第116話

文字数 5,388文字

 …間違いの始まり?…

 …凄いことを言う…

 私は、思った…

 自分の人生を否定することを、簡単に口にする…

 私は、驚いた…

 「…なにが、間違いの始まりなんだい?…」

 女将さんが、聞いた…

 「…適性だよ…」

 「…適性?…」

 「…オレは、自分で言うのも、なんだが、ヤクザがはまり過ぎた…適性があり過ぎた…」

 稲葉五郎が、薄ら笑いを浮かべながら、告白する…

 「…自分で言うのも、おかしいが、オレに上昇志向はなかった…ただ、言われたことをやるだけ…ただ、それだけだった…だが、それに、気付いた古賀のオヤジは、オレに罠を仕掛けた…」

 「…罠?…」

 「…オバサンが、さっき言った製薬会社のMRさ…精子の提供を求められて、金のなかったオレは、その話に乗ったが、それには、裏があった…」

 「…裏?…」

 「…その製薬会社のMRを陰で、古賀のオヤジが、オレに精子を提供させろって、脅したんだ…」

 「…どうして、そんなことを?…」

 「…オレの弱みを握りたかったのさ…オレは、若い頃から、一人…特定の女も決して作らなかった…だが、それが、古賀のオヤジは気に入らなかった…あのひとは、執念深く、猜疑心が強い…自分の子分たちの弱みを握ってないと、安心できないタイプなんだ…いつ寝首をかかれるか、わからない…そんな恐怖心が、山田会の勢力拡大の原動力だった…組が大きくなれば、なるほど、安心できる…そんな男だった…このオバサンが言ったように、中国からの引き揚げ体験が、強烈に根底にあるんだろう…とにかく、強くなければ、ならない…ひとは、容易に裏切る…だから、裏切れないように、事前に相手の弱点を掴む…そうすれば、誰も裏切れないからだ…製薬会社のMRを脅して、オレに精子を提供させたのも、そういう理屈だ…オレに子供を外に作らせ、いざというときに、オレが、歯向かえば、オマエの子供がどうなるかわかってるな? と、脅すことができるからだ…」

 「…ひどい…」

 大場が声を上げた…

 「…ひどい…たしかに、あっちゃんの言う通りだ…だが、ヤクザは、誰も似たようなもんだ…任侠映画には、ほど遠い…騙し合いの世界だ…」

 稲葉五郎が、薄ら笑いを浮かべながら、言う…

 「…そして、このオレも、その世界の住人だ…」

 稲葉五郎が、言う。

 しかし、それは、哀しい声音だった…

 心底、哀しそうだった…

 「…竹下さんが、稲葉のオジサンの娘だっていうのは、ホント?…」

 大場が核心を突いた…

 が、

 その言葉は、予想外のものだった…

 「…わからない…」

 そう、呟いた…

 「…わからないって?…」

 「…正直、確信がない…このお嬢が、オレの娘か、なんて、ホントはわからない…むしろ、さっき、このオバサンが、言ったように、DNA検査を受けたいぐらいだ…」

 稲葉五郎が穏やかに言った…

 私は、それが、稲葉五郎の偽らざる本心だと思った…

 普通の家庭ならば、生まれたときから、いっしょにいる…

 だが、精子を提供しただけの関係ならば、本当に、自分の娘かどうか、確信が持てないに違いない…

 初めて会ったのだ…

 私が、稲葉五郎の母親や、姉や妹に似ていれば、確信が持てるかもしれないが、それもないのだろう…

 私は、思った…

 思いながら、私は、自分が思いのほか、冷静でいることが、不思議だった…

 やはり、実感がない…

 それが、稲葉五郎同様、私の正直な気持ちだった…

 私の父や母を問い詰めれば、あるいは、実感が湧くのかもしれない…

 いや、

 たとえ、父や母が認めても、実感が湧かないのかもしれない…

 DNA鑑定で、稲葉五郎と、血の繋がった父子と、認定されても、実感が湧くか、どうか、わからない…

 あまりにも、非現実的だからだ…

 これまで、経験したことのない出来事だから、我ながら、どうなるか、わからない…

 自分の心の動きが、我ながら、どうなるか、わからない…

 そういうことだ…

 私は、思った…

 稲葉五郎は、

 「…」

 と、沈黙した…

 話すことがなかったのかもしれない…

 それは、私も同じだった…

 いや、

 残りの二人、

 女将さんと、大場も同じだった…

 私は、思った…

 が、

 そうではなかった…

 「…へぇー、そういうことだったんだ…」

 いきなり、大場が言った…

 なにか、大場が、いつもと、違った…

 そんな感じがした…

 「…オジサンは、そうして、高雄…高雄悠(ゆう)さんとも、繋がっていたんだ…」

 稲葉五郎が、少し、驚いた様子だった…

 「…そうだよ…あっちゃん…」

 大場の言葉に応じたが、少し、戸惑っている様子が、ありありだった…

 「…じゃ、高雄さんは…高雄悠(ゆう)さんは、父親の高雄組組長を助けたかったから、オジサンに協力したんだ…」

 「…そうだよ…」

 大場が、稲葉五郎の言葉に、突然、

 「…ウソ!…」

 と、強く、否定した…

 「…ウソ? なにが、ウソなんだ?…」

 「…オジサンは、ウソを言ってる…」

 「…なにが、ウソなんだ?…」

 「…高雄さんの目的? オジサンは、気付いていないの?…」

 「…悠(ゆう)の目的? 高雄のアニキを助けるためじゃないのか?…」

 「…違う…」

 「…違う?…」

 「…高雄…高雄悠(ゆう)さんの目的は、あの高雄組を乗っ取ることよ…」

 「…高雄組を乗っ取るって? バカな…悠(ゆう)は、ヤクザでも、なんでもないじゃないか…」

 「…だからよ…」

 「…どういうことだ?…」

 「…あのひとは、いずれは、高雄組の資産を自分のものにしたかった…あのひとは、本当は、誰よりも貪欲で、がめつくて…それを見抜いたのが、古賀さんだった…」

 「…古賀のオヤジが?…」

 「…高雄さんも、稲葉のオジサンと同じく、古賀さんの側近だった…だから、高雄さんも、子供の悠(ゆう)さんを、よく古賀さんの元へ、連れて行った…そして、悠(ゆう)さんに、接するうちに、古賀さんは、悠(ゆう)さんの本質を見抜いた…」

 「…どういうことだ?…」

 「…冷酷非情といえば、おおげさだけど、なまじ頭が良かったばかりに、自分の才能を過信してるっていうか…本当は、誰よりも、わがままで、自信家の素顔を見抜いた…」

 「…」

 「…そして、古賀さんは、それを利用しようとした…」

 「…どういうことだ?…」

 「…稲葉のオジサンにとって、竹下さんが、血の繋がった娘というウイークポイントのように、高雄組組長にとってのウイークポイントが、悠(ゆう)さんだった…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…さっき、オジサンが、言ったのと、同じ…」

 「…同じ?…」

 「…利用できると、思ったのよ…高雄悠(ゆう)というひとを…」

 「…」

 「…なまじ、他人様よりも、頭がいい…だから、自信がある…でも、まだ、子供だから世間を知らない…稲葉のオジサンにとっての、弱点が、竹下さんなら、高雄さんにとっての弱点が、悠(ゆう)さんだった…ヤクザに未来がないことを、悠(ゆう)さんに吹聴したのも、古賀さん…まだ、右も左もわからない悠(ゆう)さんに、ヤクザじゃ飯が食えないから、将来は、ゴッドファーザーのように、堅気を目指せばいいと教えたのも、古賀さん…」

 「…古賀のオヤジが?…」
 
 「…悠(ゆう)さんの野心を利用できると、思ったのよ…事実、悠(ゆう)さんは、古賀さんの路線とぃうか、それを現実化しようと、目論んだ…その延長に、杉崎実業の買収があった…杉崎実業の買収には、当然、高雄悠(ゆう)さんも、関わっている…」

 「…悠(ゆう)が?…」

 「…そして、悠(ゆう)さんの背後には、古賀さんがいた…」

 「…古賀のオヤジが? だって、オヤジはボケが始まって…」

 「…古賀さんは、いつもボケていたわけじゃないよ…」

 女将さんが、口を挟んだ…

 「…どういうことだ?…」

 「…まだらボケさ…」

 「…まだらボケ…そりゃ、なんだ?…」

 「…古賀さんは、いつもボケてるわけじゃない…ボケているときもあれば、普通のときもあった…要するに、五郎…アンタは、古賀さんの演技に騙されたのさ…」

 「…騙された?…」

 「…アンタが、若い頃に、自分が精子を提供して、できた子供を探すのに、古賀さんが、若い頃にできた娘の子供とか、なんとか、こじつけて、探した…でも、古賀さんは、オマエのウソに気付いていた…」

 「…だったら、オヤジは、なんで、オレを叱らなかったんだ?…」

 「…時勢だよ…」

 「…時勢?…」

 「…山田会は、もはや古賀さんの時代じゃない…だから、わかっていても、知らないフリをしていたのさ…五郎、オマエと、ガチンコで、ケンカしたら、山田会の大半が、オマエになびくことに、気付いていたのさ…」

 「…」

 「…それに、くさびは打ち込んでいた…」

 「…くさび?…」

 「…悠(ゆう)だよ…さっき、あっちゃんも言っただろ…悠(ゆう)をそそのかして、くさびを打ち込んだ…自分の立場が危うくなれば、高雄さんを盾に、五郎…オマエと戦うつもりだった…高雄さんを、経済ヤクザに仕立てのも、それが、理由さ…」

 「…」

 「…古賀さんは、最後まで、抜け目なかった…最後まで、安心できないひとだった…だから、同じ山田会でも権謀術数を用いて、なんとしても、自分の立場が危うくならないように、仕掛けた…おそらく、死ぬまで、幼少期の、満州からの引き揚げ体験に、縛られていたんだろう…その恐怖で、女も抱けず、他人を信用できなかった…だから、五郎が言うように、子分といえども、弱点を見つけて、いざとなれば、それを元に、相手を脅そうと考えていた…思えば、可哀そうな人生さ…」

 町中華の女将さんの言葉に誰もが、絶句した…

 「…」

 と、言葉もなかった…

 「…可哀そう…」

 大場が、一言、漏らした…

 「…子供時代の凄惨な体験に一生縛られるなんて…」

 「…誰も、同じさ…」

 女将さんが、口を開いた…

 「…同じ?…」

 「…アタシが、この中華店を開いたのも、同じさ…爺さん、婆さんが、満州の開拓団に行ったとき、中華料理のおいしさに、魅せられて、日本に戻ってきたときに、アタシの母親によく作ってくれたんだ…そして、母親は、アタシに作ってくれた…アタシは、それが、高じて、この店を出した…つまりは、この店の原点は、爺さん、婆さんの満州の経験さ…」

 女将さんが、言う…

 「…その経験がなければ、この店をやっちゃいないよ…」

 私も、その意見に賛成した…

 どうしても、子供時代の経験は大きい…

 一生を縛るかどうかは、わからないが、忘れることができない…

 例えば、私は、犬が苦手だ…

 どうして、苦手なのかと聞かれれば、子供の頃、犬に追いかけられた経験が、トラウマになってるからだ…

 今になって、考えれば、下手に逃げたから、追っかけられたのだが、当時は、子供だから、わからなかった…

 逃げるから、追いかけられる…

 逃げるから、追いかけられる?

 変だ!

 私は、思った…

 今、稲葉五郎は、私と、大場、町中華の女将さんの三人でいる…

 だが、なぜ、大場が、ここにいるんだ?

 どうして、大場は、私をここへ、連れてきたんだ?

 今さらながら、思った…

 今さらながら、気付いた…

 なぜなら、大場は、父親の大場小太郎が、今、絶頂期…

 間違いなく、次期首相になる…

 その娘が、日本で、二番目に大きな暴力団の組長と、今、いっしょにいる…

 これが、週刊誌にでも、撮られれば、格好の餌食…

 下手をすれば、父親の次期首相の目は、完全に消える…

 だから、例えば、稲葉五郎に誘われれば、逃げる…

 どんなことがあっても、断る…

 それは、父親の大場代議士だけでなく、娘のあっちゃんも同じはずだ…

 だが、今、現実は、逃げるどころか、稲葉五郎といっしにいる…

 まもなく、日本で二番目に大きな暴力団のトップとなる大物ヤクザといっしょにいる…

 これは、一体、どういうことだ?

 考える…

 いや、

 そもそも、私、竹下クミを、この場に連れてくるときに、大場は、怯えたような表情を見せていた…

 明らかに、緊張していた…

 それを思い出していた…

 いや、

 それを言えば、そもそも、どうして、大場は、私をここへ連れてきたのだろう?

 町中華の女将さんと結託して、呼び出したに決まっている…

 ということは、どうだ?

 ここで、なにが、行われるか? 

 事前に知っていた可能性が高い…

 つまりは、私を、稲葉五郎に引き合わせ、血の繋がった父子と、暴露することを知っていた可能性が高い…

 あるいは、知っていなくても、私が、必要だから、呼び出したに決まっている…

 では、誰が、大場敦子にそれを命じたのか?

 普通に考えれば、父親の大場小太郎に決まっている…

 ということは、どうだ?

 もしかしたら、大場小太郎は、稲葉五郎の弱点を掴んだと言うことだ…

 だから、安心して、娘の敦子を、この場に送り込んだ?

 いや、

 違う…

 どういう理由があろうと、自分の娘が、大物ヤクザと、会って、それを写真に撮られでもしたら、大変だ…

 一体、なぜ?

 その理由は、わからないが、例え、週刊誌に写真を撮られても、平気?

 あるいは、

 写真を撮られる危険を冒しても、この場に娘を派遣しなければならない…

 その、いずれかだ…

 その、どっちかだ…

 私は、考える…

 そのときだった…

 なんだか、外が騒がしくなってきた…

                

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