第42話

文字数 6,077文字

 「…お、お嬢…」

 稲葉五郎が、嬉しさに、感涙するのが、わかった…

 「…やっと、オレの気持ちが、お嬢に…」

 ウソではなく、稲葉五郎のごつい顔から、涙が、こぼれるのが、見えた…

 「…やっと、お嬢がオレを認めて…」

 稲葉五郎の、ごつい顔から、涙がとめどなく、溢れる。

 …まさか、私が、稲葉五郎の乗るクルマにいっしょに乗るだけで、ここまで、嬉しがるとは、思わなかった…

 だから、少しばかり、感動したというか…

 いや、

 少しばかりどころではなく、感動した…

 誰もが、そうだろう…

 たかだか、いっしょのクルマに乗ることを了承するだけで、涙を流すほど、感動されることなど、誰もが、ないに違いない…

 …実は、この稲葉五郎という男は、案外悪い人間ではないのかも…

 そんな思いが、脳裏をかすめた…

 ヤクザとて、全員が悪人ではない…

 まして、この稲葉五郎は、ヤクザ界のスター…

 立派な稲葉一家の組長だ…

 管理職だ…

 ヤクザ界は、実力社会に決まっている…

 その中での、その地位だ…

 当然、人望もあり、配下の若い衆からも、慕われているに違いない…

 父が、言ったように、誰もが納得しなければ、組織の中で、上に上がるのは、難しいからだ…

 そんな思いが、私の脳裏をかすめた…

 その直後だった…

 「…なにを、とろとろやってんだ…てめえら…さっさと、クルマから、降りて、お嬢を、このクルマに乗せねえか!…」

 と、稲葉五郎が、怒鳴ったのだ…

 まるで、獣の咆哮のようだった…

 まるで、ライオンが、雄たけびを、上げるようだった…

 私の稲葉五郎に下した評価が、一瞬にして、覆った…

 …やはり、怖い…

 見る見る、私の足が恐怖にすくんだ…

 …やはり、いっしょにクルマに乗るのを、了承するのではなかった…

 だが、そんなことを、今さら言っても、後の祭り…

 後悔先に立たずというヤツだ…

 私は、今さらながら、思った…

 すると、路上に停めたクルマの運転席の横の助手席のドアが開いて、すぐに、若い衆が降りてきた…

 「…お嬢…申し訳ありません…」

 初対面にもかかわらず、平身低頭で、私に頭を下げた…

 そして、それから、稲葉五郎の乗る、ミニバンの後部座席のドアを開けた…

 ホントならば、稲葉五郎が自分で、後部座席のドアを開ければ、良いものだが、やはり、それでは、まずいのだろう…

 会社のお偉いさんと、同じだ…

 自分で、ドアを開ければ、良いだけだが、それでは、威厳が保てない…

 だから、わざわざ、部下に、ドアを開けさせる…

 例えば、従業員が一万人いる大企業で、社長が、自分で、コピー機の前で、コピーを取ることはできない…

 それでは、威厳がなくなるからだ…

 だから、自分付きの、秘書のお姉さんに、コピーを取ってもらう…

 それと、同じだ…

 私は思った…

 若い衆の手で、ミニバンの後部座席のドアが開いて、私は、

 「…失礼します…」

 と、言って、乗り込んだ…

 隣には、稲葉五郎…

 率直に言って、怖かった…

 目の前の稲葉五郎を見ると、ついさっき流した涙が、頬に残っている…

 しかしながら、同乗する、若い衆に、

 「…さっさとしねえか…」

 と、怒鳴る、稲葉五郎もまた、同じ稲葉五郎だった…

 たかだか、私といっしょに、クルマに乗るだけで、感動の涙を流す一方、配下の若い衆には、怒声を浴びせる…

 とても同じ人間には、見えなかった…

 とても、同一人物には、見えなかった…

 一人の人間が、まるで、ジキルとハイドのように、二面性を持っている…

 これは、怖いと言うか、面白いというか…

 ある意味、興味深かった…

 私は、そんなことを思った…

 目の前に、有名な役者がいるのと、ある意味、同じだ…

 自分が、内心、どう思おうが、泣いたり、笑ったり、瞬時に、切り替えることができる…

 まるで、スイッチを入れたように、どんな表情でも見せることができる…

 不意に、そんなことを思った…
 
 私が、そんな思いで、目の前のヤクザ界のスター、稲葉五郎を見ていると、

 「…お嬢、本当にありがとうございます…」

 と、ヤクザ界のスターが、丁寧に、私に頭を下げた…

 「…いえ…」

 私も、反射的に、稲葉五郎に頭を下げた…

 すると、その光景を見ている視線を感じたというか…

 運転席と助手席に乗る、二人の若い衆が、呆気に取られて、私と稲葉五郎を見ているのが、わかった…

 そして、その視線に気付いたのは、当然、私だけではなかった…

 稲葉五郎もまた、気付いていた…

 「…てめえら、なにを見てやがるんだ…さっさとクルマを出せ!…」

 またも、稲葉五郎が吼えた…

 おそらくは、稲葉五郎が、私に向けて涙を流したのを見られた、照れ隠しの意味もあるのだろう…

 獰猛な獅子のように、吼える…

 それを聞いた、ハンドルを握る若い衆は慌てて、クルマを発進させた…

 助手席の若い衆もまた、慌てて、私たちから、視線をはずした…

 稲葉五郎は、それで、安心したのだろう…

 少しばかり、表情が和らいだようだ…

 「…しかし、お嬢が、あの杉崎実業に入社とは…」

 クルマが走り出すと、稲葉五郎が口を開いた…

 「…あそこは、色々ゴタゴタして…」

 「…ゴタゴタ…ですか?…」

 私は、つい口に出してしまった…

 本当は、この稲葉五郎のようなヤクザ者は、怖いのだが、稲葉五郎は、私に優しい…

 だから、つい、聞いてしまった…

 本当ならば、ヤクザやヤンキーが大の苦手な私が、ヤクザ界の大物に、声をかけるなど、ありえない…

 できない芸当だった…

 「…あそこは、高雄の兄貴が、買い取って、色々、やってるんだけど、うまくいかないって話も漏れ聞こえてきてる…だから、兄貴もさじを投げかけたところに、息子の悠(ゆう)が、ボクにやらせてくれって、いうものだから、兄貴も、渋々というか…」

 「…高雄…高雄悠(ゆう)さんを知ってるんですか?…」

 「…それは、兄貴の息子だから、オレも悠(ゆう)が小さいときから、知ってて…」

 稲葉五郎は、私が、高雄悠(ゆう)の話題に食いつくというか…いきなり、悠(ゆう)の話題を持ち出したから、驚いたようだ…

 「…お嬢…お嬢は、悠(ゆう)をご存じなんですか?…」

 「…ハイ…」

 私は、頷いた。

 「…杉崎実業の内定式に集まったときに、親会社の取締役として、やって来られて…」

 「…取締役として、やって来た…」

 私の言葉に、稲葉五郎が、驚いた…

 「…それで、私や、大場さんを含めた五人の女のコの中で、ボクは、この中の誰か一人と、結婚すると、宣言したんです…」

 「…けっ…結婚?…」

 稲葉五郎は、文字通り仰天した…

 驚天動地といえば、大げさだが、ビックリした顔で、私を見た…

 「…ゆ…ゆう…が…ですか?…」

 「…ハイ…」

 私は、頷いた…

 それから、稲葉五郎は、少しばかり、考え込んだ…

 わずかの間だが、無言で、考え込んで、宙を睨んだ…

 そして、口を開いたときは、

 「…悠(ゆう)も覚悟を決めてきたんだな…」

 と、ボソッと呟いた…

 「…覚悟…」

 「…そう…覚悟…」

 ポツリと呟く。

 私はなんの覚悟だか、聞きたかったが、聞けなかった…

 親子のように、歳の離れた、男のひとに、そんなことを簡単に聞けるほど、私は、図々しくない…

 なにより、どんなに、私に優しく接してくれても、稲葉五郎は、私がまだ知り合ってまもない人間…

 しかも、ヤクザ…

 大物ヤクザだ…

 そんな男に、私がアレコレ質問できるわけがなかった…

 私が、そう考えていると、

 「…お嬢…」

 と、稲葉五郎が、声をかけた…

 「…ハイ…」

 思わず、私は、返答した…

 というのも、稲葉五郎は、これまで、見たことのないほど、真剣な表情だったからだ…

 「…ここだけの話、悠(ゆう)には、悪いんだが、悠(ゆう)は見た目とは、違う…お嬢も悠(ゆう)の見た目に騙されないようにというと、大げさだが…」

 それだけ言うと、稲葉五郎は、口をつぐんだ…

 正直に言って、それが、稲葉五郎が、私に言える限界だったのだろう…

 そのときは、わからなかったが、後になって、わかった…

 誰もが、自分の置かれた立場がある…

 だから、口にできる言葉、口にできない言葉がある…

 稲葉五郎は、本来、口にすべき言葉というか、言ってはいけない言葉を、私に言ったというか…

 稲葉五郎が、私を好きなゆえに、自分でできる、ギリギリの言葉を私に投げたというか…

 後日、それがわかった…

 少なくとも、稲葉五郎が本気で、私を心配してくれているのが、わかった…

 誰もが、そうだが、自分以外の人間が、自分を本気で心配してくれているのか、それとも、言葉だけなのかは、なんとなく、わかるものだ…

 わからない人間もいるに違いないが、大方はわかる…

 むしろ、わからないのは、それを言った方…

 口にした方の人間だ…

 いかにも、心配するフリをしているが、それをされた人間は、どうせアイツは、口だけだからとか、単にポーズに過ぎないことを見透かされてる人間が多いものだ…

 単純に、言った方は、それに気付かないだけ…

 自分が、形だけ心配しているのを、相手が見透かしている現実に、気付かないだけだ…

 だが、眼前の稲葉五郎は違った…

 本気で、私を心配しているのが、わかった…

 おそらく、稲葉五郎が言うように、私が、亡くなった山田会の古賀会長の探していた娘だと勘違いしているからだろう…

 だから、ことのほか、私の身の上が心配なのだろう…

 私は、思った…

 そして、それ以上、気になったのは、今、稲葉五郎が言った、
 
「…あそこは、高雄の兄貴が、買い取って、色々、やってるんだけど、うまくいかないって話も漏れ聞こえてきてる…だから、兄貴もさじを投げかけたところに、息子の悠(ゆう)が、ボクにやらせてくれって、いうものだから、兄貴も、渋々というか…」

 という言葉だった…

 一体、どういう意味だろう…

 実に意味深な言葉だ…

 私は、悩んだが、直球で、

 「…あの…稲葉さん…稲葉さんがおっしゃった…杉崎実業を、高雄さんのお父様が買い取って、うまくいかないって、お話は、一体どういう…」

 と、聞いてしまった…

 本当ならば、こんな突っ込んだ話は、とても、昨日今日知り会った人間に聞ける話ではなかった…

 しかも、相手は、何度も言うように、高名なヤクザ…

 ヤクザ専門誌に載る、ヤクザ界のスターだ…

 しかしながら、初めて会ったときから、

 「…お嬢…お嬢…」

と、私を持ち上げてくれるから、つい気を許すというか…

本当は、怖くて、話もできない、いかついルックスの持ち主にもかかわらず、つい聞いてしまった…

が、私の質問は、やはり、してはいけない質問だったようだ…

私の質問に、眼前の稲葉五郎は、固まったというか…

明らかに、眉間に皺を寄せて、考え込んだ…

 それから、

 「…オレも、ちょっと口が軽いというか…つい、お嬢だから…心配で、言っちまったが…」

 と、前置きした上で、

 「…あの杉崎実業は、わけありなんだ…」

 と、言った。

 「…わけあり?…どういう意味ですか?…」

 「…あそこは、さまざまな権利関係と言うか、とにかく、色々な勢力が入り組んでいる…あっちゃんもそうだが、親父の大場小太郎代議士の肝入りで、あの杉崎実業に入社した…アレは、言葉を変えれば、それほど、あの杉崎実業に、うま味というか…」

 そこまで言って、稲葉五郎は、口を閉じた…

 それ以上は、口にできなかったのかもしれない…

 「…正直、うちも狙ってたんだが、手を出すのは止めた…競争相手も多いし、なにより、リスクがあり過ぎる…」

 稲葉五郎が断言する。

 「…だから、正直に言って、高雄の兄貴が、杉崎実業を買収したときは、オレもちょっと意外というか…兄貴は、何事にも慎重で、リスクは取らない性格というか…別の意味で言えば、勝負に出たのかなと思った…」

 「…勝負? …なんの勝負ですか?…」

 「…山田会の次期会長の座をゲットする勝負です…」

 稲葉五郎が、ドスの効いた声で、言った…

 「…山田会の次期会長の座…」

 私は、小さな声で呟いた…

 言われてみれば、当たり前のことだった…

 高雄の父親と、この稲葉五郎は、山田会の次期会長の座を争っている…

 それは、私も随分前から、知っていた事実だ…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…お嬢、どんなことも、リスクのないことなんて、この世の中にありません…」

 と、いきなり、稲葉五郎が言った…

 「…高雄の兄貴は、それを承知で、勝負に出て、オレは、勝負に出なかった…だけど、勝負に出たから、勝つかどうかはわからないし、勝負に出なかったオレが、負けるとも決まってません…」

 「…」

 「…どんなことにも、リスクが生じるものです…お嬢も、いずれ、結婚するでしょう…そのときに、当然、その男と一生添い遂げたいと思うでしょう…だけど、その男が、外に女を作ったり、あるいは、今の世の中、リストラされて、離婚する可能性も大きい…だったら、もしかしたら、別の男と結婚すれば、良かったのかと悩んでも、仕方がない…その男と結婚しても、不倫やリストラはあるかもしれない…だから、相手を選ぶ上で、リスクは、避けられない…」

 稲葉五郎が、考えながら、ゆっくりと、言った…

 私は稲葉五郎の言うことが、よくわかった…

 どんなことにも、リスクはある…

 避けられない…

 なにより、うま味があれば、あるほど、リスクというか、賭けの部分が多くなる…

 ギャンブルの要素が大きくなる…

 株で言えば、ハイリスク、ハイリターン…

 儲かれば、デカいが、元金を大きく減らす可能性も高い…

 危険があれば、あるほど、儲かる可能性が高いということだ…

 だから、下手をすれば、一文無しになる可能性もあるということだ…

 「…お嬢…どんなことにも、リスクは避けられません…」

 稲葉五郎が、もう一度繰り返した…

 しかし、それは、私に言うというよりも、むしろ自分自身に言い聞かせている感じだった…

                
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