
「…もっとも、これは、中国から引きあげてきた日本人は、大なり小なり、経験していることさ…あの三船敏郎も、宝田明も同じ…満州からの引き揚げ者だ…」
女将さんが、説明する…
「…でも、その五郎の弱点も、高雄さんが、拒んだことで、なくなった…」
「…でも、どうして、高雄さんは、古賀さんの命令を拒んだんですか?…」
「…それは、さっきも言ったように、高雄さんが、五郎を好きだったからだろうね…それと、いくらなんでも、そこまでするのは?…と、躊躇ったんだろう…いかに、ヤクザ者といえでも、所詮、高雄さんと、古賀さんじゃ、生まれた時代が、違うし、くぐってきた修羅場が、違う…だから、どうしても、高雄さんは、ぬるくなる…」
女将さんが、説明する…
「…五郎や高雄さんと同じ時代に生まれた人間と、古賀さんとじゃ、生まれた時代も、くぐってきた修羅場も違い過ぎる…」
女将さんが、ため息を漏らした…
「…だから、五郎の精液と古賀さんの精液を替えるなんて、ことをしたんだろう…これが、古賀さんが、命じられる立場ならば、そんなことは、絶対しなかった…」
女将さんの説明を聞きながら、ふと、疑問が湧いた…
だったら、
だったら、
もし、
もしかして、
稲葉五郎が、そのことを知っていたら?
本当は、高雄組組長が、自分の精液と、古賀さんの精液をすり変えた事実を知っていたら…
そもそも、最初に、私に会ったときに、すでに、私が、古賀さんの娘だと知っていたとしたら?
そんな可能性が、ふいに、私の脳裏に浮かんだ…