第127話

文字数 4,744文字

 …す、すごい、話になった…

 …なんだか、わからないが、すごい話になった…

 私は、唖然として、声も出なかった…

 文字通り、腰が抜けた状態だった…

 本当ならば、這ってでも、この部屋から、出たかった…

 いや、

 この料亭から、出たかった…

 まるで、ボクシングや、格闘技のリング上や、屠殺場のように、ピリピリと緊張した…

 いや、

 ピリピリと緊張したどころではない…

 殺気が充満していた…

 一歩間違えば、この場で、殺し合いが始まるかと、思うほどの殺気が、部屋中に充満した…

 もはや、私は、卒倒する寸前だった…

 でも、逃げれない…

 すでに、腰は砕けた…

 あまりの恐怖に、腰は砕けた…

 だから、這っても、逃げることは、できなかった…

 私は、アワアワと、口から泡を吐き出すような、恐怖が、湧いた…

 私の全身をむしばんだ…

 もはや、どうしていいか、わからない状態だった…

 だから、その場にただ、固まった…

 まるで、置物のように、ジッと固まった…

 そのときだった…

 「…お待たせしました…」

 と、突然、部屋の扉が開いた…

 仲居さんが、料理を持ってきて、くれたのだ…

 仲居さんは、部屋に一歩足を踏み入れるなり、部屋の異様に殺伐とした空気を察したが、なにも言わず、料理だけ、運ぶと、すぐに部屋から出て行った…

 さすがに、二人とも、仲居さんが、料理を運んできたときだけは、いがみあうことは、なかった…

 だから、料理が運び終わり、仲居さんが、部屋を出て行ったときは、寂しかった…

 できるならば、半永久的に、私の傍にいてほしかった…

 そうすれば、第三者が、この部屋にいることで、二人が、いがみあうことはないからだ…

 だが、部屋の異様な空気を察した仲居さんは、そそくさと、すぐに部屋を出て行った…

 私は、これから、どうなるのかと、固唾を飲んで、見守った…

 すると、意外にも、稲葉五郎が、

 「…食おう…せっかくの料理が、冷めては、台無しだ…二人とも、早く食べろ…」

 と、私と高雄組組長に声をかけると、自らが率先して、食べ始めた…

 「…うまい…やっぱり、高級料亭の味は違うな…」

 稲葉五郎が嬉しそうに言う…

 私は、唖然とした…

 これまでの殺伐とした雰囲気とは一転して、今まで私に接したように、フレンドリーというか、アットホームな雰囲気を漂わせた…

 私は、この稲葉五郎という人間がわからなくなった…

 凶暴なヤクザ者の顔を持っているかと思えば、一転して、ごつい顔とは、真逆な、親しみやすい顔も持っている…

 一体、どれが、本当の顔か、さっぱりわからない…

 すると、すでに、出された料理に箸をつけた、高雄組組長が、

 「…五郎…変わらないな…」

 と、声をかけた…

 稲葉五郎は、箸を止めて、高雄組組長を見た…

 「…凶悪なヤクザ者の顔を持っているかと思えば、一転して、誰からも親しまれる顔も持っている…だから、オヤジは、オマエの正体に気付いたんだ…」

 「…オレの正体?…」

 「…ある意味、変幻自在…どこにでも入り込める…どんな職場にも…どんな人間の中にも…一体、コイツは、これまで、どんな生き方をしてきたのか、考えた…そして、オマエの言った経歴を探った…」

 「…」

 「…そして、オマエの言った経歴がウソだと気付いた…いかに中国政府が、ウソの経歴を作ろうと、過去を消すことはできない…どんな人間にも過去がある…それを消すことはできない…」

 「…」

 「…稲葉五郎…いや、宋国民…それも、本名じゃない…」

 高雄組組長が言う…

 そして、それは以前、あの渡辺えりに似た、町中華の女将さんが、言った言葉でもあった…

 「…どうでも、いいじゃないか…そんなこと…」

 ポツリと、稲葉五郎が言った…

 「…そんなことより、飯を食おう…兄貴も…お嬢も…」

 稲葉五郎が言って、再び箸を進めた…

 「…たしかに、そんなことより、食った方がいいな…お嬢さんも、さあ、食べなさい…」

 高雄組組長は私を促して、料理に箸をつけた…

 そして、まだ、箸をつけていない私を見て、

 「…さあ…」

 と、再度、促した…

 私は仕方なく、料理に箸をつけた…

 本当は、料理を食べるどころか、一刻も早く、この部屋から…

 いや

 この料亭から一目散に逃げ出したかった…

 だが、それはできない…

 だから、仕方なく、料理に箸をつけた…

 気が進まなかったが、食べるしか、なかった…

 しかし、一口、口に入れてみると、とんでもなく、おいしかった…

 「…おいしい…」

 私は、声に出して言った…

 それを見て、隣の高雄組組長も、正面の稲葉五郎も、私を見て、楽しそうに笑った…

 まるで、父親が、愛する娘を見るような優しい眼差しだった…

 私は、このときばかりは、自分自身のキャラに感謝した…

 これまで生きてきて、さんざ、

 「…ホント、クミは頼りないんだから…」

 と、言われてきたキャラが功を奏したというか…

 こういうときは便利というか、役に立つ…

 誰も私に、敵愾心を持たないからだ…

 これは、強い…

 普段は、まるっきり役に立たないが、今の場合は最強だった…

 ほぼ、無敵状態…

 竹下無双だ(笑)…

 そんなことを、考えながら、箸を進めていると、

 「…兄貴は、どうして、今日、ここにやって来たんだ?…」

 と、穏やかに、稲葉五郎が聞いた…

 稲葉五郎は、料理に舌鼓を打ちながら、あくまで、雑談をする感じだった…

 「…悠(ゆう)のことだからな…」

 と、これも、高雄組組長は、箸を止めず、料理に舌鼓を打ちながら、雑談するように、稲葉五郎に、答えた…

 「…兄貴は、悠(ゆう)を可愛がり過ぎだ…」

 稲葉五郎が言う…

 「…確かに、な…」

 高雄組組長が応じた…

 「…悠(ゆう)が、自分は、ここにいるから、迎えに来てくれと、言っても、最初から、兄貴は、半信半疑だったんだろ?…」

 「…まあな…」

 高雄組組長は、答える。

 「…アイツの言うことを、すべて鵜呑みにするほど、愚かじゃないよ…」

 「…だが、それが、わかっていて、兄貴は来た…どうしてだ?…」

 「…製造者責任っていうのかな…育てた責任だ…」

 「…」

 「…悠(ゆう)は、アイツは、自分の力を過信しすぎだ…」

 「…」

 「…小さい頃から、ルックスも良く、頭もいい…それを鼻にかけて、調子に乗り過ぎた…その野心を、古賀のオヤジに見透かされ、高雄組をいつかは、堅気の会社にさせたいと、夢見るようになった…いつまでも、極道の時代じゃないと、吹き込まれて…いわば、私と、悠(ゆう)の間にくさびを打ち込んだんだ…」

 「…くさびって?…」

 思わず、私は、声を出した…

 本当は、こんな重大な場面で、口に出しては、いけないことは、わかっていたが、つい、言ってしまった…

 稲葉五郎が、以前、私に見せた同じ表情で、高雄組組長に親しそうに話しかけていたからだ…

 それを見て、つい私も、気安く、声を出してしまった…

 稲葉五郎が、ギョロっと、私を見た…

 その目は、どうひいき目に見ても、私に好意を持つ目ではなかった…

 明らかに、映画で見たヤクザ者の目だった…

 私は、恐怖した…

 箸に料理を持ったまま、その場に固まった…

 私は、

 …スイマセン…

 と、すぐに、詫びようとしたが、恐怖で、声が出なかった…

 が、

 稲葉五郎は、そんな私の様子を見て、

 「…くさびっていうのは、悠(ゆう)と、兄貴の父子の仲を引き裂こうとしたんだ…」

 と、優しく、私に言った…

 それまで、私に見せたヤクザ者の顔から一転して、いつもの優しい顔を見せた…

 だから、私も安心して、

 「…どうしてですか?…」

 と、聞いた…

 「…子分に力を持たせないためだ…」

 代わりに、高雄組組長が答えた…

 「…力を持たせない?…」

 「…子分たちが、団結して、自分を追い出すような真似をしては、困る…子分たちは、あくまで、自分のために団結すればいい…そういう考えのひとだった…」

 高雄組組長が、穏やかに言った…

 「…だから、ひとりひとりは、バラバラというと、大げさだが、有力組織同士は、あえて、距離を置かせるように、仕向けた…私と五郎の組がそうだ…そして、その内部でも、私と悠(ゆう)との間も、わざと距離を置かせようとした…」

 「…そんな…」

 私は、言った…

 …ありえない…

 自分の組の子分の家庭まで、分断させようとするなんて…

 私が、そう思っていると、

 「…用心深いひとだったんだ…」

 と、稲葉五郎が言った…

 「…中国から、命からがら、着のみ着のままで、この日本にやって来た…まわりは、大げさに言えば、すべて敵…裸一貫から、のし上がった…腕っぷしが強く、ケンカに異常に強いかと思えば、まるで、豊臣秀吉のような人たらしで、誰もが、一度会えば、好きになる…そんな魅力があった…その一方で、異常なまでに、猜疑心が強く、いかに、子分が自分に歯向かわないようにするか、気を付けた…だから、有力組織は、互いに競わせ、団結しないように、仕向けた…それは、家庭も同じだ…悠(ゆう)に知恵をつけて、高雄組をいつかは、堅気の会社に、させたいと思わせるようにした…兄貴と対立させようとしたんだ…」

 私は、あまりの言葉に、唖然として、

 「…」

 と、声も出なかった…

 …なんというか?…

 …すべてが、やり過ぎというか?…

 …常軌を逸している…

 ありえない行動だった…

 「…古賀のオヤジの原点は、終戦時の中国からの日本への帰還だ…もっとも、オヤジの場合は、中国人だから、正確には、帰還じゃないけどな…」

 五郎が言う…

 …中国人?…

 …そういう、稲葉五郎も、ホントは、中国人では?…

 私が、思っていると、

 「…まあ、オレも似たようなもんだ…」

 と、言って、稲葉五郎が笑った…

 だが、その笑いは、寂しそうだった…

 それから、

 「…悠(ゆう)は、ここにはいねえ…」

 稲葉五郎がいきなり言った。

 「…やっぱりな…」

 高雄組組長が答える。

 その様子を見て、

 「…親の心、子知らずだな…」

 と、稲葉五郎が呟いた…

 「…兄貴が、命を賭けて、この場にやって来た気持ちが、悠(ゆう)には、わからねえだろうな…」

 …命を賭けて?…

 大げさなことを言う…

 いや、

 大げさではないのかもしれない…

 「…絶縁ですか?…」

 今度は、いきなり、高雄組組長が言った…

 それまでとは、一転して、かしこまった感じだった…

 親分、子分の関係だった…

 「…いや、破門にしておく…」

 稲葉五郎が、即答する。

 それから、突然、2枚の紙を出して、座卓に置いた…

 「…これは?…」

 と、高雄組組長…

 「…破門状と、絶縁状だ…」

 稲葉五郎が答えた…

 「…ただし、まだ日付は入れちゃいねえ…まだオレは、山田会の会長に就いてねえからな…立場上は、今はまだ、高雄さんは、オレの兄貴分だ…」

 私は、破門状と絶縁状の意味がわからなかった…

 違いがわからなかった…

 一体、どう違うんだろう?

 聞いてみたくなった…

 「…あの…破門状と、絶縁状って、一体、なにが違うんですか?…」

 「…破門っていうのは、山田会を追放するってこと…ただし、復活するというか、戻れる可能性もある…絶縁というのは、二度と戻れねえ…その違いだ…」

 「…二度と戻れない…」

 「…兄貴が、今日、この料亭にやって来るかどうか、試したんだ…」

 「…試した?…」

 と、高雄組組長…

 「…悠(ゆう)が、兄貴に迎えに来てくれと連絡したのは、眉唾物と、兄貴だって、わかってるはずだ…それを承知で、やって来るか、どうか、試したんだ…オレがここで、待ち構えてるのは、わかっていたはずだ…それを承知で、やって来た兄貴の心意気に免じて、破門にしとくよ…」

 稲葉五郎が、穏やかに言った…

               

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