第57話

文字数 5,501文字

 …シコリを残さないわけがない?…

 …シコリって?…

 凄い言葉だ…

 だが、確かに、言われてみれば、この戸田の言う通り…

 学校でも、会社でも、どんなに、仲の良い者同士でも、なにかを狙って、争えば、シコリが残る…

 私のような社会経験の乏しい女子大生では、いわゆるポストを狙って、争う例は、まだ見たことは、ないが、男に関しては、見たことがある(笑)…

 要するに、イケメンをゲットすることだ…

 仲のいい女のコ同士が、一人のイケメンを巡って、険悪な関係になり、やがて、口も利かなくなったことも、見たことがある…

 そして、それが、人間だ…

 やはり、一人のイケメンを狙って、争えば、人間関係は、険悪になる…

 負けた女が、その後も、イケメンをゲットした女のコと、仲良くするなんて、ありえない…

 あるとすれば、よほどのお人よしか、少々頭が弱いのではないか?と、疑ってしまう…

 そして、たかだか、イケメンをゲットするのさえ、そうだ…

 イケメンといえども、別に、日本中に知れたアイドルでもなんでもない…

 それを手に入れるか否かですら、人間関係は、険悪になる…

 まして、稲葉五郎と、高雄の父親は、山田会の会長の座を争っている…

 日本で、二番目に大きな暴力団のボスの座を争っている…

 だから、当然、そのシコリは大きいに違いない…

 あるいは、選挙の当選結果ではないが、どちらかが、大敗、あるいは、大勝すれば、話は、違うかもしれない…

 そもそも力が雲泥の差だからだ…

 その場合は、素直に諦めがつく…

 いや、稀には、諦めがつかない人間もいるだろうが、山田会の次期会長の座を巡る争いだ…

 そもそも、大敗して、自分の力がわからない人間が、周囲から、山田会の次期会長の座に推されることなど、ありえないだろう…

 ところが、実力が伯仲した場合は、余計に難しくなる…

 惜しくも、負けたとなると、余計に相手が恨めしくなる…

 だから、余計に人間関係が険悪になる…

 いや、険悪にならずとも、仲良くは、なくなるだろう…

 そして、今、この戸田が言ったように、シコリが残るに決まっている…

 私は、戸田の言葉から、そう考えた…

 そして、あらためて、この戸田が、やはり、優秀であると、思った…

 山田会の会長の座を巡って、争って、それが、終われば、以前のように、打ち解けた関係になる…

 何事もなかったように、なる…

 そんなわけはないと、気付いている…

 そう思った…

 だが、だったら、この戸田は、稲葉五郎が、負ければ、どうなると、思っているのだろう?…

 山田会の次期会長の座を巡って、高雄の父親に負ければ、どうなると思っているのだろう?

 ふと、訊いてみたくなった…

 「…あの…ひとつ、訊いていいですか?…」

 「…なんでしょうか? …お嬢?…」

 「…稲葉さんが、山田会の次期会長の座を巡って、高雄さんの父親に負ければ、どうなるんですか?…」

 私の質問に、目の前の戸田の表情が、変わった…

 文字通り、顔から、血の気が引いた…

 「…それは、わかりません…ただ…」

 「…ただ、なんですか?…」

 「…どっちが勝つにしろ、負けるにしろ、今まで通りというわけには、いかないでしょう…」

 戸田の歯切れが悪かった…

 顔色も悪かったが、歯切れも悪かった…

 お嬢と呼ばれた私が、訊いたから、仕方なく、答えた様子だった…

 と、

 そのときだった…

 いきなり、バタンとして、背後のドアが開いた…

 この部屋にいるのは、私と、戸田だけ…

 いきなりの、乱入者だった…

 私と、戸田は、ビックリして、バタンと音がしたドアを、反射的に見た…

 すると、そこには、大柄な中年男の姿があった…

稲葉五郎の姿があった…

 「…オヤジ…」

 戸田が、絶句する…

 稲葉五郎は、形相が、変わっていた…

 明らかに、怒っていた…

 怒髪天を突くという言葉があるが、それに近い表情だった…

 一変に、その場の空気が変わった…

 それまでの私と、戸田のまったりとした空気が一変した…
 
 稲葉五郎は、無言で、ツカツカと歩いて戸田に近付いた…

 戸田の形相が変わった…

 恐怖で、ビビった表情になった…

稲葉五郎は、いきなり、戸田の服の襟首を掴むと、平手で、思いっきり、戸田をぶん殴った…

 バーンという音がした…

 同時に、文字通り、戸田のカラダが、弾け飛んだ…

 まるで、人形かなにかのように、ぶっ飛んで、倒れた…

 私は、言葉もなく、唖然として、その光景を見守った…

 思わず、ガタガタと、カラダが震えた…

 恐怖のためだ…

 あらためて、ココが、ヤクザ事務所だと、実感した…

 「…戸田…テメエ…なぜ、お嬢を、この事務所に連れてきた?…」

 稲葉五郎が、怒りの表情で、戸田を問い詰めた…

 「…どうして、お嬢を、ヤクザ事務所なんかに、連れてきた?…」

 稲葉五郎が怒鳴った…

 床に倒れた戸田は、恐怖の表情で、稲葉五郎を見上げた…

 その顔からは、血が出ている…

 鼻血が出たのだ…

 「…堅気のお嬢を、どうして、連れてきたぁー?…」

 稲葉五郎が、咆哮する。

 まるで、トラかなにかが、怒鳴る…

 そんな迫力があった…

 私は、恐怖で、固まった…

 そして、今、初めて、稲葉五郎の真の姿を見た気がした…

 大物ヤクザ…稲葉五郎の真の姿を見た気がした…

 あまりの恐怖に、私は、ただただ、ガタガタと、全身を震わせた…

 椅子に座ったままだが、その椅子が、ガタガタと揺れた…

 貧乏ゆすりなどという、レベルではなかった…

 まるで、大きな地震がやって来たレベルだった…

 それほど、ガタガタと揺れた…

 恐怖で、揺れた…

 「…ス…ス…イマセン…」

 床に倒れた、戸田が、稲葉五郎にぶたれた頬を右手で、押さえながら、言った…

 「…実は、今日、偶然…お、お嬢と、この事務所の近くで、会って…は、話をしようということになって…週刊誌の記者とか、周辺にいるから、この事務所なら、目立たねえと…」

 「…ホントか?…」

 稲葉五郎が、鬼の形相で、戸田を、睨み付ける…

 「…テメエ、ウソを言ってんじゃねえだろうな…」

 「…ホ、ホントです…お嬢に聞いて、見て、ください…」

 戸田が、私を見て言った…

 私は、戸田の言う通りなので、

 「…ホ、ホント…です…」

 と、言わなければ、ならなかったが、できなかった…

 恐怖のあまり、ガチガチにカラダが固まっていた…

 まるで、瞬間冷凍したように、カラダが固まって、一分前の平常な姿とは、雲泥の差だった…

 カラダが動かなかったのだ…

 私は、ただ椅子に座ったまま、ガタガタと震えていた…

 そんな私を、稲葉五郎が見た…

 鬼のような形相で、見た…

 当たり前だ…

 今、この瞬間、戸田に激怒していたのだ…

 当然、怒ったままだ…

 ゴツイ顔だが、いつも、私に、

 「…お嬢…お嬢…」

 と語りかける、愛想のよい姿は、見る影もなかった…

 暴力団の幹部という、別の姿が、そこにあった…

 が、

 ブルブルと震える私を見て、稲葉五郎の態度が豹変した…

 文字通り、豹変した…

 まるで、私が、瞬時に、瞬間冷凍のようなガチガチの状態になったのと、同じ早さで、

 「…お嬢…なにが、あろうと、堅気の人間が、こんなヤクザ事務所なんかに、来てはいけません…」

 と、まるで、3歳の幼児に言うように、優しく言った…

 が、

 私は、恐怖で、カラダが、ガチガチに固まったままで、動かなかった…

 だから、

 「…わかりました…」

 ということもできなければ、黙って、首を縦に振って、了承することもできなかった…

 私は、ただただ怖かった…

 恐怖で、どんな言葉も、口から出てこなかった…

 当たり前だが、今さらながら、私は、自分が、暴力に弱いという事実を実感した…

 暴力に弱いという事実を目の当たりにした…

 思えば、そんな、竹下クミが、暴力団の事務所にやって来たこと自体が、ビックリする事態だったのだ…

 あっては、ならない事態だったのだ…

 私は、あらためて、そのことを思った…

 自覚した…

 「…お嬢…お帰り下さい…」

 稲葉五郎が、優しく、私に語りかける。

 「…ここは、お嬢のような方が、来るところではありません…」

 稲葉五郎は、丁寧な口調で、続ける…

 が、

 私は返事ができなかった…

 いまだ、恐怖のために、返事どころか、頷くことさえできなかった…

 が、

 そんな私に、どこまでも、稲葉五郎は優しかった…

 「…お嬢…ゆっくりで、いいんです…ゆっくりと、歩いて、この事務所から、出て行けば、いいんです…」

 と、子供に諭すように、言う…

 「…オレが、お嬢を怯えさせたから、悪いんです…ですが、これが、ヤクザです…ヤクザの日常です…だから、堅気のお嬢は、今後、この事務所に、一切来てはいけません…出入り禁止です…わかりましたか?」

 稲賀五郎が宣言した…

 そして、ようやく、その稲葉五郎の言葉に、わずかに、動き出した私の首が、コクンと、縦に振って、頷いた…

 「…ス…スイマセン…」

 私の背後で、戸田が、再び、謝った…

 「…ほ…本当に、も…申し訳ありませんでした…」

 床から、立ち上がった戸田が、稲葉五郎に深々と頭を下げた…

 「…もう、いい…」

 不機嫌そうに、稲葉五郎が、戸田に返す…

 「…それより、鼻血を拭いて、お嬢をお見送りしろ…なにか、間違いがあったら、困る…」

 …間違い?…

 …間違いって、一体、なんだ?…

 私は、考える。

 しかし、それを口にすることはできなかった…

 つい、今さっき、激怒した稲葉五郎に、それを聞くことはできなかった…

 いかに、優しく、私に接してくれても、それを聞くことはできなかった…

 「…わかりました…」

 代わりに、戸田の声がした…

 事務所に、響き渡った…

 
 それから、私は、戸田といっしょに、事務所を出た…

 正直、お互い、気まずかった…

 戸田に悪気はないが、私を事務所に招いたことで、結果的に、稲葉五郎に、叱責された…

 しかも、その叱責は、暴力を伴うものだった…

 考えてみれば、当たり前だ…

 稲葉五郎は、ヤクザの親分…

 戸田は、その子分だ…

 ヤクザが子分を叱るのに、暴力を伴わないことは、ありえないというか…

 ひどく、当たり前のことだった…

 「…戸田さん…申し訳ありません…」

 私は、戸田と並んで歩きながら、戸田に詫びた…

 「…痛かったでしょ?…」

 私は、大柄な戸田の顔を見上げながら、訊いた…

 「…いえ、たいしたことはありません…むしろ、お嬢のおかげで、ラッキーでした…」

 …私のおかげで、ラッキー?…

 どういう意味だろ?

 私が、不思議に思って、戸田の顔を見た…

 「…私のおかげで、ラッキーって?…」

 「…オヤジが本気で怒れば、あんなものじゃないですよ…」

 「…あんなものじゃない?…」

 「…今日は、お嬢が、見てるから、手加減してくれたんです…」

 「…私が見てるから?…」

 「…いくら、オヤジでも、お嬢が見てる前で、あれ以上は、できませんよ…」

 と、あっさり告白する。

 それから、

 「…いや、違うか? …お嬢がいたから、あんなに怒ったのかな?…」

 と、独り言のように、呟いた…

 …私がいたから、あんなに怒った?…

 …それは、やはり、堅気の私を事務所に招いたから?…

 私は、考える。

 私が、そんなふうに考えていると、

 「…今、オヤジは、ナーバスになってるんです…」

 「…ナーバス…ですか?…」

 「…オヤジが、大場代議士との関係を週刊誌にスクープされたでしょ? アレは、高雄のオジキの仕業じゃないかと疑ってるんです…」

 大場の父親と、稲葉五郎の関係を週刊誌に垂れ込んだのが、高雄の父親?

 一体、どうして?

 「…情報戦ですよ…」

 「…情報戦?…」

 「…山田会の次期会長の座…オヤジとオジキは、その座を巡って争っている…だから、互いに相手の足を引っ張ろうとしている…」

 私は驚いて、戸田の顔を見た…

 「…もちろん、オヤジは、オジキを信頼してますよ…昔から仲が良く、そんなことをする人間じゃないと、思ってる…だから、たぶん、オジキを推す人間が勝手にやったと思ってますが、やはり、内心もしかしたら?…という気持ちもあって…イライラしてたんです」

 戸田が説明する。

 「…それに…」

 言いづらそうに、戸田が言った。

 「…オヤジは、お嬢が心配なんだと思います…」

 「…私が心配?…」

 「…今、お嬢は、高雄のオジキの息子の悠(ゆう)さんと、親しい…そして、うちのオヤジとも親しい…見方によっては、どっちつかずというか…」

 戸田が、意外なことを、口にした…

                
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