第114話
文字数 5,388文字
「…引退? …いきなり、オレを呼び出して、ヤクザを辞めろって…オバサンも冗談きついな…」
稲葉五郎が戸惑いながらも言う…
しかしながら、私や大場、そして、町中華の女将さんの、ただならぬ雰囲気から、それが、冗談ではないことに、すぐに、気付いた…
「…オバサン…今日は、一体、なんで、オレを呼び出して…」
その口調は、戸惑いながらも、真面目な口調に変わった…
女将さんが、真剣であることに、気付いたのだ…
「…五郎…アンタは、やり過ぎたんだよ…」
女将さんが、言う…
「…やり過ぎた? どういう意味だ?…」
「…アンタは、アンタが思う以上に、山田会で、力を持ちすぎた…」
女将さんが言った…
それは、眼前の大場敦子が、さっき、ここにつれて来られるまでに、車内で、私に言った言葉と、同じだった…
「…五郎…オマエは強い…ケンカも強く、頭も切れる…でも、そのおかげで、多くの敵を作った…」
「…一体、なにを言い出すんだ、オバサン…オレが敵を作り過ぎた? …それが、一体
なんだって言うんだ? ヤクザが、誰とも、仲良くして、どうする?…」
「…オマエが気付いていないだけさ…」
女将さんが、落ち込んだ声で、言う…
「…気付いていないだけ?…」
「…オマエは気付いていないかもしれないが、大場代議士にとって、今や、オマエは、目の上のたんこぶ…総理になる前に、いてもらっちゃ、困る人間なのさ…」
「…いてもらっちゃ、困る…おいおい、いくらオバサンとオレの仲でも、言っていいことと、悪いことがあるぜ…言葉に気をつけな…」
「…言葉に気を付けな…か…さすがに、山田会会長になると、言葉が、重いね…アタシが、五郎の子分たちの前で、今の言葉をいえば、ぶたれるか、殺されるか…だね…」
五郎は、女将さんの言葉に、
「…」
と、無言だった…
無言が肯定を意味した…
「…ヤクザも偉くなると、言葉を発せなくなる…親が冗談で、なにげなく言った言葉を、子が、真剣に受け止めたり、あるいは、アタシが、五郎に軽く言った言葉を、親分をバカにされたって、怒って、アタシをどうこうしたりする…」
「…」
「…だから、むやみに、言葉を発せなくなる…言葉を選んでから、口にせざるを得なくなる…」
「…」
「…アンタは、今の状況を数年前に見抜いていたんじゃないのか? 五郎…いや、宋国民…」
…宋国民?…
どこで、聞いたことがある?
どこでだろう?
私は、考える…
頭を巡らせた…
そうだ…
わかった…
古賀会長だ…
亡くなった山田会の先代の古賀会長が、宋国民という名前の中国人だと、たしか、高雄悠(ゆう)が、私に教えてくれた…
私は、それを思い出した…
「…オバサン…一体、なんの冗談だ?…」
稲葉五郎の口調が、ひどく真剣になった…
「…いくら、オレとオバサンの仲でも、タダじゃすまねえことだって…」
稲葉五郎が、言い終わらないうちに、女将さんが、
「…ホントのことを知られるのが、そんなに怖いか? 五郎…いや、宋国民?…」
と、言った…
稲葉五郎は、
「…」
と、黙った…
反論しなかった…
「…頭のいいオマエは、いずれ、こうなることがわかっていたのさ…それで、手を打った…」
「…どういうことだ?…」
「…オマエは、手っ取り早く、高雄さんの息子に手を伸ばした…」
「…高雄さんの息子さん?…それって、高雄悠(ゆう)さん?」
思わず、声を上げた…
「…高雄さんは、アンタと同じ、山田会の双璧と言われていたが、実際は、アンタに遠く及ばない…力で、言えば、昔の徳川家康と、前田利家の差さ…豊臣秀吉が、顕在だった頃、家康は、250万石、対する利家は、100万石にも及ばなかった…だから、高雄さんが、どうあがいても、アンタには、遠く及ばない…勝てるわけがないからだ…でも、アンタは警戒した…」
「…」
「…だから、悠(ゆう)を取り込んだ…悠(ゆう)もまた、高雄組の先行きに不安を持っていた…いや、高雄組じゃない…高雄さんの先行きに、不安を持っていた…」
「…どういうこと? オバサン?…」
大場が口を挟んだ…
「…高雄さんが、五郎に山田会を追放されるんじゃないかと、心配していたんだ?…」
「…そんな?…」
「…五郎と、高雄さんが、ガチンコで、ケンカをすれば、山田会は、割れるかもしれないが、経済ヤクザの高雄さんが、武闘派の五郎とガチンコのケンカをして、勝ち目がないことは、最初からわかってる…だから、悠(ゆう)は、五郎と手を結んだ…手を結ぶことで、父親が、山田会から、追放されないように、五郎に頼んだんだ…」
「…でも…」
今度は、私が口を挟んだ…
「…でも、稲葉さんは、いつも、高雄…高雄悠(ゆう)さんを信用するな…アイツは、見た目と違う…信用しちゃ、ダメだって…」
「…それは、お嬢ちゃん…アンタを、悠(ゆう)さんから、遠ざけるためさ…」
「…遠ざける?…」
「…仲良くなれば、内幕がバレる心配がある…」
「…」
「…それに、お嬢ちゃんを、ヤクザ同士の争いに、巻き込まれないようにするためもある…」
「…でも、それじゃ、そもそも、私と接触しなければ…」
「…それはできない…」
「…できない? …どうして?…」
「…お嬢ちゃんの近くにいかなきゃ、お嬢ちゃんを守れない…」
「…守れない? どうして、守れない…いえ、守らなきゃ、いけないの? 古賀会長の血筋を引いてるから?…」
「…血筋? そんなものを引いてる人間は、ひとりもいないよ…」
「…いない?…」
「…そうさ…」
「…どうして、いないって、断言できるんですか?…」
「…古賀さんは、女を抱けなかったのさ…」
「…女を抱けなかった? どうして?…」
あまりにも、意外な言葉だった…
「…古賀さんは、子供の頃、命からがら、満州…今の中国東北部から、逃げてきた…そのときに、多くの女たちが、カラダを売って売春したり、それを金に換えたり、船や列車に優先して乗せてもらったりするところを見てきた…それだけじゃない…身近で、女が無理やり、犯されるところも、いやというほど、見てきたと言っていた…物心ついたか、つかないかの子供が、そんな光景を見たら、どうなると思う? トラウマになって、一生、女を抱けなくなっても、おかしくはないだろ? …後年、古賀さんが、ヤクザ界の秀吉と呼ばれたのは、一代で、ヤクザ界で、名を上げたことも、あるけど、秀吉のように、子宝に恵まれなかったこともある…でも、そもそも、女を抱けないんだ…子供ができる道理がないじゃないか…」
女将さんが、告白する…
たしかに、女将さんの言うことは、わかる…
女を抱けなければ、子供ができるはずがない…
しかし、どうして、この女将さんは、そんなことを知っているのだろう?
わからない…
「…あの…女将さんは、どうして、そんなことを知ってるんですか?…」
「…アタシの両親が、古賀さんと親しかったのさ…って、いうか、アタシの両親の両親…つまり、祖父母が、子供時代の古賀さんを、連れて、この日本に引き揚げてきた…その縁さ…」
その言葉で、私は、以前、高雄…高雄悠(ゆう)さんから、聞いた話を思い出した…
古賀会長は、宋国民という名の中国人で、子供の頃、日本にやって来た…
戦争に負けた日本人の家庭といっしょに、だ…
古賀さんは、中国人だが、両親が、日本の家庭で、家政婦として住む込みで、働いていた…
だが、その両親が、戦争で、死んだ…
身寄りのない、古賀さんは、両親の雇い主だった日本人に引き取られ、いっしょに、日本にやって来た…
たしか、そう聞いた…
私は、それを思い出した…
「…古賀さんは、用心深いというか…ひとを信用しないひとだった…やはり、満州からの引き揚げ体験が、その後の人生を作ったんだろうね…表向きは、豊臣秀吉になぞらえるほど、ひとをたらしこむというか、自分の味方に引き入れる能力が、抜群にあった…それは、満州からの引き揚げ体験で、ひとは、一人では生きれないことを、身をもって知ったからさ…だから、味方を作る…仲間を作る…一人では、できないことができるからさ…その反面、ひとは、信用できない…信用した人間が裏切ったり…裏切られたり…そんな光景をいやというほど、見せられ、子供心に、ひとは、心の底から信用できないって、悟ったって、言っていた…ただ、アタシの祖父母や、アタシの母には、違った…いっしょになって、満州から、命からがら、逃げてきた…そして、幼い自分を助けてくれた…それが、古賀さんの原点と言うか…生涯信用できる人間として、古賀さんが、身近に信頼を置いた人たちだった…」
…そうか?…
…だから、この女将さんは、古賀さんに詳しいんだ…
あらためて、思った…
同時に、考えた…
稲葉五郎は、古賀会長の側近…
だから、古賀会長の身近にいた、この女将さんと親しかったわけだ…
だが、さっき、この稲葉五郎を、宋国民と呼んだわけは、一体?
稲葉五郎は、本当は、中国人なのだろうか?
私は、思った…
だから、おずおずと、遠慮しながら、女将さんに、聞いた…
「…あの…女将さんが、今、言った、宋国民って…」
「…ああ、それは、五郎の本名さ…稲葉五郎は通名…本名は、別にある…いや、宋国民っていうのも、本名じゃないだろう…ホントは、アンタ、何者だ? …無国籍じゃないのか?…」
女将さんの問いに、稲葉五郎は、沈黙した…
「…」
と、なにも、言わなかった…
否定しないことが、女将さんの言うことが、ウソでないことの証(あかし)だった…
十秒、
いや、
二十秒だろうか?
時間が経った…
そして、稲葉五郎が口を開いた…
「…ずいぶんな言い草だな…」
稲葉五郎の乾いた声が、薄暗い店内に響いた…
「…妄想もたいがいにしてくれ…」
「…妄想…どこが、妄想だよ…アンタはやりすぎたんだよ…」
「…やり過ぎた?…」
「…さっきも言っただろ? 山田会で、力を持ちすぎた…だから、アンタは、警戒された…その結果、五郎…オマエの身辺調査が、徹底的に行われた…五郎、オマエは、身ぐるみはがされたのさ…」
女将さんの言葉に、また、
「…」
と、稲葉五郎は、沈黙した…
無言が、肯定を意味した…
女将さんの言葉に、ウソがないことが、再び、証明された…
「…なにが、狙いだ?…」
稲葉五郎が、口を開いた…
「…五郎…アンタの引退だよ…ヤクザを辞めることさ…」
「…そいつは、無理だ…できねえ相談だな…」
「…どうして、できないのさ…五郎?…」
「…できねえものは、できねえ…」
「…山田会会長の座は、アンタにとって、そんな魅力的か?…」
「…当たり前だ…日本で二番目にデカい、組織だ…」
稲葉五郎が、胸を張る…
が、
その稲葉五郎を、フッと、女将さんが、笑った…
「…ハッハッハッ…五郎…笑わせるね…アンタは、権力欲もなにもないさ…五郎を推す人間は、それを知ってるから、安心して、アンタを推している…金に汚くもなければ、威張ることもなく、権力欲もなにもない…ただ、実直にヤクザを続けているだけ…その五郎が、今、目の色を変えて、山田会の会長の座に座ろうとしている…なにか、あると、考えるのが、普通だろ?…」
「…なにかって、なにがある?…」
「…言いたくないのかい? ならば、言ってやるよ…」
稲葉五郎の顔色が変わった…
「…アンタが、山田会の会長の座に就きたいのは、ずばり、このお嬢ちゃんを、守るためだ…違うかい?…」
「…お嬢を守る? どういう意味だ?…」
「…五郎…とぼけるのも、いい加減におし…」
女将さんが、凄んだ…
「…今、アタシは、古賀会長は、女を抱けないと言ったはずだ…女を抱けない古賀さんに、子供がいるはずがない…」
当たり前のことだった…
…だったら、私は一体?…
…この竹下クミは、稲葉五郎に、なんで、大事にされてるんだ?…
…お嬢、お嬢…
と、持ち上げられてるんだ?
さっぱり、わからない…
「…このお嬢ちゃんは、五郎…アンタの娘だろ? 違うかい?…」
「…娘? …む・す・め?…」
私が、場違いな素っ頓狂な声を上げた…
あまりにも、以外と言うか、ありえない話だった…
「…五郎…アンタが、ヤクザを辞められないのも、このお嬢ちゃんだ…ヤクザを辞めれば、お嬢ちゃんを守れない…違うか?…」
「…オバサン…バカも休み休み言ってくれ…どうして、お嬢が、オレの娘なんだ? …お嬢には、立派なご両親が、いらっしゃるだろ…」
「…立派なご両親ね…」
女将さんが、笑った…
「…たしかに、立派なご両親だろうね…アンタの娘を育ててくれたんだから…」
「…」
またも、稲葉五郎が、沈黙した…
でも、娘って?
私が、稲葉さんの娘って?
ありえない…
私は、生まれたときから、今の両親に育てられた…
親戚にも、知り合いにも、ヤクザはいない…
だから、私が、稲葉五郎の娘であるはずがない…
「…そんなこと…そんなこと、あるはずがない…」
気が付くと、いつのまにか、叫んでいた…
「…私が、稲葉さんの娘であるはずがない!…」
絶叫した…
そんな私の姿を、稲葉五郎も、女将さんも、無言で見ていた…
そして、大場敦子も…
稲葉五郎が戸惑いながらも言う…
しかしながら、私や大場、そして、町中華の女将さんの、ただならぬ雰囲気から、それが、冗談ではないことに、すぐに、気付いた…
「…オバサン…今日は、一体、なんで、オレを呼び出して…」
その口調は、戸惑いながらも、真面目な口調に変わった…
女将さんが、真剣であることに、気付いたのだ…
「…五郎…アンタは、やり過ぎたんだよ…」
女将さんが、言う…
「…やり過ぎた? どういう意味だ?…」
「…アンタは、アンタが思う以上に、山田会で、力を持ちすぎた…」
女将さんが言った…
それは、眼前の大場敦子が、さっき、ここにつれて来られるまでに、車内で、私に言った言葉と、同じだった…
「…五郎…オマエは強い…ケンカも強く、頭も切れる…でも、そのおかげで、多くの敵を作った…」
「…一体、なにを言い出すんだ、オバサン…オレが敵を作り過ぎた? …それが、一体
なんだって言うんだ? ヤクザが、誰とも、仲良くして、どうする?…」
「…オマエが気付いていないだけさ…」
女将さんが、落ち込んだ声で、言う…
「…気付いていないだけ?…」
「…オマエは気付いていないかもしれないが、大場代議士にとって、今や、オマエは、目の上のたんこぶ…総理になる前に、いてもらっちゃ、困る人間なのさ…」
「…いてもらっちゃ、困る…おいおい、いくらオバサンとオレの仲でも、言っていいことと、悪いことがあるぜ…言葉に気をつけな…」
「…言葉に気を付けな…か…さすがに、山田会会長になると、言葉が、重いね…アタシが、五郎の子分たちの前で、今の言葉をいえば、ぶたれるか、殺されるか…だね…」
五郎は、女将さんの言葉に、
「…」
と、無言だった…
無言が肯定を意味した…
「…ヤクザも偉くなると、言葉を発せなくなる…親が冗談で、なにげなく言った言葉を、子が、真剣に受け止めたり、あるいは、アタシが、五郎に軽く言った言葉を、親分をバカにされたって、怒って、アタシをどうこうしたりする…」
「…」
「…だから、むやみに、言葉を発せなくなる…言葉を選んでから、口にせざるを得なくなる…」
「…」
「…アンタは、今の状況を数年前に見抜いていたんじゃないのか? 五郎…いや、宋国民…」
…宋国民?…
どこで、聞いたことがある?
どこでだろう?
私は、考える…
頭を巡らせた…
そうだ…
わかった…
古賀会長だ…
亡くなった山田会の先代の古賀会長が、宋国民という名前の中国人だと、たしか、高雄悠(ゆう)が、私に教えてくれた…
私は、それを思い出した…
「…オバサン…一体、なんの冗談だ?…」
稲葉五郎の口調が、ひどく真剣になった…
「…いくら、オレとオバサンの仲でも、タダじゃすまねえことだって…」
稲葉五郎が、言い終わらないうちに、女将さんが、
「…ホントのことを知られるのが、そんなに怖いか? 五郎…いや、宋国民?…」
と、言った…
稲葉五郎は、
「…」
と、黙った…
反論しなかった…
「…頭のいいオマエは、いずれ、こうなることがわかっていたのさ…それで、手を打った…」
「…どういうことだ?…」
「…オマエは、手っ取り早く、高雄さんの息子に手を伸ばした…」
「…高雄さんの息子さん?…それって、高雄悠(ゆう)さん?」
思わず、声を上げた…
「…高雄さんは、アンタと同じ、山田会の双璧と言われていたが、実際は、アンタに遠く及ばない…力で、言えば、昔の徳川家康と、前田利家の差さ…豊臣秀吉が、顕在だった頃、家康は、250万石、対する利家は、100万石にも及ばなかった…だから、高雄さんが、どうあがいても、アンタには、遠く及ばない…勝てるわけがないからだ…でも、アンタは警戒した…」
「…」
「…だから、悠(ゆう)を取り込んだ…悠(ゆう)もまた、高雄組の先行きに不安を持っていた…いや、高雄組じゃない…高雄さんの先行きに、不安を持っていた…」
「…どういうこと? オバサン?…」
大場が口を挟んだ…
「…高雄さんが、五郎に山田会を追放されるんじゃないかと、心配していたんだ?…」
「…そんな?…」
「…五郎と、高雄さんが、ガチンコで、ケンカをすれば、山田会は、割れるかもしれないが、経済ヤクザの高雄さんが、武闘派の五郎とガチンコのケンカをして、勝ち目がないことは、最初からわかってる…だから、悠(ゆう)は、五郎と手を結んだ…手を結ぶことで、父親が、山田会から、追放されないように、五郎に頼んだんだ…」
「…でも…」
今度は、私が口を挟んだ…
「…でも、稲葉さんは、いつも、高雄…高雄悠(ゆう)さんを信用するな…アイツは、見た目と違う…信用しちゃ、ダメだって…」
「…それは、お嬢ちゃん…アンタを、悠(ゆう)さんから、遠ざけるためさ…」
「…遠ざける?…」
「…仲良くなれば、内幕がバレる心配がある…」
「…」
「…それに、お嬢ちゃんを、ヤクザ同士の争いに、巻き込まれないようにするためもある…」
「…でも、それじゃ、そもそも、私と接触しなければ…」
「…それはできない…」
「…できない? …どうして?…」
「…お嬢ちゃんの近くにいかなきゃ、お嬢ちゃんを守れない…」
「…守れない? どうして、守れない…いえ、守らなきゃ、いけないの? 古賀会長の血筋を引いてるから?…」
「…血筋? そんなものを引いてる人間は、ひとりもいないよ…」
「…いない?…」
「…そうさ…」
「…どうして、いないって、断言できるんですか?…」
「…古賀さんは、女を抱けなかったのさ…」
「…女を抱けなかった? どうして?…」
あまりにも、意外な言葉だった…
「…古賀さんは、子供の頃、命からがら、満州…今の中国東北部から、逃げてきた…そのときに、多くの女たちが、カラダを売って売春したり、それを金に換えたり、船や列車に優先して乗せてもらったりするところを見てきた…それだけじゃない…身近で、女が無理やり、犯されるところも、いやというほど、見てきたと言っていた…物心ついたか、つかないかの子供が、そんな光景を見たら、どうなると思う? トラウマになって、一生、女を抱けなくなっても、おかしくはないだろ? …後年、古賀さんが、ヤクザ界の秀吉と呼ばれたのは、一代で、ヤクザ界で、名を上げたことも、あるけど、秀吉のように、子宝に恵まれなかったこともある…でも、そもそも、女を抱けないんだ…子供ができる道理がないじゃないか…」
女将さんが、告白する…
たしかに、女将さんの言うことは、わかる…
女を抱けなければ、子供ができるはずがない…
しかし、どうして、この女将さんは、そんなことを知っているのだろう?
わからない…
「…あの…女将さんは、どうして、そんなことを知ってるんですか?…」
「…アタシの両親が、古賀さんと親しかったのさ…って、いうか、アタシの両親の両親…つまり、祖父母が、子供時代の古賀さんを、連れて、この日本に引き揚げてきた…その縁さ…」
その言葉で、私は、以前、高雄…高雄悠(ゆう)さんから、聞いた話を思い出した…
古賀会長は、宋国民という名の中国人で、子供の頃、日本にやって来た…
戦争に負けた日本人の家庭といっしょに、だ…
古賀さんは、中国人だが、両親が、日本の家庭で、家政婦として住む込みで、働いていた…
だが、その両親が、戦争で、死んだ…
身寄りのない、古賀さんは、両親の雇い主だった日本人に引き取られ、いっしょに、日本にやって来た…
たしか、そう聞いた…
私は、それを思い出した…
「…古賀さんは、用心深いというか…ひとを信用しないひとだった…やはり、満州からの引き揚げ体験が、その後の人生を作ったんだろうね…表向きは、豊臣秀吉になぞらえるほど、ひとをたらしこむというか、自分の味方に引き入れる能力が、抜群にあった…それは、満州からの引き揚げ体験で、ひとは、一人では生きれないことを、身をもって知ったからさ…だから、味方を作る…仲間を作る…一人では、できないことができるからさ…その反面、ひとは、信用できない…信用した人間が裏切ったり…裏切られたり…そんな光景をいやというほど、見せられ、子供心に、ひとは、心の底から信用できないって、悟ったって、言っていた…ただ、アタシの祖父母や、アタシの母には、違った…いっしょになって、満州から、命からがら、逃げてきた…そして、幼い自分を助けてくれた…それが、古賀さんの原点と言うか…生涯信用できる人間として、古賀さんが、身近に信頼を置いた人たちだった…」
…そうか?…
…だから、この女将さんは、古賀さんに詳しいんだ…
あらためて、思った…
同時に、考えた…
稲葉五郎は、古賀会長の側近…
だから、古賀会長の身近にいた、この女将さんと親しかったわけだ…
だが、さっき、この稲葉五郎を、宋国民と呼んだわけは、一体?
稲葉五郎は、本当は、中国人なのだろうか?
私は、思った…
だから、おずおずと、遠慮しながら、女将さんに、聞いた…
「…あの…女将さんが、今、言った、宋国民って…」
「…ああ、それは、五郎の本名さ…稲葉五郎は通名…本名は、別にある…いや、宋国民っていうのも、本名じゃないだろう…ホントは、アンタ、何者だ? …無国籍じゃないのか?…」
女将さんの問いに、稲葉五郎は、沈黙した…
「…」
と、なにも、言わなかった…
否定しないことが、女将さんの言うことが、ウソでないことの証(あかし)だった…
十秒、
いや、
二十秒だろうか?
時間が経った…
そして、稲葉五郎が口を開いた…
「…ずいぶんな言い草だな…」
稲葉五郎の乾いた声が、薄暗い店内に響いた…
「…妄想もたいがいにしてくれ…」
「…妄想…どこが、妄想だよ…アンタはやりすぎたんだよ…」
「…やり過ぎた?…」
「…さっきも言っただろ? 山田会で、力を持ちすぎた…だから、アンタは、警戒された…その結果、五郎…オマエの身辺調査が、徹底的に行われた…五郎、オマエは、身ぐるみはがされたのさ…」
女将さんの言葉に、また、
「…」
と、稲葉五郎は、沈黙した…
無言が、肯定を意味した…
女将さんの言葉に、ウソがないことが、再び、証明された…
「…なにが、狙いだ?…」
稲葉五郎が、口を開いた…
「…五郎…アンタの引退だよ…ヤクザを辞めることさ…」
「…そいつは、無理だ…できねえ相談だな…」
「…どうして、できないのさ…五郎?…」
「…できねえものは、できねえ…」
「…山田会会長の座は、アンタにとって、そんな魅力的か?…」
「…当たり前だ…日本で二番目にデカい、組織だ…」
稲葉五郎が、胸を張る…
が、
その稲葉五郎を、フッと、女将さんが、笑った…
「…ハッハッハッ…五郎…笑わせるね…アンタは、権力欲もなにもないさ…五郎を推す人間は、それを知ってるから、安心して、アンタを推している…金に汚くもなければ、威張ることもなく、権力欲もなにもない…ただ、実直にヤクザを続けているだけ…その五郎が、今、目の色を変えて、山田会の会長の座に座ろうとしている…なにか、あると、考えるのが、普通だろ?…」
「…なにかって、なにがある?…」
「…言いたくないのかい? ならば、言ってやるよ…」
稲葉五郎の顔色が変わった…
「…アンタが、山田会の会長の座に就きたいのは、ずばり、このお嬢ちゃんを、守るためだ…違うかい?…」
「…お嬢を守る? どういう意味だ?…」
「…五郎…とぼけるのも、いい加減におし…」
女将さんが、凄んだ…
「…今、アタシは、古賀会長は、女を抱けないと言ったはずだ…女を抱けない古賀さんに、子供がいるはずがない…」
当たり前のことだった…
…だったら、私は一体?…
…この竹下クミは、稲葉五郎に、なんで、大事にされてるんだ?…
…お嬢、お嬢…
と、持ち上げられてるんだ?
さっぱり、わからない…
「…このお嬢ちゃんは、五郎…アンタの娘だろ? 違うかい?…」
「…娘? …む・す・め?…」
私が、場違いな素っ頓狂な声を上げた…
あまりにも、以外と言うか、ありえない話だった…
「…五郎…アンタが、ヤクザを辞められないのも、このお嬢ちゃんだ…ヤクザを辞めれば、お嬢ちゃんを守れない…違うか?…」
「…オバサン…バカも休み休み言ってくれ…どうして、お嬢が、オレの娘なんだ? …お嬢には、立派なご両親が、いらっしゃるだろ…」
「…立派なご両親ね…」
女将さんが、笑った…
「…たしかに、立派なご両親だろうね…アンタの娘を育ててくれたんだから…」
「…」
またも、稲葉五郎が、沈黙した…
でも、娘って?
私が、稲葉さんの娘って?
ありえない…
私は、生まれたときから、今の両親に育てられた…
親戚にも、知り合いにも、ヤクザはいない…
だから、私が、稲葉五郎の娘であるはずがない…
「…そんなこと…そんなこと、あるはずがない…」
気が付くと、いつのまにか、叫んでいた…
「…私が、稲葉さんの娘であるはずがない!…」
絶叫した…
そんな私の姿を、稲葉五郎も、女将さんも、無言で見ていた…
そして、大場敦子も…