第51話

文字数 5,492文字

 …稲葉五郎と会う…

 私は、思った…

 あの稲葉五郎は、顔は怖いが、私に優しい…

 だから、同じヤクザでも、外見は、サラリーマンっぽく、物腰が柔らかい、高雄の父親と会うよりも、ハードルが低いというか…

 正直、会うのに、心理的抵抗が少ない…

 だったら、早速、稲葉五郎に連絡を取るか?

 私は、思った…

 しかし、そうは思っても、やはり、躊躇(ためら)われるというか…

 いや、

 そもそも、私は、稲葉五郎の連絡先を、知らない…

 あの大場と行った、街中華の店の近くに、稲葉一家と看板を掲げた、ビルのテナントがあった…

 たぶん、アレが、稲葉五郎の稲葉一家に違いない…

 いや、

 そうに、決まっている(笑)…

 現に、稲葉五郎は、私が大場と話しているときに、あの街中華に現れた…

 そして、あの街中華の女将さんと軽妙なやりとりを繰り広げた…

 それを、考えれば、当然、あの稲葉一家と看板を掲げたビルのテナントが、稲葉五郎の事務所に違いない…

 だから、ネットで、電話番号を調べれば、あの稲葉五郎の事務所の電話番号がわかるかもしれない…

 稲葉五郎と連絡が取れるかもしれない…

 そして、稲葉五郎から、高雄に連絡が取れるかもしれない…

 私は、考えた。

 が、

 しかし、

 しかし、だ…

 仮に、ネットで、稲葉一家の事務所の電話番号がわかったとしても、直接、私が、電話をかけるのは、ハードルが高い…

 まさか、一介の女子大生に過ぎない私が、ヤクザの事務所に電話をかけるわけには、いかない…

 また、そもそも、私が電話をかけても、事務所の人間が、稲葉五郎に電話を取り次いでくれるとは、思えない…

 それが、当たり前…

 当たり前だ…

 だが、

 だったら、どうする?

 誰が、稲葉五郎と連絡がつくか?

 考える。

 稲葉五郎の連絡先を知っているのは、大場…

 あの大場だ…

 真っ先に脳裏に思い浮かんだのが、大場だった…

 しかしながら、今、大場は、その稲葉五郎と、政治家である、自分の父親が、親密な関係であることを暴露されて、困っているというか、ずばり、窮地に追い込まれている…

 そんな境遇のなか、大場に、稲葉五郎の連絡先を聞くことは、躊躇(ためら)われる。

 ずばり、できない…

 いくら、高雄に連絡を取るためとはいえ、できない…

 ずばり、心理的抵抗がある…

 だったら、どうする?

 どうすればいい?

 私は、思った。

 
 翌日、私は、大学を休んで、あの稲葉五郎の事務所である、稲葉一家のある、場所に向かった…

 前回、稲葉五郎の事務所近く前まで、来たときは、大場にクルマに乗せられてきた…

 だから、正確には、場所がわからなかったが、今回は、自宅で、パソコンで、そして、今現在は、スマホで、場所を確認して、やって来た…

 私は、徒歩…

 クルマも持ってない…

 いや、そもそも、クルマの免許すら、持ってない…

 だから、自分一人で、歩いてやって来るしか、なかった…

 だから、とりあえず、一人で、ここまで、やって来た…

 電車を乗り換えて、やって来た…

 だが、それまでだった…

 私は、電車を乗り継いで、ここまで、やって来たが、この後、どうすれば、良いか、わからなかった…

 稲葉一家と、書かれた看板を見上げながら、私は、どうして、いいか、わからなかった…

 まさか、ヤクザの事務所に、乗り込んでゆくわけには、いかなかった…

 私、竹下クミは、160㎝の身長の、ずんぐりむっくりしたカラダで、どうして、いいか、わからず、稲葉一家と書かれた看板を掲げるビルのテナントを見上げながら、腕を組んで、考え込んだ…

 …一体、どうする?…

 …これから、どうする?…

 悩めば、悩むほど、わからなかった…

 答えが出なかった…

 ここに立っていれば、稲葉五郎が現れるのでは?

 一瞬、そんな淡い期待を、した…

 が、これは、淡い期待…

 妄想に過ぎなかった(涙)…

 30分、路上に立っていたが、当たり前だが、稲葉五郎は、現れなかった…

 これは、ドラマや映画ではない…

 そうそう都合よく、稲葉五郎が、私の目の前に現れるわけがない…

 ならば、以前、私を、杉崎実業まで、クルマで送ってくれたときに、運転していた、若い衆や、そのときに、助手席に乗っていた若い衆は、いないかと、思ったが、当然、二人とも、私の目の前に現れるはずは、なかった…

 いや、二人どころではない…

 そもそも、この通りは、人通りが少なかった…

 私は、一人で、ビルのテナントを背にして、路上の隅で立っていた…

 さすがに、歩道とはいえ、道のど真ん中に立つ勇気はなかった…

 私、竹下クミは、ヤクザの事務所前で、腕を組んで、考え込んでいた…

 すると、どう見ても、ヤクザっぽい男たちが、何事かと、私を見ていた。

 当たり前だが、ここは、稲葉一家のある、事務所…

 そのすぐ近くで、女子大生の私が腕を組んで、考え込んでいれば、嫌でも、目立つ…

 そういうことだ(苦笑)…

 「…お嬢ちゃん…一体、ここに、何の用?…」

 とか、

 「…ここは、お嬢ちゃんのような人間が、来るところじゃないよ…」

 とか、言う声が、聞こえてきそうだった…

 事実、目にしたヤクザっぽい男たちは、そんな態度で、私を見ていた…

 私は、ブルッた…

 正直、怖くなった…

 当たり前だ…

 何度も言うが、私、竹下クミは、ヤクザやヤンキーが大の苦手…

 いわゆる、オラオラ系というか、暴力系は、大の苦手…

 いや、

 苦手どころか、ただただ怖い…

 そんな私が、こともあろうに、ヤクザの事務所の近くに立っている…

 そのヤクザの中のヤクザ…稲葉五郎を待っている…

 その現実が、我ながら、信じられなかった…

 そう考えると、自分でも、唖然とした…

 自分自身の行動に、唖然とした…

 …なにをバカなことをやってるんだ!…

 即座に、そんな声が聞こえた…

 自分の心の声がした…

 …帰ろう…

 とっさに思った…

 大場には、悪いが、高雄のことは、自分で、どうこうできる問題ではない…

 いや、

 高雄のことは、いずれ、大場から電話があるに違いない…

 そしたら、高雄に連絡がつかないことを告げ、まずは、高雄の連絡先を、教えてくれ、と、大場に、言えばいい…

 いや、

 その前に、自分から、大場に連絡をするか?

 それが、礼儀だ…

 大場は、私に期待しているに違いない…

 ならば、一刻も早く、大場に連絡をして、あらためて、高雄の連絡先を聞けばいい…

 そうしよう…

 私は、思った…

 それから、稲葉一家と書かれた看板のあるビルのテナントの近くから、歩き出した…

 本当は、もっといたかった…

 いや、

 いるのは、怖いというか、嫌だが、大場との約束がある…

 もっといれば、もしかしたら、稲葉五郎が現れるかもしれない…

 あと30分、あのまま、いれば、稲葉五郎が、現れるかもしれない…

 そうも、思った…

 淡い期待とわかっていても、その期待を、心の中から、拭うことはできなかった…

 そう思いながら、後ろ髪をひかれる思いで、歩き出した…

 そして、ふと気付いた…

 あの街中華の女将さんの存在を、だ…

 もしかしたら、あの女将さんだったら、なにか知っているかもしれない…

 ふいに、思った…

 あの街中華の女将さんは、大場とも、稲葉五郎とも、仲がいい…

 昵懇(じっこん)の間柄だ…

 一度会っただけだが、それはわかった…

 それに、なにより、気さくで、話しやすい…

 …あの女将さんに、相談に乗ってもらおう…

 私は、思った…

 あの女将さんに、大場から、相談があったことを伝え、稲葉五郎に連絡を取ってもらおう…

 私は、そう思った…

 そして、そう考えると、自然と、足が、あの店に向かった…

 一度だけ、大場に連れられて、行ったきりだったが、店の場所は、なんとなくわかる…

 覚えている…

 っていうか、誰にでもわかるくらい、単純と言うか、わかりやすい場所にあった…

 だから、覚えている…

 私は、記憶を頼りに、あの女将さんの店を目指して、歩き出した…


 ほどなく、店は見つかった…

 なにより、あの稲葉一家の事務所と目と鼻の先…

 覚えていない方が、不思議だ…

 私は、店の前で、立ち止まり、一瞬、悩んだ…

 なぜなら、この店に入り、あの女将さんに会って、大場のことを話し、稲葉五郎に連絡を取ってくれませんか? と、頼めば、後に引けなくなる…

 この平凡な竹下クミが、なんだか、わからないが、次期総理総裁候補の呼び声も高い、大場小太郎代議士と、ヤクザ界のスター、稲葉五郎の仲裁というか、スキャンダル隠しに一役買うと言うか、ありえない展開になっている…

 それが、怖いと言うか…

 正直、これ以上、関わりたくない…

 首を突っ込みたくない…

 そんな気持ちが、湧き出てきた…

 当たり前のことだった…

 率直に言って、怖いし、身分不相応…

 ありえないことに、関わっている…

 それが、偽らざる本音だった…

 …なんで、こんなことになったんだろう?…

 ふいに、思った…

 私は、ただ就職活動をして、会社に就職したかっただけ…

 ただ就活に苦戦し、なんとか、内定をもらえた、ただ一つの会社が、あの杉崎実業だった…

 私を採用してくれた、唯一の会社だった…

 なんで、他社は、全滅だったのだろう?

 ふと、考えた。

 すると、コンビニのバイト仲間の年下男子の当麻が、

 「…竹下さん…見るからに頼りないから…」

 と、私が、就活が苦戦した理由を喝破(かっぱ)したことを、思い出した…

 「…どういうこと?…」

 と、私が、当麻に詰め寄ると、

 「…ほら、会社の採用基準って、ずばり、使えるか、否か、じゃないですか?…」

 と、当麻が笑いながら、説明した…

 「…だったら、どうして、私が使えないって、わかるんだ?…」

 「…だから、竹下さん、頼りないからですよ…」

 「…頼りない?…」

 「…就活って、ずばり、見た目じゃないですか? どんな仕事をするのか、わからないから、とりあえず、使えそうに見える人間を採用する…実際、使えるか、どうかは、わからないけど、使えそうに、見えない人間より、使えそうに、見える人間を採用するのが、基本でしょ? 竹下さん、見るからに頼りないから、面接で、使えない人間に見られるからですよ…」

 当麻が、説明した。

 「…使えない人間…」

 私は、グーの音も出なかった…

 二歳年下の当麻の説明に、反論できなかった…

 頼りないと言えば、実に頼りない…

 それは、否定できない…

 自分自身、生まれてこのかた、真っ当に生きているつもりだし、これまで他人様に迷惑をかけて生きてきたわけでもない…

 勉強だって、そこそこ出来たし、大学は、中堅校…

 それなりに、世間に知られている大学だ…
 
 ルックスも、そう…

 決して、周囲の人間が、振り返って見るほどの美人ではないが、そこそこの美人…

 クラスで、3番目クラスの美人だ…

 つまり、極めて、平凡…

 別段、他人様に劣っているわけでもなければ、優れているわけでもない…

 そんな私に、

 …頼りない…

 と、一言、言われて、会社の面接は、全滅…

 …全滅だ!…

 …世の中、何かが間違っている…

 ふいに、私の怒りが、そこに向かった…

 たった数回の面接で、なにがわかる?
 
 この竹下クミのなにが、わかると言うんだ?

 どうして、私が使えないと、わかるんだ?

 いつのまにか、怒りが、そこに向かった…

 ずばり、就活に向かった…

 はっきり、言って、気分が悪くなった…

 なんで、私が使えないって、わかるんだ?

 私は、いつのまにか、拳を固く握りしめて、怒りで、ブルブルと震えていた…

 いつのまにか、就活が全滅したことに、怒りが、集中した…

 稲葉五郎も、大場も関係なかった…

 高雄も関係なかった…

 就活が全滅したことに、怒りが集中した…

 …許せん!…

 …私の実力を見せてやる!…

 なぜか、いきなり、話が、そこに行った…

 …私の実力を見せてやる!…

 私は、ブルブルと怒りで、拳を全力で、握り締め、自分自身に誓った…

 同時にハタと気付いた…

 …実力を見せるって、一体なにを見せれば、いいんだ?…

 …英語が喋れれば、いいのか?…

 …中国語が喋れれば、いいのか?…

 …わからん…

 …さっぱり、わからん…

 私が、頭をひねって、悩んでいると、いきなり、目の前の店の扉がガラッと開いた…

 すぐに、

 「…あら…アンタ?…」

 という声が、目の前でした。

 その声で、目の前の人物を見た。

 女優の渡辺えりに似た、あの街中華の女将さんが、立っていた…

                

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