第155話
文字数 7,471文字
「…じゃ、オレはこれで…」
と、言って、葉山は去った…
私は、葉山を引き留めて、まだまだ聞きたいことがあったが、さすがに、これ以上、引き留めることはできなかった…
呆気ないほど、簡単に、この場を去った…
残ったのは、私一人…
竹下クミ、一人だけだった…
葉山が去って、しばらくしてから、この料亭の女将さんが、一人で、様子を見にやって来た…
一目見て、部屋に、私だけが残り、その私が、どうしていいか、わからず、ポツンといるのが、わかったものだから、
「…お嬢さん以外、皆さん、お帰りになったんですか?…」
と、私に聞いた…
私は、どうしていいか、わからず、
「…」
と、無言のまま、首を縦に振って、頷いた…
それから、女将さんが、まだ誰も手を付けてない料理を見て、
「…お嬢さん…せっかくだから、この料理を食べてから、お帰りなさい…お腹が空いてるでしょ?…」
と、私に料理を食べることを勧めた…
当たり前だが、私もお腹が空いていた…
ただ、あまりにも、ゴタゴタし過ぎて、料理を食べるどころでは、なかった…
高雄悠(ゆう)が、実は、大場小太郎の血の分けた息子だったり、その悠(ゆう)と、大場敦子が、男女の関係だったりと、これでもかというほど、さまざまなことが、暴露された…
予想外の出来事の連続だった…
極めつけは、死んだと思っていた古賀会長が姿を現したことだろう…
しかも、その古賀会長は、ボケていた…
それを隠すために、死んだことにして、身を隠していたのだ…
そして、それらすべてを見越したように、一連の出来事が起きてから、葉山を含めた、警視庁公安部外事第二課の人たちが、現れた…
そこで、同席した、あの町中華の女将さんが、中国の工作員だと暴露され、大場父娘共々、公安部の人たちに、連行されていってしまった…
こんなことは、この竹下クミの人生で初めて…
まるで、ドラマの主人公のように、めまぐるしく周囲に翻弄されたと、いっていい…
だから、食事どころでは、なかったのだ…
そして、今、この料亭の女将さんに勧められて、ようやく、自分が、お腹が空いたことに、気付いた…
だから、私は、
「…それでは、遠慮なく…」
と、小さく言って、箸を持って、食べ始めた…
料理は、おいしかったが、味わうという感じではなかった…
なにより、料理はすっかり、冷めていた…
が、それを指摘する勇気は、私には、なかった…
が、女将さんは、料理が冷めてしまっていることに、すぐに、気付き、
「…作り直してきます…お嬢さんも、いったん箸を止めて、温めてから、食べなさい…」
と、私に言った…
私は、無言で、箸を休めた…
それから、しばらくして、温め直した料理が運ばれてきた…
一口食べて、おいしかった…
さっきとは、全然味が違う…
思わず、
「…おいしい…」
と、呟くと、女将さんは、にっこり微笑んだ…
「…接客業は、お客様に喜んでもらえるのが、第一…お嬢さんの嬉しそうな顔を見て、私も嬉しいです…」
と、告げた…
うまいことを言う…
私は、思った…
私の食べる姿を見て、
「…お嬢さんも、将来、接客業に就けばいい…」
と、いきなり、私に向かって、思いがけないことを言った…
「…接客業?…」
思わず、箸を止めて、女将さんの顔を見た…
「…お嬢さんは、笑顔がいい…誰からも好かれるでしょう…そういう人間は、ひとと接する仕事が一番…天職です…」
会って間もないのに、断言された…
私は、複雑だった…
社交辞令か否か、判断できなかった…
だから、私は、
「…ありがとうございます…」
と、だけ言って、料理を食べた…
その方が、なにも、言わずに、済んだからだ…
私は、無言のまま、料理を食べ続けた…
そんな私の姿をニコニコと、料亭の女将さんが、見ていた…
結局、杉崎実業の内定を契機に、始まった、この騒動は、これで、終わりになった…
それは、あの後、大場に会って、それを知ったというか…
痛感した…
大場に呼び出されて、ファミレスで、二人きりで、会った…
「…竹下さんには、今度の一件で、ホントに、迷惑をかけて、ごめんなさい…」
と、会うなり、大場が私に、頭を下げて、謝った…
私は、それよりも、大場のカラダのことが、気になった…
本当に、高雄悠(ゆう)の子供を妊娠したのだろうか?
なにより、それが、気になった…
「…そんなことより、カラダ…」
「…カラダ?…」
「…ほら、高雄悠(ゆう)さんの子供を妊娠したっていう…」
私の質問に、
「…ああ、アレね?…」
と、照れ隠しのような、笑いを浮かべた…
「…誤解だったみたい…ちょっと、生理が遅れただけで…」
「…生理が遅れただけ?…」
あまりにも、以外な言葉だった…
「…自分で言うのも、なんだけど、悠(ゆう)さんと、そういう関係になって、ナーバスになり過ぎていたっていうのが、あって…」
大場敦子が、恥ずかしそうに、告白する…
私は、大場の告白に、唖然とした…
「…最近、そういう関係になって、まだ、何回もしてないけど、だから、余計に、気になったというか…これは、男のひとには、わからないでしょうね…」
大場が、顔を真っ赤にして言う…
私は、大場の言葉に、拍子抜けした…
私と同じ歳で、私は、まだ、男のひとと、そういう関係になったことは、一度もない…
だから、もし、大場に子供が出来たら、どうするんだろう? と、漠然と、気になっていた…
大場は、私と違って、大金持ちの娘だから、私とは、生まれついた環境が、天と地ほども、違うけれど、同じ年齢だ…
私と同じ、まだ、22歳の、学生の身で、妊娠して、これから、どうするんだろう? と、いうのが、気になっていた…
それが、ただ、生理が遅れただけなんて、拍子抜けも、いいところだ(苦笑)…
私が、事の顛末(てんまつ)に愕然としていると、
「…でも、あの一件で、パパに私と、悠(ゆう)さんの関係がバレてから、パパの態度が変わったの…」
と、大場が楽しそうに、言った…
「…変わったって、どう変わったの?…」
「…まるで、美術品…」
「…美術品って?…」
「…まるで、美術館に飾ってある、高価な美術品を扱うように、私に接するの…いっしょに、ご飯を食べていて、ちょっとでも、私が、顔をしかめたりすると、すぐに、私の傍に来て、大丈夫か、無理しない方が、いいぞって…」
「…」
「…家族の中でも、私とパパ以外は、私が、妊娠したかもしれないことは、知らないの…だから、パパの私への態度が、あまりにも、豹変したものだから、ママも弟や妹たちも、目を丸くして、見ている…それが、面白くて…」
実に楽しそうに、大場が言った…
「…だから、パパには、妊娠なんかしてなくて、生理が遅れただけって、いうのは、しばらく内緒にするつもり…」
いたずらっぽく言う…
「…えーっ? どういうこと?…」
「…だって、どうせ、あと数か月すれば、お腹も大きくならないから、妊娠がウソだって、バレるでしょ? それまでは、私に尽くしてもらうの…」
大場が宣言する…
私は、大場の言葉に、今さらながら、女はしたたかだと思った…
男なら、こうはしないだろう…
打算と言っては、なんだが、巧妙に、自分の取り分を頂くというか…
周囲を手玉に取るというか…
私は、大場の言葉に、ただ、呆気に取られた…
「…それで、悠(ゆう)…高雄悠(ゆう)さんは、今、どうして…」
「…知らない…」
あっさりと言った…
「…知らないって…」
「…ほら、竹下さんも、知ってるように、悠(ゆう)さんは、口ばっかしの頭でっかちだから、実際、汗水働いて、カラダを動かす体験をしろって、言ったら、ウーバーイーツを始めたものの、三日も経たないで、止めちゃって…それで、口げんかになって、それっきり…」
私は、大場のあまりの言葉に、あんぐりと、バカみたいに、口を開けて、驚いた…
「…挙句の果てには、ボクには、肉体労働は似合わない…頭脳労働しかできないって…一体、何様のつもりだってぇの…」
大場が憤懣やるかたないといった表情で、語る…
私は、なんといっていいか、わからなかった…
ただ、
「…どうして、ウーバーイーツ?…」
ということだけは、聞いた…
「…簡単だから…」
大場が答える。
「…今、一番、簡単になれる仕事でしょ? だから、働くのに、一番と思って…」
至極、真っ当な意見だった…
「…でも、まさか、三日で、音を上げるなんて、思わなかった…口先だけの男とは、思っていたけど、まさか、これほどとは…」
大場がため息を漏らす…
「…だから、その怒りを、パパにぶつけてるの…パパは、悠(ゆう)さんの父親だから…」
と、まさに、無茶苦茶な理屈を言う…
私は、文字通り、目が点になった…
「…お父さんは、これから、どうするの?…」
「…さあ…今度の総選挙には、出ないで、次の選挙に出るようなことを言ってるけど、どうなるか? 当選は、できると思うけど、問題はその後よ…」
大場が、ひどく冷静に言う…
それから、話を悠(ゆう)に、戻した…
「…大場さんは、悠(ゆう)さんと、結婚するの?…」
大場は、すぐに、首を横に振って、否定した…
「…わからない…第一、就職もしてないのに、結婚どころじゃないでしょ?…」
これも、ひどく、真っ当な言葉だった…
「…悠(ゆう)さんもどこかに、就職して、私も、就職して、話は、それから…」
これも、また、ひどく、真っ当な意見だった…
私が、思っていると、今度は、大場が、
「…聞いていい?…」
と、遠慮がちに、私に聞いた…
「…なに?…」
「…竹下さん、古賀のお爺ちゃんとか、稲葉のオジサンが、父親かもしれないって…アレをどう思ってるの?…」
「…どうって?…」
「…ほら、私も色々聞きづらいし…」
「…なにも…」
私は、小さく答えた…
「…なにも、思わない…なにも、考えない…そういうことにしている…」
私が、言うと、
大場は、少し、考え込んでから、
「…そう…」
と、小さく言った…
「…それが、一番かも…」
「…それに…」
私は、続けた…
「…仮に、稲葉さんが、私の父親でも、嫌じゃなかった…」
私は、告白する…
私の告白に、大場も、
「…私も同じ…」
と、私の意見に同意した…
「…稲葉のオジサンは、悪いひとじゃない…」
と、だけ言って、後の言葉は飲み込んだ…
本当ならば、稲葉五郎の正体が、公安のスパイか否か、話題にしたいが、話題にしても、仕方がない話だからだ…
それが、本当だか、わからないからだ…
「…で、あの町中華の女将さんは…」
と、今さらながら、聞いた…
大場の妊娠が、真っ先に気になり、あの町中華の女将さんが、どうなったかなんて、すっかり、忘れていた…
「…女将さんは、国外追放よ…」
あっさりと言った…
葉山の言う通りだった…
「…もう二度と会うことはない…」
大場が、苦り切った表情で言った…
大場にとって、あの町中華の女将さんは、黒歴史以外の何物でもないのかもしれない…
稲葉五郎の正体は、日本の公安のスパイかもしれないから、まだ許せるが、中国の工作員=スパイとなると、話は、変わる…
大場小太郎は、父親が、かつて、国家公安委員長をしていた縁で、ヤクザ界を見張る意味で、山田会の古賀会長を始め、他のヤクザとも、交流を持ったが、相手が、中国のスパイとなると、話は変わる…
それは、養女の敦子にとっても、同じなのだろう…
だから、私は、これ以上、女将さんについて、聞かなかった…
女将さんは、古賀会長や、稲葉五郎たちと、同様、大場敦子が、小さいときから、見知ってる人間…
だから、余計に、ショックが大きいに違いない…
そういえば、ヤクザと言えば、松尾聡(さとし)は、どうなったのだろう?
あれ以来、動静は、聞かないが…
「…あの松尾さん…松尾会会長は?…」
「…さあ…」
と、大場は、首を横に振った…
「…古賀のお爺ちゃんが、あの状態だったから、あの騒動を人づてに、聞いて、引退するとか、しないとか…一時は、山田会の高雄組を筆頭とした経済ヤクザを束ねて、別組織といっしょにさせるとか、息巻いていたというけど、古賀のお爺ちゃんの状態が、他のヤクザにも伝わって、今さら、松尾のお爺ちゃんの時代でもないって、誰もついていかなかったみたい…笑っちゃうね…」
大場は、苦笑する…
やはり、義父の大場小太郎同様、ヤクザ界の動静に長けている…
いや、
これは、あの悠(ゆう)…高雄悠(ゆう)に、聞いたのだろうか?
悠(ゆう)の養父は、高雄組組長…
亡くなったとはいえ、高雄組組長は、大物ヤクザ…
情報のルートは、持っているに、違いない…
私は、思った…
そして、林…
林は、一体、どうなったのだろう?
「…あの…林さんが、あの後、どうなったか、知ってる?…」
「…ううん、知らない…」
大場が、首を横に振った…
「…林のことは、なにも、わからない…」
「…そう…」
小さく、答えた…
思えば、今回の杉崎実業の一件で、林が一番悲惨だった…
全財産、無くしたと言っていた…
今回の一件で、一番、心を痛めたことだ…
だが、残念ながら、私に、どうすることも、できない…
古賀のお爺ちゃんは、あの後、施設に送られたそうだ…
元々、そこへ、隠れ住んでいたらしい…
大場と私は、それから、さまざまな世間話をした…
気が付くと、優に小一時間は過ぎていた…
「…もう、こんな時間…」
大場が、突然、言った…
そして、席を立ち、
「…また、なにか、あったら、連絡するね…」
と、慌ただしく、店を出たときに、大場が私に言って、私に、手を振って、別れた…
おそらく、これが、最後の会話というか…
もう二度と会うことは、ないと、直観的に、わかっていた…
私と、大場とは、住む世界が違い過ぎる…
そもそも、本来、出会うはずがない二人が、偶然、出会ったに過ぎない…
私は、そう思った…
そして、私は電車に乗り、自分の住む街に帰ることにした…
自宅のある駅に着くと、私は、ホッとしたというか…
なんだか、これまで、あった出来事がすべて、夢のような感じがした…
大物代議士、大物ヤクザ、公安警察…
そんな、普段、私が、絶対会えない人間と、出会った…
今さらながら、それを痛感した…
と、そのときだった…
そんなことを、考えていたせいか、駅の階段を下りていたときに、誤って、階段を踏み違えた…
あと数段で、降り終えるところを、誤って、スルッと下に落ちた…
尻もちをついた…
「…いたーい!…」
思わず、声に出した…
私は、慌てて、周囲を見回した…
恥ずかしくて、仕方がなかったからだ…
22歳にもなって、駅の階段を踏み外すとは、思わなかった…
だが、道行く周囲の人間は、私が、階段を踏み外したのに、気付いたが、誰もが、見て見ぬふりをして、通り過ぎた…
私は、慌てて、立ち上がり、その場から、去ろうとした…
恥ずかしくって、仕方がないからだ…
と、そのときに、
「…相変わらず、トロいな、竹下…」
と、いう声が近くでした…
私は、慌てて、その声の主を見た…
見るからに、人の良さそうな女が、そこに立っていた…
身長は、私と、同じ160㎝ぐらいだが、妙に、胸が大きい…
だが、幼児体系…
子供が、そのまま、大人になったような感じだった…
「…満足に、階段を下りることもできないのか?…」
かわいらしい声で、言われた…
「…矢田…」
思わず、私は、眼前の女の名前を呼んだ…
矢田トモコ…
もっとも、出会いたくない相手だった(涙)…
もっとも、こんな場面を見られたくない相手だった(涙)…
矢田は決して、悪いヤツではない…
しかし、
しかし、だ…
「…私と、会って、良かったな、竹下…これが、私以外で、高校時代ならば、次の日、オマエが、学校に行けば、オマエが、駅の階段も満足に歩けなかったことが、学校中に知れ渡ってるぞ…私だから、良かった…武士の情けだ…黙っておいてやる…」
上から目線の言葉だった…
…ウソを言うな!…
…矢田、オマエに見られたから、マズいんじゃないか?…
…オマエのことだ…明日、学校に行けば、まるで、放送局のように、周囲に言いふらしているに違いない…
私は、とっさに思った…
いや、
すでに、スマホで、知り会いという知り合いに、電話をしまくるかもしれない…
そう思いながら、目の前の矢田を見た…
…ン?…
私が、矢田を見ると、なにか、以前と違う…
なにが、違うんだ?
考えた…
目が二重になっている…
矢田の細い目が、二重になってる…
私は、その事実に気付いた…
「…矢田…アンタ…整形したの?…」
「…少しばかりな…」
そう言って、矢田トモコは、自信たっぷりに、笑った…
「…私のこの胸と、この大きな目…もはや、就活に抜かりはないさ…」
矢田が宣言する。
しかも、自分の大きな胸を、わざと揺らしながらだ…
…そういえば、矢田も、私と同い年…
…矢田は、就職が決まったのだろうか?…
「…矢田…アンタ、就職は決まったの?…」
「…決まってないさ…だから、目を二重にしたのさ…これで、就活は、ばっちりさ…」
矢田が自信を持って言った…
相変わらず、甘い…
どこまでも、自分に甘いというか…
見通しが甘いというか…
が、
それが、矢田トモコだった(笑)…
「…竹下…オマエは、ダメなヤツだ…今度、私が暇なときには、オマエの面倒を見てやってもいいぞ…オマエは、頼りなさすぎるからな…」
矢田が、自信たっぷりに言った…
…ウ、ウソだろ?…
…私も頼りないが、オマエは、もっと、頼りないだろ?…
…そのオマエに、どうして、そんな口がきけるんだ?…
…頭は、大丈夫か?…
一瞬、思ったが、それが、矢田だった…
矢田トモコだった…
究極の愛されキャラ…
私など、足元にも、及ばない、愛されキャラだった…
矢田ほど、周囲の人間に愛されたひとは、見たことがなかった…
いや、
金輪際、出会うこともないだろう…
矢田トモコと、ここで、再会することで、ハッキリと、現実に戻ったことを実感したというか…
杉崎実業の内定を始めとした、騒動が、遠い過去のものに、思えた…
私の本来、属する世界に、帰って来たのだ…
私は、それを痛感した…
と、言って、葉山は去った…
私は、葉山を引き留めて、まだまだ聞きたいことがあったが、さすがに、これ以上、引き留めることはできなかった…
呆気ないほど、簡単に、この場を去った…
残ったのは、私一人…
竹下クミ、一人だけだった…
葉山が去って、しばらくしてから、この料亭の女将さんが、一人で、様子を見にやって来た…
一目見て、部屋に、私だけが残り、その私が、どうしていいか、わからず、ポツンといるのが、わかったものだから、
「…お嬢さん以外、皆さん、お帰りになったんですか?…」
と、私に聞いた…
私は、どうしていいか、わからず、
「…」
と、無言のまま、首を縦に振って、頷いた…
それから、女将さんが、まだ誰も手を付けてない料理を見て、
「…お嬢さん…せっかくだから、この料理を食べてから、お帰りなさい…お腹が空いてるでしょ?…」
と、私に料理を食べることを勧めた…
当たり前だが、私もお腹が空いていた…
ただ、あまりにも、ゴタゴタし過ぎて、料理を食べるどころでは、なかった…
高雄悠(ゆう)が、実は、大場小太郎の血の分けた息子だったり、その悠(ゆう)と、大場敦子が、男女の関係だったりと、これでもかというほど、さまざまなことが、暴露された…
予想外の出来事の連続だった…
極めつけは、死んだと思っていた古賀会長が姿を現したことだろう…
しかも、その古賀会長は、ボケていた…
それを隠すために、死んだことにして、身を隠していたのだ…
そして、それらすべてを見越したように、一連の出来事が起きてから、葉山を含めた、警視庁公安部外事第二課の人たちが、現れた…
そこで、同席した、あの町中華の女将さんが、中国の工作員だと暴露され、大場父娘共々、公安部の人たちに、連行されていってしまった…
こんなことは、この竹下クミの人生で初めて…
まるで、ドラマの主人公のように、めまぐるしく周囲に翻弄されたと、いっていい…
だから、食事どころでは、なかったのだ…
そして、今、この料亭の女将さんに勧められて、ようやく、自分が、お腹が空いたことに、気付いた…
だから、私は、
「…それでは、遠慮なく…」
と、小さく言って、箸を持って、食べ始めた…
料理は、おいしかったが、味わうという感じではなかった…
なにより、料理はすっかり、冷めていた…
が、それを指摘する勇気は、私には、なかった…
が、女将さんは、料理が冷めてしまっていることに、すぐに、気付き、
「…作り直してきます…お嬢さんも、いったん箸を止めて、温めてから、食べなさい…」
と、私に言った…
私は、無言で、箸を休めた…
それから、しばらくして、温め直した料理が運ばれてきた…
一口食べて、おいしかった…
さっきとは、全然味が違う…
思わず、
「…おいしい…」
と、呟くと、女将さんは、にっこり微笑んだ…
「…接客業は、お客様に喜んでもらえるのが、第一…お嬢さんの嬉しそうな顔を見て、私も嬉しいです…」
と、告げた…
うまいことを言う…
私は、思った…
私の食べる姿を見て、
「…お嬢さんも、将来、接客業に就けばいい…」
と、いきなり、私に向かって、思いがけないことを言った…
「…接客業?…」
思わず、箸を止めて、女将さんの顔を見た…
「…お嬢さんは、笑顔がいい…誰からも好かれるでしょう…そういう人間は、ひとと接する仕事が一番…天職です…」
会って間もないのに、断言された…
私は、複雑だった…
社交辞令か否か、判断できなかった…
だから、私は、
「…ありがとうございます…」
と、だけ言って、料理を食べた…
その方が、なにも、言わずに、済んだからだ…
私は、無言のまま、料理を食べ続けた…
そんな私の姿をニコニコと、料亭の女将さんが、見ていた…
結局、杉崎実業の内定を契機に、始まった、この騒動は、これで、終わりになった…
それは、あの後、大場に会って、それを知ったというか…
痛感した…
大場に呼び出されて、ファミレスで、二人きりで、会った…
「…竹下さんには、今度の一件で、ホントに、迷惑をかけて、ごめんなさい…」
と、会うなり、大場が私に、頭を下げて、謝った…
私は、それよりも、大場のカラダのことが、気になった…
本当に、高雄悠(ゆう)の子供を妊娠したのだろうか?
なにより、それが、気になった…
「…そんなことより、カラダ…」
「…カラダ?…」
「…ほら、高雄悠(ゆう)さんの子供を妊娠したっていう…」
私の質問に、
「…ああ、アレね?…」
と、照れ隠しのような、笑いを浮かべた…
「…誤解だったみたい…ちょっと、生理が遅れただけで…」
「…生理が遅れただけ?…」
あまりにも、以外な言葉だった…
「…自分で言うのも、なんだけど、悠(ゆう)さんと、そういう関係になって、ナーバスになり過ぎていたっていうのが、あって…」
大場敦子が、恥ずかしそうに、告白する…
私は、大場の告白に、唖然とした…
「…最近、そういう関係になって、まだ、何回もしてないけど、だから、余計に、気になったというか…これは、男のひとには、わからないでしょうね…」
大場が、顔を真っ赤にして言う…
私は、大場の言葉に、拍子抜けした…
私と同じ歳で、私は、まだ、男のひとと、そういう関係になったことは、一度もない…
だから、もし、大場に子供が出来たら、どうするんだろう? と、漠然と、気になっていた…
大場は、私と違って、大金持ちの娘だから、私とは、生まれついた環境が、天と地ほども、違うけれど、同じ年齢だ…
私と同じ、まだ、22歳の、学生の身で、妊娠して、これから、どうするんだろう? と、いうのが、気になっていた…
それが、ただ、生理が遅れただけなんて、拍子抜けも、いいところだ(苦笑)…
私が、事の顛末(てんまつ)に愕然としていると、
「…でも、あの一件で、パパに私と、悠(ゆう)さんの関係がバレてから、パパの態度が変わったの…」
と、大場が楽しそうに、言った…
「…変わったって、どう変わったの?…」
「…まるで、美術品…」
「…美術品って?…」
「…まるで、美術館に飾ってある、高価な美術品を扱うように、私に接するの…いっしょに、ご飯を食べていて、ちょっとでも、私が、顔をしかめたりすると、すぐに、私の傍に来て、大丈夫か、無理しない方が、いいぞって…」
「…」
「…家族の中でも、私とパパ以外は、私が、妊娠したかもしれないことは、知らないの…だから、パパの私への態度が、あまりにも、豹変したものだから、ママも弟や妹たちも、目を丸くして、見ている…それが、面白くて…」
実に楽しそうに、大場が言った…
「…だから、パパには、妊娠なんかしてなくて、生理が遅れただけって、いうのは、しばらく内緒にするつもり…」
いたずらっぽく言う…
「…えーっ? どういうこと?…」
「…だって、どうせ、あと数か月すれば、お腹も大きくならないから、妊娠がウソだって、バレるでしょ? それまでは、私に尽くしてもらうの…」
大場が宣言する…
私は、大場の言葉に、今さらながら、女はしたたかだと思った…
男なら、こうはしないだろう…
打算と言っては、なんだが、巧妙に、自分の取り分を頂くというか…
周囲を手玉に取るというか…
私は、大場の言葉に、ただ、呆気に取られた…
「…それで、悠(ゆう)…高雄悠(ゆう)さんは、今、どうして…」
「…知らない…」
あっさりと言った…
「…知らないって…」
「…ほら、竹下さんも、知ってるように、悠(ゆう)さんは、口ばっかしの頭でっかちだから、実際、汗水働いて、カラダを動かす体験をしろって、言ったら、ウーバーイーツを始めたものの、三日も経たないで、止めちゃって…それで、口げんかになって、それっきり…」
私は、大場のあまりの言葉に、あんぐりと、バカみたいに、口を開けて、驚いた…
「…挙句の果てには、ボクには、肉体労働は似合わない…頭脳労働しかできないって…一体、何様のつもりだってぇの…」
大場が憤懣やるかたないといった表情で、語る…
私は、なんといっていいか、わからなかった…
ただ、
「…どうして、ウーバーイーツ?…」
ということだけは、聞いた…
「…簡単だから…」
大場が答える。
「…今、一番、簡単になれる仕事でしょ? だから、働くのに、一番と思って…」
至極、真っ当な意見だった…
「…でも、まさか、三日で、音を上げるなんて、思わなかった…口先だけの男とは、思っていたけど、まさか、これほどとは…」
大場がため息を漏らす…
「…だから、その怒りを、パパにぶつけてるの…パパは、悠(ゆう)さんの父親だから…」
と、まさに、無茶苦茶な理屈を言う…
私は、文字通り、目が点になった…
「…お父さんは、これから、どうするの?…」
「…さあ…今度の総選挙には、出ないで、次の選挙に出るようなことを言ってるけど、どうなるか? 当選は、できると思うけど、問題はその後よ…」
大場が、ひどく冷静に言う…
それから、話を悠(ゆう)に、戻した…
「…大場さんは、悠(ゆう)さんと、結婚するの?…」
大場は、すぐに、首を横に振って、否定した…
「…わからない…第一、就職もしてないのに、結婚どころじゃないでしょ?…」
これも、ひどく、真っ当な言葉だった…
「…悠(ゆう)さんもどこかに、就職して、私も、就職して、話は、それから…」
これも、また、ひどく、真っ当な意見だった…
私が、思っていると、今度は、大場が、
「…聞いていい?…」
と、遠慮がちに、私に聞いた…
「…なに?…」
「…竹下さん、古賀のお爺ちゃんとか、稲葉のオジサンが、父親かもしれないって…アレをどう思ってるの?…」
「…どうって?…」
「…ほら、私も色々聞きづらいし…」
「…なにも…」
私は、小さく答えた…
「…なにも、思わない…なにも、考えない…そういうことにしている…」
私が、言うと、
大場は、少し、考え込んでから、
「…そう…」
と、小さく言った…
「…それが、一番かも…」
「…それに…」
私は、続けた…
「…仮に、稲葉さんが、私の父親でも、嫌じゃなかった…」
私は、告白する…
私の告白に、大場も、
「…私も同じ…」
と、私の意見に同意した…
「…稲葉のオジサンは、悪いひとじゃない…」
と、だけ言って、後の言葉は飲み込んだ…
本当ならば、稲葉五郎の正体が、公安のスパイか否か、話題にしたいが、話題にしても、仕方がない話だからだ…
それが、本当だか、わからないからだ…
「…で、あの町中華の女将さんは…」
と、今さらながら、聞いた…
大場の妊娠が、真っ先に気になり、あの町中華の女将さんが、どうなったかなんて、すっかり、忘れていた…
「…女将さんは、国外追放よ…」
あっさりと言った…
葉山の言う通りだった…
「…もう二度と会うことはない…」
大場が、苦り切った表情で言った…
大場にとって、あの町中華の女将さんは、黒歴史以外の何物でもないのかもしれない…
稲葉五郎の正体は、日本の公安のスパイかもしれないから、まだ許せるが、中国の工作員=スパイとなると、話は、変わる…
大場小太郎は、父親が、かつて、国家公安委員長をしていた縁で、ヤクザ界を見張る意味で、山田会の古賀会長を始め、他のヤクザとも、交流を持ったが、相手が、中国のスパイとなると、話は変わる…
それは、養女の敦子にとっても、同じなのだろう…
だから、私は、これ以上、女将さんについて、聞かなかった…
女将さんは、古賀会長や、稲葉五郎たちと、同様、大場敦子が、小さいときから、見知ってる人間…
だから、余計に、ショックが大きいに違いない…
そういえば、ヤクザと言えば、松尾聡(さとし)は、どうなったのだろう?
あれ以来、動静は、聞かないが…
「…あの松尾さん…松尾会会長は?…」
「…さあ…」
と、大場は、首を横に振った…
「…古賀のお爺ちゃんが、あの状態だったから、あの騒動を人づてに、聞いて、引退するとか、しないとか…一時は、山田会の高雄組を筆頭とした経済ヤクザを束ねて、別組織といっしょにさせるとか、息巻いていたというけど、古賀のお爺ちゃんの状態が、他のヤクザにも伝わって、今さら、松尾のお爺ちゃんの時代でもないって、誰もついていかなかったみたい…笑っちゃうね…」
大場は、苦笑する…
やはり、義父の大場小太郎同様、ヤクザ界の動静に長けている…
いや、
これは、あの悠(ゆう)…高雄悠(ゆう)に、聞いたのだろうか?
悠(ゆう)の養父は、高雄組組長…
亡くなったとはいえ、高雄組組長は、大物ヤクザ…
情報のルートは、持っているに、違いない…
私は、思った…
そして、林…
林は、一体、どうなったのだろう?
「…あの…林さんが、あの後、どうなったか、知ってる?…」
「…ううん、知らない…」
大場が、首を横に振った…
「…林のことは、なにも、わからない…」
「…そう…」
小さく、答えた…
思えば、今回の杉崎実業の一件で、林が一番悲惨だった…
全財産、無くしたと言っていた…
今回の一件で、一番、心を痛めたことだ…
だが、残念ながら、私に、どうすることも、できない…
古賀のお爺ちゃんは、あの後、施設に送られたそうだ…
元々、そこへ、隠れ住んでいたらしい…
大場と私は、それから、さまざまな世間話をした…
気が付くと、優に小一時間は過ぎていた…
「…もう、こんな時間…」
大場が、突然、言った…
そして、席を立ち、
「…また、なにか、あったら、連絡するね…」
と、慌ただしく、店を出たときに、大場が私に言って、私に、手を振って、別れた…
おそらく、これが、最後の会話というか…
もう二度と会うことは、ないと、直観的に、わかっていた…
私と、大場とは、住む世界が違い過ぎる…
そもそも、本来、出会うはずがない二人が、偶然、出会ったに過ぎない…
私は、そう思った…
そして、私は電車に乗り、自分の住む街に帰ることにした…
自宅のある駅に着くと、私は、ホッとしたというか…
なんだか、これまで、あった出来事がすべて、夢のような感じがした…
大物代議士、大物ヤクザ、公安警察…
そんな、普段、私が、絶対会えない人間と、出会った…
今さらながら、それを痛感した…
と、そのときだった…
そんなことを、考えていたせいか、駅の階段を下りていたときに、誤って、階段を踏み違えた…
あと数段で、降り終えるところを、誤って、スルッと下に落ちた…
尻もちをついた…
「…いたーい!…」
思わず、声に出した…
私は、慌てて、周囲を見回した…
恥ずかしくて、仕方がなかったからだ…
22歳にもなって、駅の階段を踏み外すとは、思わなかった…
だが、道行く周囲の人間は、私が、階段を踏み外したのに、気付いたが、誰もが、見て見ぬふりをして、通り過ぎた…
私は、慌てて、立ち上がり、その場から、去ろうとした…
恥ずかしくって、仕方がないからだ…
と、そのときに、
「…相変わらず、トロいな、竹下…」
と、いう声が近くでした…
私は、慌てて、その声の主を見た…
見るからに、人の良さそうな女が、そこに立っていた…
身長は、私と、同じ160㎝ぐらいだが、妙に、胸が大きい…
だが、幼児体系…
子供が、そのまま、大人になったような感じだった…
「…満足に、階段を下りることもできないのか?…」
かわいらしい声で、言われた…
「…矢田…」
思わず、私は、眼前の女の名前を呼んだ…
矢田トモコ…
もっとも、出会いたくない相手だった(涙)…
もっとも、こんな場面を見られたくない相手だった(涙)…
矢田は決して、悪いヤツではない…
しかし、
しかし、だ…
「…私と、会って、良かったな、竹下…これが、私以外で、高校時代ならば、次の日、オマエが、学校に行けば、オマエが、駅の階段も満足に歩けなかったことが、学校中に知れ渡ってるぞ…私だから、良かった…武士の情けだ…黙っておいてやる…」
上から目線の言葉だった…
…ウソを言うな!…
…矢田、オマエに見られたから、マズいんじゃないか?…
…オマエのことだ…明日、学校に行けば、まるで、放送局のように、周囲に言いふらしているに違いない…
私は、とっさに思った…
いや、
すでに、スマホで、知り会いという知り合いに、電話をしまくるかもしれない…
そう思いながら、目の前の矢田を見た…
…ン?…
私が、矢田を見ると、なにか、以前と違う…
なにが、違うんだ?
考えた…
目が二重になっている…
矢田の細い目が、二重になってる…
私は、その事実に気付いた…
「…矢田…アンタ…整形したの?…」
「…少しばかりな…」
そう言って、矢田トモコは、自信たっぷりに、笑った…
「…私のこの胸と、この大きな目…もはや、就活に抜かりはないさ…」
矢田が宣言する。
しかも、自分の大きな胸を、わざと揺らしながらだ…
…そういえば、矢田も、私と同い年…
…矢田は、就職が決まったのだろうか?…
「…矢田…アンタ、就職は決まったの?…」
「…決まってないさ…だから、目を二重にしたのさ…これで、就活は、ばっちりさ…」
矢田が自信を持って言った…
相変わらず、甘い…
どこまでも、自分に甘いというか…
見通しが甘いというか…
が、
それが、矢田トモコだった(笑)…
「…竹下…オマエは、ダメなヤツだ…今度、私が暇なときには、オマエの面倒を見てやってもいいぞ…オマエは、頼りなさすぎるからな…」
矢田が、自信たっぷりに言った…
…ウ、ウソだろ?…
…私も頼りないが、オマエは、もっと、頼りないだろ?…
…そのオマエに、どうして、そんな口がきけるんだ?…
…頭は、大丈夫か?…
一瞬、思ったが、それが、矢田だった…
矢田トモコだった…
究極の愛されキャラ…
私など、足元にも、及ばない、愛されキャラだった…
矢田ほど、周囲の人間に愛されたひとは、見たことがなかった…
いや、
金輪際、出会うこともないだろう…
矢田トモコと、ここで、再会することで、ハッキリと、現実に戻ったことを実感したというか…
杉崎実業の内定を始めとした、騒動が、遠い過去のものに、思えた…
私の本来、属する世界に、帰って来たのだ…
私は、それを痛感した…