第33話
文字数 5,882文字
「…大あり?…」
私は、この店の女将さんの言葉に、絶句する。
それから、すぐに反射的に、女将さんに、
「…大ありって、どういう意味ですか?…」
と、聞いた。
女将さんは、誰が、どう見ても、強そうだが、怖くはない…
そこが、眼前のヤクザ界のスターとは、違う…
ちょうど、女優でいえば、渡辺えりのような人物…
実際、ここだけの話、怖くないといえば、ウソになるが、目の前のヤクザ界のスターに比べれば、はるかに、話しやすい…
そういうことだ(笑)…
「…死んだ、古賀会長は、任侠界の秀吉と言われた男だよ…」
「…任侠界の秀吉? どういう意味ですか?…」
私は、またも、女将さんに、聞いてしまった(苦笑)…
「…秀吉は、当然、あの豊臣秀吉さ…一代で、任侠界の大物になった伝説の侠客さ…」
女将さんは説明する。
「…そして、その娘は、秀吉の息子、秀頼に匹敵する…」
「…秀頼?…」
「…秀頼が、秀吉の財産と威光を受け継いだように、その娘には、死んだ古賀会長の財産と、山田会の神輿(みこし)としての威光がある…」
「…神輿(みこし)ですか?…」
「…はっきり言えば、次の山田会の会長を決めるのに、死んだ古賀会長の威光なんて、ないに等しい…ヤクザ社会は、基本的に、実力社会だからね…あの山口組の田岡組長の奥さんが、力を持っていたのは、山口組の重鎮と言われた大物も、若い頃は、奥さんに世話になっていて、頭が上がらなかったからさ…だから、死んだ古賀会長の探していた娘さんが、姿を現しても、直接の影響力はない…」
「…」
「…でも、ちょうど、田岡組長の息子さんや娘さんが、誰々を毛嫌いしていると、噂でも上がったら、困るように、この五郎は、手を打っているんだろ…」
女将さんが、ヤクザ界のスターの思惑を喝破する。
女将さんの言葉に、ヤクザ界のスターは、困ったような顔を見せた。
「…仮に、お嬢さんが、古賀会長の探していた娘さんであろうとなかろうと、娘さんに、山田会の次期会長を選ぶ力など、あるわけがないさ…でも、少しでも自分の有利になるように、この五郎は動いているんだろ…ちょうど、秀吉が、信長の死後、信長の孫の三法師を抱いて、信長の後継者を決める清州会議に現れたのと、同じさ…3歳の三法師を抱いた秀吉に、家臣は皆、頭を下げるしかない…必然的に、三法師に頭を下げることで、三法師を抱いた、秀吉に頭を下げることになった…それと同じ効果を狙ってるんだろ…」
私は、女将さんの理路整然とした説明に、納得した…
たしかに、死んだ古賀会長の探していた娘さんが、現れたとしても、次の山田会の会長を決める人事に、二十歳ぐらいの小娘の威光など、あるはずがない(笑)…
歴史を見れば、二十歳そこそこの武将が、家臣を束ねたような記述を見ることがあるが、当然眉唾ものだ(笑)…
実際は、いつの時代も、二十歳そこそこの若造が、実権を握っていることなど、普通はありえない…
老練で、キャリアを積んだ家臣の意向を汲んで、その通りに動いてるのが、実際のところだろう…
これは、今も昔も変わらない…
ただ、私が気になったのは、死んだ古賀会長が、探していた娘さんに、
「…秀頼が、秀吉の財産と威光を受け継いだように、その娘には、死んだ古賀会長の財産と、山田会の神輿(みこし)としての威光がある…」
と、女将さんが言ったことだ…
これが、本当とすると、実は、古賀会長の探していた娘さんの威光よりも、その娘が受け継ぐかもしれない財産に、この目の前のヤクザ界のスターは、興味があるのかもしれない…
いや、目の前の稲葉一家の組長だけでなく、あの高雄組長も同じ…
高雄の父親も同じだ…
当然、二人はライバル…
山田会の次期会長の座を巡るライバルだからだ…
女将さんの言葉で、ようやく謎が解けた…
これまで、この平凡な竹下クミになぜ、さまざま人間が接触してきたのか、ようやく、その謎が解けた…
女将さんには、感謝してもしきれない…
私は、女将さんを見ながら、考えた。
しかしながら、さすがに、その女将さんにも、このヤクザ界のスターや、高雄の父の真の狙いが、死んだ古賀会長が、探していた娘にやる財産なのでは? と、聞けなかった…
さすがに、それは、まずい(笑)…
できない(笑)…
なにしろ、目の前に、その財産を狙っているかもしれない、ヤクザ界のスターがいるのだ…
いくらなんでも、私は、そこまでのチャレンジャーではない…
身の程知らずではない…
私は、思った…
「…私は、探していた娘さんではありません…」
もう何度目になるか、わからないが、否定した。
「…ですから、誤解です…きっと、稲葉さんも、高雄さんも、誤解しているんです…」
私は、つい口に出した。
それが、いけなかった…
「…高雄?…」
と、目の前のいかつい、ガタイをした大柄なヤクザ界のスターが絶句した。
高雄の父親は、この稲葉一家の組長のライバル…
山田会の古賀会長の跡目を巡るライバルだ…
当たり前だが、高雄の名前を出して、いい顔をするわけがない…
私は、そんな当たり前のことを忘れていた…
私は、恐怖した。
この稲葉一家の組長が、どういう態度に出るか、わからないからだ…
が、それを助けたのは、意外にも、同席する大場だった…
「…高雄さんが、今のオジサンと同じように、この竹下さんに手を出しているの…」
大場があっさりと言う。
「…高雄総業のフロント企業である、杉崎実業の内定式に、この竹下さんを選んで、竹下さんを手に入れようとしているの…」
「…兄貴が?…」
目の前のヤクザ界のスターが、絶句する。
だが、以外と言うか、その表情には、高雄の父親を毛嫌いしている様子は、微塵も感じられなかった…
「…相変わらず、やることが早い…」
そう言って、ため息を漏らした。
「…兄貴は昔から、抜け目がないというか、利にさといというか…オレのように、ただケンカが強いだけの男じゃない…」
眼前のヤクザ界のスターが呟く。
「…むろん、一対一のケンカなら、兄貴には、負けない…でも、こんなふうに…うまく立ち回るというか…すぐにお嬢を手に入れようとするなんて、オレには、ムリ…できない…」
そう言って、眼前のヤクザ界のスターは落ち込んだ…
たしかに、目の前のヤクザ界のスターの言うことは、わかる…
ウソではないに違いない…
高雄の父は、ヤクザ界のスター同様、背が高いが、決して、いかついガタイではない…
むしろ、すらりとして、カッコイイ…
だから、このヤクザ界のスターが言うように、一対一のケンカならば、ヤクザ界のスターの方が強いに違いない…
私は、思った…
「…五郎は、昔からケンカは強いけど、頭の方は、からっぽだからね…」
それを近くで聞いていた女将さんが、口を出した。
「…からっぽとは、ひでえな…」
「…からっぽは、からっぽだろ…だから、アンタんとこの若い衆も、アンタに憧れて、ケンカは強いが、頭の中はからっぽな人間ばかり…そんなんじゃ、いいように利用されて、捨てられるよ…」
…いいように利用にされて、捨てられる?…
女将さん、すごいことを言う…
私は、唖然とした…
「…昔は、高雄さんとは、仲が良く、それこそ本当の兄弟のような関係だったんだ…それを、少しばかりケンカが強いからって、ヤクザ界のスターなんて、周囲に持ち上げられて、本人も天狗になってんだから、世話がないよ…」
…天狗?…
…この女将さん…凄いことを言う…
…まさか、ここまでのことを言うとは?…
が、さすがに、この言葉に堪忍袋の緒が切れたのだろう…
ヤクザ界のスターが、
「…天狗になんて、なってねえよ…」
と、女将さんに反論した。
「…本人がそう思ってるだけだろ?…」
女将さんも、ヤクザ界のスターの反論を意にも介さない…
私は、驚いた…
さすがに、ヤクザ界のスターの我慢にも限界があると思ったからだ…
なにより、面子がある…
私は、どうなるかと思って、固唾を飲んで、成り行きを見守った…
が、以外と言うか、
「…イマドキ、このオレにそんなことを言うのは、オバサンぐらいのものだ…」
と、しんみりと、呟いた。
「…オバサンじゃない、お姉さんだとさっきも言っただろ…」
女将さんが、返す…
私は、なんだかんだ言いながら、この二人は、互いに信頼しあってると、思った…
だから、相手がなにを言っても、気にしない…
動じない…
互いに信頼しているからこそ、本音で、言える…
上っ面だけの薄っぺらい関係ではない…
私は、思った…
「…いいかい、五郎…ヤクザ界のスターなんて、持ち上げられて、調子に乗ってんじゃないよ…もう50にもなるんだ…アンタについてくる若い衆もいっぱいいるんだ…くれぐれも軽挙妄動は慎むんだよ…アンタが下手を打てば、路用に迷う人間もいっぱいいるんだ…」
女将さんの言葉に、ヤクザ界のスターはなにも言わなかった…
ただ、ジッと、テーブルを見ていた…
下を向いて、テーブルを見続けた…
それから、ボソッと、
「…わかってるよ…」
と、小さく呟いた。
「…オレだって、自分についてくる人間は、嬉しい…少しでも、アイツらの役に立ってやりたい…その気持ちは、いつも持ってるつもりだ…」
「…それなら、ヤクザ界のスターだなんて、言ってないで、少しは、己の分をわきまえて、生きな…五郎…オマエは、戦闘隊長だ…ケンカは強いし、誰にも負けないかもしれないが、戦闘隊長じゃ、組は仕切れないよ…組を仕切るのは、政治が出来るヤツ…」
「…政治?…」
思わず、私は、素っ頓狂な声を上げた。
自分でも、しまったと、思ったが、つい、口に出してしまった…
「…政治っていうのは、お嬢ちゃん…政治家だけが、やるものじゃないんだよ…」
女将さんが、私の方を向いて、私に諭すように言った…
「…人が集まれば、政治が必要になる…会社でも、ヤクザでも、同じさ…集団をうまくまとめる能力が必要になる…そして、この五郎は、昔からケンカが強くて、自分に立ち向かってくる相手を叩き潰して、のし上がってきた…そんな五郎に憧れて、子分になった人間も多い…五郎は面倒見もいいから、そこそこ、山田会でも、重要な地位を占めた…だが、それ以上は、難しい…」
「…どうしてですか?…」
「…五郎に政治はできないからさ…政治っていうのは、はっきり言えば、大勢の集団の中で、うまく立ち回ることさ…会社でも、ヤクザでも、例えば、それほどの実績がなくても、取締役とか、上の地位についてる人間がいるだろ…たいした実績がなくても、上の地位に就く人間は、機を見るに敏だったり、有力者にうまく取り入ったりして、その地位を得てる…この五郎は、馬鹿正直で、そんなことはからきしダメだ…だから、仮に、今以上の地位を得ても、周りに使われて、利用されるのが、オチさ…アタシは、それを心配してるんだ…」
…なるほど、そういうことか…
私は、女将さんが、眼前のヤクザ界のスターの身を本気で、心配してるのが、わかった…
たしかに、この稲葉五郎と言う男は、私の父親と比べれば、いくつか若いが、外見は、いかついが、見るからに不器用そうだ…
猪突猛進というか、失礼ながら、ケンカが合っている…
戦争で言えば、自分が、指揮を執りながら、自らも先頭に立って、闘うタイプだ…
自ら、先頭に立つことで、周囲の信頼は得られるが、それは、戦場での評価…
場所が、会社であったり、組であったりすれば、戦闘をしているわけではないからだ…
要するに、政治だ…
会社でも、ヤクザ組織でも、誰々が今どうしているとかいう社内情報に妙に詳しい輩が、どこの会社(ヤクザ組織)にもいる…
そして、その情報を得て、いかに、うまく組織の中で、立ち回るか、常に考えてる…
この稲葉五郎とて、当然、バカではないから、歳を取れば、嫌でも、そのあたりのことが、わかってくる…
が、
わかってくるのと、できるのは、違う…
つまり政治の才能があるか否かという問題になる…
誰でも、そのあたりのことが、歳を取ってわかってくれば、自ずから、自分もそう動こうと考えるが、それが、できる人間と、できない人間がいる…
それが、才能の有無に他ならない…
いかに、ケンカに強くても、戦争がなければ、無用の長物…
集団の中で、己の存在を誇示できない…
ただし、ケンカが強ければ、その存在を無下にもできない…
なにか、抗争が起きたとき、必要な人材だからだ…
余人に代えがたい人材だからだ…
だから、おそらく、山田会という組織は、簡単に、この稲葉五郎を切れない…
私は、そう見た…
私は、そう考えた…
そのときだった…
「…でも、オジサンも、政治をしようとしているんだよね…」
と、突然、誰かが言った。
それは、私でもない…
女将さんでもない…
大場だった…
私は、ビックリした…
今の今まで、黙っていた大場が、口を出したのに、驚いたのだ…
そして、またも、私は、
「…政治って、どういう…」
と、口に出して、しまった…
相手が、大場だから、聞きやすかった…
本当は、大場は苦手だったが、目の前のヤクザ界のスターや、この店の女将さんに比べれば、はるかに聞きやすかった…
そういうことだ(笑)…
「…それは、竹下さん…アナタ…」
大場が意外にも私を名指しした…
「…わ…私? …どういうこと?…」
私の質問に、大場がニヤリとした。
「…死んだ古賀会長の探していた娘を味方につけて、山田会の次期会長の座を狙う…これが、政治じゃなくて、なんなの?…」
大場が、断言した…
私は、この店の女将さんの言葉に、絶句する。
それから、すぐに反射的に、女将さんに、
「…大ありって、どういう意味ですか?…」
と、聞いた。
女将さんは、誰が、どう見ても、強そうだが、怖くはない…
そこが、眼前のヤクザ界のスターとは、違う…
ちょうど、女優でいえば、渡辺えりのような人物…
実際、ここだけの話、怖くないといえば、ウソになるが、目の前のヤクザ界のスターに比べれば、はるかに、話しやすい…
そういうことだ(笑)…
「…死んだ、古賀会長は、任侠界の秀吉と言われた男だよ…」
「…任侠界の秀吉? どういう意味ですか?…」
私は、またも、女将さんに、聞いてしまった(苦笑)…
「…秀吉は、当然、あの豊臣秀吉さ…一代で、任侠界の大物になった伝説の侠客さ…」
女将さんは説明する。
「…そして、その娘は、秀吉の息子、秀頼に匹敵する…」
「…秀頼?…」
「…秀頼が、秀吉の財産と威光を受け継いだように、その娘には、死んだ古賀会長の財産と、山田会の神輿(みこし)としての威光がある…」
「…神輿(みこし)ですか?…」
「…はっきり言えば、次の山田会の会長を決めるのに、死んだ古賀会長の威光なんて、ないに等しい…ヤクザ社会は、基本的に、実力社会だからね…あの山口組の田岡組長の奥さんが、力を持っていたのは、山口組の重鎮と言われた大物も、若い頃は、奥さんに世話になっていて、頭が上がらなかったからさ…だから、死んだ古賀会長の探していた娘さんが、姿を現しても、直接の影響力はない…」
「…」
「…でも、ちょうど、田岡組長の息子さんや娘さんが、誰々を毛嫌いしていると、噂でも上がったら、困るように、この五郎は、手を打っているんだろ…」
女将さんが、ヤクザ界のスターの思惑を喝破する。
女将さんの言葉に、ヤクザ界のスターは、困ったような顔を見せた。
「…仮に、お嬢さんが、古賀会長の探していた娘さんであろうとなかろうと、娘さんに、山田会の次期会長を選ぶ力など、あるわけがないさ…でも、少しでも自分の有利になるように、この五郎は動いているんだろ…ちょうど、秀吉が、信長の死後、信長の孫の三法師を抱いて、信長の後継者を決める清州会議に現れたのと、同じさ…3歳の三法師を抱いた秀吉に、家臣は皆、頭を下げるしかない…必然的に、三法師に頭を下げることで、三法師を抱いた、秀吉に頭を下げることになった…それと同じ効果を狙ってるんだろ…」
私は、女将さんの理路整然とした説明に、納得した…
たしかに、死んだ古賀会長の探していた娘さんが、現れたとしても、次の山田会の会長を決める人事に、二十歳ぐらいの小娘の威光など、あるはずがない(笑)…
歴史を見れば、二十歳そこそこの武将が、家臣を束ねたような記述を見ることがあるが、当然眉唾ものだ(笑)…
実際は、いつの時代も、二十歳そこそこの若造が、実権を握っていることなど、普通はありえない…
老練で、キャリアを積んだ家臣の意向を汲んで、その通りに動いてるのが、実際のところだろう…
これは、今も昔も変わらない…
ただ、私が気になったのは、死んだ古賀会長が、探していた娘さんに、
「…秀頼が、秀吉の財産と威光を受け継いだように、その娘には、死んだ古賀会長の財産と、山田会の神輿(みこし)としての威光がある…」
と、女将さんが言ったことだ…
これが、本当とすると、実は、古賀会長の探していた娘さんの威光よりも、その娘が受け継ぐかもしれない財産に、この目の前のヤクザ界のスターは、興味があるのかもしれない…
いや、目の前の稲葉一家の組長だけでなく、あの高雄組長も同じ…
高雄の父親も同じだ…
当然、二人はライバル…
山田会の次期会長の座を巡るライバルだからだ…
女将さんの言葉で、ようやく謎が解けた…
これまで、この平凡な竹下クミになぜ、さまざま人間が接触してきたのか、ようやく、その謎が解けた…
女将さんには、感謝してもしきれない…
私は、女将さんを見ながら、考えた。
しかしながら、さすがに、その女将さんにも、このヤクザ界のスターや、高雄の父の真の狙いが、死んだ古賀会長が、探していた娘にやる財産なのでは? と、聞けなかった…
さすがに、それは、まずい(笑)…
できない(笑)…
なにしろ、目の前に、その財産を狙っているかもしれない、ヤクザ界のスターがいるのだ…
いくらなんでも、私は、そこまでのチャレンジャーではない…
身の程知らずではない…
私は、思った…
「…私は、探していた娘さんではありません…」
もう何度目になるか、わからないが、否定した。
「…ですから、誤解です…きっと、稲葉さんも、高雄さんも、誤解しているんです…」
私は、つい口に出した。
それが、いけなかった…
「…高雄?…」
と、目の前のいかつい、ガタイをした大柄なヤクザ界のスターが絶句した。
高雄の父親は、この稲葉一家の組長のライバル…
山田会の古賀会長の跡目を巡るライバルだ…
当たり前だが、高雄の名前を出して、いい顔をするわけがない…
私は、そんな当たり前のことを忘れていた…
私は、恐怖した。
この稲葉一家の組長が、どういう態度に出るか、わからないからだ…
が、それを助けたのは、意外にも、同席する大場だった…
「…高雄さんが、今のオジサンと同じように、この竹下さんに手を出しているの…」
大場があっさりと言う。
「…高雄総業のフロント企業である、杉崎実業の内定式に、この竹下さんを選んで、竹下さんを手に入れようとしているの…」
「…兄貴が?…」
目の前のヤクザ界のスターが、絶句する。
だが、以外と言うか、その表情には、高雄の父親を毛嫌いしている様子は、微塵も感じられなかった…
「…相変わらず、やることが早い…」
そう言って、ため息を漏らした。
「…兄貴は昔から、抜け目がないというか、利にさといというか…オレのように、ただケンカが強いだけの男じゃない…」
眼前のヤクザ界のスターが呟く。
「…むろん、一対一のケンカなら、兄貴には、負けない…でも、こんなふうに…うまく立ち回るというか…すぐにお嬢を手に入れようとするなんて、オレには、ムリ…できない…」
そう言って、眼前のヤクザ界のスターは落ち込んだ…
たしかに、目の前のヤクザ界のスターの言うことは、わかる…
ウソではないに違いない…
高雄の父は、ヤクザ界のスター同様、背が高いが、決して、いかついガタイではない…
むしろ、すらりとして、カッコイイ…
だから、このヤクザ界のスターが言うように、一対一のケンカならば、ヤクザ界のスターの方が強いに違いない…
私は、思った…
「…五郎は、昔からケンカは強いけど、頭の方は、からっぽだからね…」
それを近くで聞いていた女将さんが、口を出した。
「…からっぽとは、ひでえな…」
「…からっぽは、からっぽだろ…だから、アンタんとこの若い衆も、アンタに憧れて、ケンカは強いが、頭の中はからっぽな人間ばかり…そんなんじゃ、いいように利用されて、捨てられるよ…」
…いいように利用にされて、捨てられる?…
女将さん、すごいことを言う…
私は、唖然とした…
「…昔は、高雄さんとは、仲が良く、それこそ本当の兄弟のような関係だったんだ…それを、少しばかりケンカが強いからって、ヤクザ界のスターなんて、周囲に持ち上げられて、本人も天狗になってんだから、世話がないよ…」
…天狗?…
…この女将さん…凄いことを言う…
…まさか、ここまでのことを言うとは?…
が、さすがに、この言葉に堪忍袋の緒が切れたのだろう…
ヤクザ界のスターが、
「…天狗になんて、なってねえよ…」
と、女将さんに反論した。
「…本人がそう思ってるだけだろ?…」
女将さんも、ヤクザ界のスターの反論を意にも介さない…
私は、驚いた…
さすがに、ヤクザ界のスターの我慢にも限界があると思ったからだ…
なにより、面子がある…
私は、どうなるかと思って、固唾を飲んで、成り行きを見守った…
が、以外と言うか、
「…イマドキ、このオレにそんなことを言うのは、オバサンぐらいのものだ…」
と、しんみりと、呟いた。
「…オバサンじゃない、お姉さんだとさっきも言っただろ…」
女将さんが、返す…
私は、なんだかんだ言いながら、この二人は、互いに信頼しあってると、思った…
だから、相手がなにを言っても、気にしない…
動じない…
互いに信頼しているからこそ、本音で、言える…
上っ面だけの薄っぺらい関係ではない…
私は、思った…
「…いいかい、五郎…ヤクザ界のスターなんて、持ち上げられて、調子に乗ってんじゃないよ…もう50にもなるんだ…アンタについてくる若い衆もいっぱいいるんだ…くれぐれも軽挙妄動は慎むんだよ…アンタが下手を打てば、路用に迷う人間もいっぱいいるんだ…」
女将さんの言葉に、ヤクザ界のスターはなにも言わなかった…
ただ、ジッと、テーブルを見ていた…
下を向いて、テーブルを見続けた…
それから、ボソッと、
「…わかってるよ…」
と、小さく呟いた。
「…オレだって、自分についてくる人間は、嬉しい…少しでも、アイツらの役に立ってやりたい…その気持ちは、いつも持ってるつもりだ…」
「…それなら、ヤクザ界のスターだなんて、言ってないで、少しは、己の分をわきまえて、生きな…五郎…オマエは、戦闘隊長だ…ケンカは強いし、誰にも負けないかもしれないが、戦闘隊長じゃ、組は仕切れないよ…組を仕切るのは、政治が出来るヤツ…」
「…政治?…」
思わず、私は、素っ頓狂な声を上げた。
自分でも、しまったと、思ったが、つい、口に出してしまった…
「…政治っていうのは、お嬢ちゃん…政治家だけが、やるものじゃないんだよ…」
女将さんが、私の方を向いて、私に諭すように言った…
「…人が集まれば、政治が必要になる…会社でも、ヤクザでも、同じさ…集団をうまくまとめる能力が必要になる…そして、この五郎は、昔からケンカが強くて、自分に立ち向かってくる相手を叩き潰して、のし上がってきた…そんな五郎に憧れて、子分になった人間も多い…五郎は面倒見もいいから、そこそこ、山田会でも、重要な地位を占めた…だが、それ以上は、難しい…」
「…どうしてですか?…」
「…五郎に政治はできないからさ…政治っていうのは、はっきり言えば、大勢の集団の中で、うまく立ち回ることさ…会社でも、ヤクザでも、例えば、それほどの実績がなくても、取締役とか、上の地位についてる人間がいるだろ…たいした実績がなくても、上の地位に就く人間は、機を見るに敏だったり、有力者にうまく取り入ったりして、その地位を得てる…この五郎は、馬鹿正直で、そんなことはからきしダメだ…だから、仮に、今以上の地位を得ても、周りに使われて、利用されるのが、オチさ…アタシは、それを心配してるんだ…」
…なるほど、そういうことか…
私は、女将さんが、眼前のヤクザ界のスターの身を本気で、心配してるのが、わかった…
たしかに、この稲葉五郎と言う男は、私の父親と比べれば、いくつか若いが、外見は、いかついが、見るからに不器用そうだ…
猪突猛進というか、失礼ながら、ケンカが合っている…
戦争で言えば、自分が、指揮を執りながら、自らも先頭に立って、闘うタイプだ…
自ら、先頭に立つことで、周囲の信頼は得られるが、それは、戦場での評価…
場所が、会社であったり、組であったりすれば、戦闘をしているわけではないからだ…
要するに、政治だ…
会社でも、ヤクザ組織でも、誰々が今どうしているとかいう社内情報に妙に詳しい輩が、どこの会社(ヤクザ組織)にもいる…
そして、その情報を得て、いかに、うまく組織の中で、立ち回るか、常に考えてる…
この稲葉五郎とて、当然、バカではないから、歳を取れば、嫌でも、そのあたりのことが、わかってくる…
が、
わかってくるのと、できるのは、違う…
つまり政治の才能があるか否かという問題になる…
誰でも、そのあたりのことが、歳を取ってわかってくれば、自ずから、自分もそう動こうと考えるが、それが、できる人間と、できない人間がいる…
それが、才能の有無に他ならない…
いかに、ケンカに強くても、戦争がなければ、無用の長物…
集団の中で、己の存在を誇示できない…
ただし、ケンカが強ければ、その存在を無下にもできない…
なにか、抗争が起きたとき、必要な人材だからだ…
余人に代えがたい人材だからだ…
だから、おそらく、山田会という組織は、簡単に、この稲葉五郎を切れない…
私は、そう見た…
私は、そう考えた…
そのときだった…
「…でも、オジサンも、政治をしようとしているんだよね…」
と、突然、誰かが言った。
それは、私でもない…
女将さんでもない…
大場だった…
私は、ビックリした…
今の今まで、黙っていた大場が、口を出したのに、驚いたのだ…
そして、またも、私は、
「…政治って、どういう…」
と、口に出して、しまった…
相手が、大場だから、聞きやすかった…
本当は、大場は苦手だったが、目の前のヤクザ界のスターや、この店の女将さんに比べれば、はるかに聞きやすかった…
そういうことだ(笑)…
「…それは、竹下さん…アナタ…」
大場が意外にも私を名指しした…
「…わ…私? …どういうこと?…」
私の質問に、大場がニヤリとした。
「…死んだ古賀会長の探していた娘を味方につけて、山田会の次期会長の座を狙う…これが、政治じゃなくて、なんなの?…」
大場が、断言した…