第57話
文字数 5,501文字
…シコリを残さないわけがない?…
…シコリって?…
凄い言葉だ…
だが、確かに、言われてみれば、この戸田の言う通り…
学校でも、会社でも、どんなに、仲の良い者同士でも、なにかを狙って、争えば、シコリが残る…
私のような社会経験の乏しい女子大生では、いわゆるポストを狙って、争う例は、まだ見たことは、ないが、男に関しては、見たことがある(笑)…
要するに、イケメンをゲットすることだ…
仲のいい女のコ同士が、一人のイケメンを巡って、険悪な関係になり、やがて、口も利かなくなったことも、見たことがある…
そして、それが、人間だ…
やはり、一人のイケメンを狙って、争えば、人間関係は、険悪になる…
負けた女が、その後も、イケメンをゲットした女のコと、仲良くするなんて、ありえない…
あるとすれば、よほどのお人よしか、少々頭が弱いのではないか?と、疑ってしまう…
そして、たかだか、イケメンをゲットするのさえ、そうだ…
イケメンといえども、別に、日本中に知れたアイドルでもなんでもない…
それを手に入れるか否かですら、人間関係は、険悪になる…
まして、稲葉五郎と、高雄の父親は、山田会の会長の座を争っている…
日本で、二番目に大きな暴力団のボスの座を争っている…
だから、当然、そのシコリは大きいに違いない…
あるいは、選挙の当選結果ではないが、どちらかが、大敗、あるいは、大勝すれば、話は、違うかもしれない…
そもそも力が雲泥の差だからだ…
その場合は、素直に諦めがつく…
いや、稀には、諦めがつかない人間もいるだろうが、山田会の次期会長の座を巡る争いだ…
そもそも、大敗して、自分の力がわからない人間が、周囲から、山田会の次期会長の座に推されることなど、ありえないだろう…
ところが、実力が伯仲した場合は、余計に難しくなる…
惜しくも、負けたとなると、余計に相手が恨めしくなる…
だから、余計に人間関係が険悪になる…
いや、険悪にならずとも、仲良くは、なくなるだろう…
そして、今、この戸田が言ったように、シコリが残るに決まっている…
私は、戸田の言葉から、そう考えた…
そして、あらためて、この戸田が、やはり、優秀であると、思った…
山田会の会長の座を巡って、争って、それが、終われば、以前のように、打ち解けた関係になる…
何事もなかったように、なる…
そんなわけはないと、気付いている…
そう思った…
だが、だったら、この戸田は、稲葉五郎が、負ければ、どうなると、思っているのだろう?…
山田会の次期会長の座を巡って、高雄の父親に負ければ、どうなると思っているのだろう?
ふと、訊いてみたくなった…
「…あの…ひとつ、訊いていいですか?…」
「…なんでしょうか? …お嬢?…」
「…稲葉さんが、山田会の次期会長の座を巡って、高雄さんの父親に負ければ、どうなるんですか?…」
私の質問に、目の前の戸田の表情が、変わった…
文字通り、顔から、血の気が引いた…
「…それは、わかりません…ただ…」
「…ただ、なんですか?…」
「…どっちが勝つにしろ、負けるにしろ、今まで通りというわけには、いかないでしょう…」
戸田の歯切れが悪かった…
顔色も悪かったが、歯切れも悪かった…
お嬢と呼ばれた私が、訊いたから、仕方なく、答えた様子だった…
と、
そのときだった…
いきなり、バタンとして、背後のドアが開いた…
この部屋にいるのは、私と、戸田だけ…
いきなりの、乱入者だった…
私と、戸田は、ビックリして、バタンと音がしたドアを、反射的に見た…
すると、そこには、大柄な中年男の姿があった…
稲葉五郎の姿があった…
「…オヤジ…」
戸田が、絶句する…
稲葉五郎は、形相が、変わっていた…
明らかに、怒っていた…
怒髪天を突くという言葉があるが、それに近い表情だった…
一変に、その場の空気が変わった…
それまでの私と、戸田のまったりとした空気が一変した…
稲葉五郎は、無言で、ツカツカと歩いて戸田に近付いた…
戸田の形相が変わった…
恐怖で、ビビった表情になった…
稲葉五郎は、いきなり、戸田の服の襟首を掴むと、平手で、思いっきり、戸田をぶん殴った…
バーンという音がした…
同時に、文字通り、戸田のカラダが、弾け飛んだ…
まるで、人形かなにかのように、ぶっ飛んで、倒れた…
私は、言葉もなく、唖然として、その光景を見守った…
思わず、ガタガタと、カラダが震えた…
恐怖のためだ…
あらためて、ココが、ヤクザ事務所だと、実感した…
「…戸田…テメエ…なぜ、お嬢を、この事務所に連れてきた?…」
稲葉五郎が、怒りの表情で、戸田を問い詰めた…
「…どうして、お嬢を、ヤクザ事務所なんかに、連れてきた?…」
稲葉五郎が怒鳴った…
床に倒れた戸田は、恐怖の表情で、稲葉五郎を見上げた…
その顔からは、血が出ている…
鼻血が出たのだ…
「…堅気のお嬢を、どうして、連れてきたぁー?…」
稲葉五郎が、咆哮する。
まるで、トラかなにかが、怒鳴る…
そんな迫力があった…
私は、恐怖で、固まった…
そして、今、初めて、稲葉五郎の真の姿を見た気がした…
大物ヤクザ…稲葉五郎の真の姿を見た気がした…
あまりの恐怖に、私は、ただただ、ガタガタと、全身を震わせた…
椅子に座ったままだが、その椅子が、ガタガタと揺れた…
貧乏ゆすりなどという、レベルではなかった…
まるで、大きな地震がやって来たレベルだった…
それほど、ガタガタと揺れた…
恐怖で、揺れた…
「…ス…ス…イマセン…」
床に倒れた、戸田が、稲葉五郎にぶたれた頬を右手で、押さえながら、言った…
「…実は、今日、偶然…お、お嬢と、この事務所の近くで、会って…は、話をしようということになって…週刊誌の記者とか、周辺にいるから、この事務所なら、目立たねえと…」
「…ホントか?…」
稲葉五郎が、鬼の形相で、戸田を、睨み付ける…
「…テメエ、ウソを言ってんじゃねえだろうな…」
「…ホ、ホントです…お嬢に聞いて、見て、ください…」
戸田が、私を見て言った…
私は、戸田の言う通りなので、
「…ホ、ホント…です…」
と、言わなければ、ならなかったが、できなかった…
恐怖のあまり、ガチガチにカラダが固まっていた…
まるで、瞬間冷凍したように、カラダが固まって、一分前の平常な姿とは、雲泥の差だった…
カラダが動かなかったのだ…
私は、ただ椅子に座ったまま、ガタガタと震えていた…
そんな私を、稲葉五郎が見た…
鬼のような形相で、見た…
当たり前だ…
今、この瞬間、戸田に激怒していたのだ…
当然、怒ったままだ…
ゴツイ顔だが、いつも、私に、
「…お嬢…お嬢…」
と語りかける、愛想のよい姿は、見る影もなかった…
暴力団の幹部という、別の姿が、そこにあった…
が、
ブルブルと震える私を見て、稲葉五郎の態度が豹変した…
文字通り、豹変した…
まるで、私が、瞬時に、瞬間冷凍のようなガチガチの状態になったのと、同じ早さで、
「…お嬢…なにが、あろうと、堅気の人間が、こんなヤクザ事務所なんかに、来てはいけません…」
と、まるで、3歳の幼児に言うように、優しく言った…
が、
私は、恐怖で、カラダが、ガチガチに固まったままで、動かなかった…
だから、
「…わかりました…」
ということもできなければ、黙って、首を縦に振って、了承することもできなかった…
私は、ただただ怖かった…
恐怖で、どんな言葉も、口から出てこなかった…
当たり前だが、今さらながら、私は、自分が、暴力に弱いという事実を実感した…
暴力に弱いという事実を目の当たりにした…
思えば、そんな、竹下クミが、暴力団の事務所にやって来たこと自体が、ビックリする事態だったのだ…
あっては、ならない事態だったのだ…
私は、あらためて、そのことを思った…
自覚した…
「…お嬢…お帰り下さい…」
稲葉五郎が、優しく、私に語りかける。
「…ここは、お嬢のような方が、来るところではありません…」
稲葉五郎は、丁寧な口調で、続ける…
が、
私は返事ができなかった…
いまだ、恐怖のために、返事どころか、頷くことさえできなかった…
が、
そんな私に、どこまでも、稲葉五郎は優しかった…
「…お嬢…ゆっくりで、いいんです…ゆっくりと、歩いて、この事務所から、出て行けば、いいんです…」
と、子供に諭すように、言う…
「…オレが、お嬢を怯えさせたから、悪いんです…ですが、これが、ヤクザです…ヤクザの日常です…だから、堅気のお嬢は、今後、この事務所に、一切来てはいけません…出入り禁止です…わかりましたか?」
稲賀五郎が宣言した…
そして、ようやく、その稲葉五郎の言葉に、わずかに、動き出した私の首が、コクンと、縦に振って、頷いた…
「…ス…スイマセン…」
私の背後で、戸田が、再び、謝った…
「…ほ…本当に、も…申し訳ありませんでした…」
床から、立ち上がった戸田が、稲葉五郎に深々と頭を下げた…
「…もう、いい…」
不機嫌そうに、稲葉五郎が、戸田に返す…
「…それより、鼻血を拭いて、お嬢をお見送りしろ…なにか、間違いがあったら、困る…」
…間違い?…
…間違いって、一体、なんだ?…
私は、考える。
しかし、それを口にすることはできなかった…
つい、今さっき、激怒した稲葉五郎に、それを聞くことはできなかった…
いかに、優しく、私に接してくれても、それを聞くことはできなかった…
「…わかりました…」
代わりに、戸田の声がした…
事務所に、響き渡った…
それから、私は、戸田といっしょに、事務所を出た…
正直、お互い、気まずかった…
戸田に悪気はないが、私を事務所に招いたことで、結果的に、稲葉五郎に、叱責された…
しかも、その叱責は、暴力を伴うものだった…
考えてみれば、当たり前だ…
稲葉五郎は、ヤクザの親分…
戸田は、その子分だ…
ヤクザが子分を叱るのに、暴力を伴わないことは、ありえないというか…
ひどく、当たり前のことだった…
「…戸田さん…申し訳ありません…」
私は、戸田と並んで歩きながら、戸田に詫びた…
「…痛かったでしょ?…」
私は、大柄な戸田の顔を見上げながら、訊いた…
「…いえ、たいしたことはありません…むしろ、お嬢のおかげで、ラッキーでした…」
…私のおかげで、ラッキー?…
どういう意味だろ?
私が、不思議に思って、戸田の顔を見た…
「…私のおかげで、ラッキーって?…」
「…オヤジが本気で怒れば、あんなものじゃないですよ…」
「…あんなものじゃない?…」
「…今日は、お嬢が、見てるから、手加減してくれたんです…」
「…私が見てるから?…」
「…いくら、オヤジでも、お嬢が見てる前で、あれ以上は、できませんよ…」
と、あっさり告白する。
それから、
「…いや、違うか? …お嬢がいたから、あんなに怒ったのかな?…」
と、独り言のように、呟いた…
…私がいたから、あんなに怒った?…
…それは、やはり、堅気の私を事務所に招いたから?…
私は、考える。
私が、そんなふうに考えていると、
「…今、オヤジは、ナーバスになってるんです…」
「…ナーバス…ですか?…」
「…オヤジが、大場代議士との関係を週刊誌にスクープされたでしょ? アレは、高雄のオジキの仕業じゃないかと疑ってるんです…」
大場の父親と、稲葉五郎の関係を週刊誌に垂れ込んだのが、高雄の父親?
一体、どうして?
「…情報戦ですよ…」
「…情報戦?…」
「…山田会の次期会長の座…オヤジとオジキは、その座を巡って争っている…だから、互いに相手の足を引っ張ろうとしている…」
私は驚いて、戸田の顔を見た…
「…もちろん、オヤジは、オジキを信頼してますよ…昔から仲が良く、そんなことをする人間じゃないと、思ってる…だから、たぶん、オジキを推す人間が勝手にやったと思ってますが、やはり、内心もしかしたら?…という気持ちもあって…イライラしてたんです」
戸田が説明する。
「…それに…」
言いづらそうに、戸田が言った。
「…オヤジは、お嬢が心配なんだと思います…」
「…私が心配?…」
「…今、お嬢は、高雄のオジキの息子の悠(ゆう)さんと、親しい…そして、うちのオヤジとも親しい…見方によっては、どっちつかずというか…」
戸田が、意外なことを、口にした…
…シコリって?…
凄い言葉だ…
だが、確かに、言われてみれば、この戸田の言う通り…
学校でも、会社でも、どんなに、仲の良い者同士でも、なにかを狙って、争えば、シコリが残る…
私のような社会経験の乏しい女子大生では、いわゆるポストを狙って、争う例は、まだ見たことは、ないが、男に関しては、見たことがある(笑)…
要するに、イケメンをゲットすることだ…
仲のいい女のコ同士が、一人のイケメンを巡って、険悪な関係になり、やがて、口も利かなくなったことも、見たことがある…
そして、それが、人間だ…
やはり、一人のイケメンを狙って、争えば、人間関係は、険悪になる…
負けた女が、その後も、イケメンをゲットした女のコと、仲良くするなんて、ありえない…
あるとすれば、よほどのお人よしか、少々頭が弱いのではないか?と、疑ってしまう…
そして、たかだか、イケメンをゲットするのさえ、そうだ…
イケメンといえども、別に、日本中に知れたアイドルでもなんでもない…
それを手に入れるか否かですら、人間関係は、険悪になる…
まして、稲葉五郎と、高雄の父親は、山田会の会長の座を争っている…
日本で、二番目に大きな暴力団のボスの座を争っている…
だから、当然、そのシコリは大きいに違いない…
あるいは、選挙の当選結果ではないが、どちらかが、大敗、あるいは、大勝すれば、話は、違うかもしれない…
そもそも力が雲泥の差だからだ…
その場合は、素直に諦めがつく…
いや、稀には、諦めがつかない人間もいるだろうが、山田会の次期会長の座を巡る争いだ…
そもそも、大敗して、自分の力がわからない人間が、周囲から、山田会の次期会長の座に推されることなど、ありえないだろう…
ところが、実力が伯仲した場合は、余計に難しくなる…
惜しくも、負けたとなると、余計に相手が恨めしくなる…
だから、余計に人間関係が険悪になる…
いや、険悪にならずとも、仲良くは、なくなるだろう…
そして、今、この戸田が言ったように、シコリが残るに決まっている…
私は、戸田の言葉から、そう考えた…
そして、あらためて、この戸田が、やはり、優秀であると、思った…
山田会の会長の座を巡って、争って、それが、終われば、以前のように、打ち解けた関係になる…
何事もなかったように、なる…
そんなわけはないと、気付いている…
そう思った…
だが、だったら、この戸田は、稲葉五郎が、負ければ、どうなると、思っているのだろう?…
山田会の次期会長の座を巡って、高雄の父親に負ければ、どうなると思っているのだろう?
ふと、訊いてみたくなった…
「…あの…ひとつ、訊いていいですか?…」
「…なんでしょうか? …お嬢?…」
「…稲葉さんが、山田会の次期会長の座を巡って、高雄さんの父親に負ければ、どうなるんですか?…」
私の質問に、目の前の戸田の表情が、変わった…
文字通り、顔から、血の気が引いた…
「…それは、わかりません…ただ…」
「…ただ、なんですか?…」
「…どっちが勝つにしろ、負けるにしろ、今まで通りというわけには、いかないでしょう…」
戸田の歯切れが悪かった…
顔色も悪かったが、歯切れも悪かった…
お嬢と呼ばれた私が、訊いたから、仕方なく、答えた様子だった…
と、
そのときだった…
いきなり、バタンとして、背後のドアが開いた…
この部屋にいるのは、私と、戸田だけ…
いきなりの、乱入者だった…
私と、戸田は、ビックリして、バタンと音がしたドアを、反射的に見た…
すると、そこには、大柄な中年男の姿があった…
稲葉五郎の姿があった…
「…オヤジ…」
戸田が、絶句する…
稲葉五郎は、形相が、変わっていた…
明らかに、怒っていた…
怒髪天を突くという言葉があるが、それに近い表情だった…
一変に、その場の空気が変わった…
それまでの私と、戸田のまったりとした空気が一変した…
稲葉五郎は、無言で、ツカツカと歩いて戸田に近付いた…
戸田の形相が変わった…
恐怖で、ビビった表情になった…
稲葉五郎は、いきなり、戸田の服の襟首を掴むと、平手で、思いっきり、戸田をぶん殴った…
バーンという音がした…
同時に、文字通り、戸田のカラダが、弾け飛んだ…
まるで、人形かなにかのように、ぶっ飛んで、倒れた…
私は、言葉もなく、唖然として、その光景を見守った…
思わず、ガタガタと、カラダが震えた…
恐怖のためだ…
あらためて、ココが、ヤクザ事務所だと、実感した…
「…戸田…テメエ…なぜ、お嬢を、この事務所に連れてきた?…」
稲葉五郎が、怒りの表情で、戸田を問い詰めた…
「…どうして、お嬢を、ヤクザ事務所なんかに、連れてきた?…」
稲葉五郎が怒鳴った…
床に倒れた戸田は、恐怖の表情で、稲葉五郎を見上げた…
その顔からは、血が出ている…
鼻血が出たのだ…
「…堅気のお嬢を、どうして、連れてきたぁー?…」
稲葉五郎が、咆哮する。
まるで、トラかなにかが、怒鳴る…
そんな迫力があった…
私は、恐怖で、固まった…
そして、今、初めて、稲葉五郎の真の姿を見た気がした…
大物ヤクザ…稲葉五郎の真の姿を見た気がした…
あまりの恐怖に、私は、ただただ、ガタガタと、全身を震わせた…
椅子に座ったままだが、その椅子が、ガタガタと揺れた…
貧乏ゆすりなどという、レベルではなかった…
まるで、大きな地震がやって来たレベルだった…
それほど、ガタガタと揺れた…
恐怖で、揺れた…
「…ス…ス…イマセン…」
床に倒れた、戸田が、稲葉五郎にぶたれた頬を右手で、押さえながら、言った…
「…実は、今日、偶然…お、お嬢と、この事務所の近くで、会って…は、話をしようということになって…週刊誌の記者とか、周辺にいるから、この事務所なら、目立たねえと…」
「…ホントか?…」
稲葉五郎が、鬼の形相で、戸田を、睨み付ける…
「…テメエ、ウソを言ってんじゃねえだろうな…」
「…ホ、ホントです…お嬢に聞いて、見て、ください…」
戸田が、私を見て言った…
私は、戸田の言う通りなので、
「…ホ、ホント…です…」
と、言わなければ、ならなかったが、できなかった…
恐怖のあまり、ガチガチにカラダが固まっていた…
まるで、瞬間冷凍したように、カラダが固まって、一分前の平常な姿とは、雲泥の差だった…
カラダが動かなかったのだ…
私は、ただ椅子に座ったまま、ガタガタと震えていた…
そんな私を、稲葉五郎が見た…
鬼のような形相で、見た…
当たり前だ…
今、この瞬間、戸田に激怒していたのだ…
当然、怒ったままだ…
ゴツイ顔だが、いつも、私に、
「…お嬢…お嬢…」
と語りかける、愛想のよい姿は、見る影もなかった…
暴力団の幹部という、別の姿が、そこにあった…
が、
ブルブルと震える私を見て、稲葉五郎の態度が豹変した…
文字通り、豹変した…
まるで、私が、瞬時に、瞬間冷凍のようなガチガチの状態になったのと、同じ早さで、
「…お嬢…なにが、あろうと、堅気の人間が、こんなヤクザ事務所なんかに、来てはいけません…」
と、まるで、3歳の幼児に言うように、優しく言った…
が、
私は、恐怖で、カラダが、ガチガチに固まったままで、動かなかった…
だから、
「…わかりました…」
ということもできなければ、黙って、首を縦に振って、了承することもできなかった…
私は、ただただ怖かった…
恐怖で、どんな言葉も、口から出てこなかった…
当たり前だが、今さらながら、私は、自分が、暴力に弱いという事実を実感した…
暴力に弱いという事実を目の当たりにした…
思えば、そんな、竹下クミが、暴力団の事務所にやって来たこと自体が、ビックリする事態だったのだ…
あっては、ならない事態だったのだ…
私は、あらためて、そのことを思った…
自覚した…
「…お嬢…お帰り下さい…」
稲葉五郎が、優しく、私に語りかける。
「…ここは、お嬢のような方が、来るところではありません…」
稲葉五郎は、丁寧な口調で、続ける…
が、
私は返事ができなかった…
いまだ、恐怖のために、返事どころか、頷くことさえできなかった…
が、
そんな私に、どこまでも、稲葉五郎は優しかった…
「…お嬢…ゆっくりで、いいんです…ゆっくりと、歩いて、この事務所から、出て行けば、いいんです…」
と、子供に諭すように、言う…
「…オレが、お嬢を怯えさせたから、悪いんです…ですが、これが、ヤクザです…ヤクザの日常です…だから、堅気のお嬢は、今後、この事務所に、一切来てはいけません…出入り禁止です…わかりましたか?」
稲賀五郎が宣言した…
そして、ようやく、その稲葉五郎の言葉に、わずかに、動き出した私の首が、コクンと、縦に振って、頷いた…
「…ス…スイマセン…」
私の背後で、戸田が、再び、謝った…
「…ほ…本当に、も…申し訳ありませんでした…」
床から、立ち上がった戸田が、稲葉五郎に深々と頭を下げた…
「…もう、いい…」
不機嫌そうに、稲葉五郎が、戸田に返す…
「…それより、鼻血を拭いて、お嬢をお見送りしろ…なにか、間違いがあったら、困る…」
…間違い?…
…間違いって、一体、なんだ?…
私は、考える。
しかし、それを口にすることはできなかった…
つい、今さっき、激怒した稲葉五郎に、それを聞くことはできなかった…
いかに、優しく、私に接してくれても、それを聞くことはできなかった…
「…わかりました…」
代わりに、戸田の声がした…
事務所に、響き渡った…
それから、私は、戸田といっしょに、事務所を出た…
正直、お互い、気まずかった…
戸田に悪気はないが、私を事務所に招いたことで、結果的に、稲葉五郎に、叱責された…
しかも、その叱責は、暴力を伴うものだった…
考えてみれば、当たり前だ…
稲葉五郎は、ヤクザの親分…
戸田は、その子分だ…
ヤクザが子分を叱るのに、暴力を伴わないことは、ありえないというか…
ひどく、当たり前のことだった…
「…戸田さん…申し訳ありません…」
私は、戸田と並んで歩きながら、戸田に詫びた…
「…痛かったでしょ?…」
私は、大柄な戸田の顔を見上げながら、訊いた…
「…いえ、たいしたことはありません…むしろ、お嬢のおかげで、ラッキーでした…」
…私のおかげで、ラッキー?…
どういう意味だろ?
私が、不思議に思って、戸田の顔を見た…
「…私のおかげで、ラッキーって?…」
「…オヤジが本気で怒れば、あんなものじゃないですよ…」
「…あんなものじゃない?…」
「…今日は、お嬢が、見てるから、手加減してくれたんです…」
「…私が見てるから?…」
「…いくら、オヤジでも、お嬢が見てる前で、あれ以上は、できませんよ…」
と、あっさり告白する。
それから、
「…いや、違うか? …お嬢がいたから、あんなに怒ったのかな?…」
と、独り言のように、呟いた…
…私がいたから、あんなに怒った?…
…それは、やはり、堅気の私を事務所に招いたから?…
私は、考える。
私が、そんなふうに考えていると、
「…今、オヤジは、ナーバスになってるんです…」
「…ナーバス…ですか?…」
「…オヤジが、大場代議士との関係を週刊誌にスクープされたでしょ? アレは、高雄のオジキの仕業じゃないかと疑ってるんです…」
大場の父親と、稲葉五郎の関係を週刊誌に垂れ込んだのが、高雄の父親?
一体、どうして?
「…情報戦ですよ…」
「…情報戦?…」
「…山田会の次期会長の座…オヤジとオジキは、その座を巡って争っている…だから、互いに相手の足を引っ張ろうとしている…」
私は驚いて、戸田の顔を見た…
「…もちろん、オヤジは、オジキを信頼してますよ…昔から仲が良く、そんなことをする人間じゃないと、思ってる…だから、たぶん、オジキを推す人間が勝手にやったと思ってますが、やはり、内心もしかしたら?…という気持ちもあって…イライラしてたんです」
戸田が説明する。
「…それに…」
言いづらそうに、戸田が言った。
「…オヤジは、お嬢が心配なんだと思います…」
「…私が心配?…」
「…今、お嬢は、高雄のオジキの息子の悠(ゆう)さんと、親しい…そして、うちのオヤジとも親しい…見方によっては、どっちつかずというか…」
戸田が、意外なことを、口にした…