第55話
文字数 5,819文字
「…わかりました…」
私は、目の前の若い衆に、言った…
「…事務所に行きます…」
私は、続ける。
私の返答に、目の前の若い衆が、ホッとするのが、見て取れた…
大きく安堵する姿が、わかった…
と、同時に、今さらながら、この若い衆が、善人であることがわかった…
自分の感情を、素直に表している…
ちょっと癖のある人間や、得体の知れない人間というと、言い過ぎだが、その手の人間は、決して、素直に自分の感情を表に出さない…
表に出すことで、容易く、自分の感情を他人に読み取られるからだ…
容易に、自分の感情…なにを考えているか、他人に知られることを、恐れるというか…
要するに、腹黒い(笑)…
だが、目の前の若い衆は、違う…
そして、気付いた…
あの稲葉五郎もまた、おそらく、善人とまでは、言わないが、腹黒くはないのでは? と、考えた…
要するに、仲間というか…
自分が、どんな人間と付き合っているか?…
あるいは、自分がどんな人間に囲まれているかで、その人の人間性がわかる…
性格が悪い人間は、皆、性格が悪い人間が、集まっている…
単純に気が合うからだ(笑)…
その逆もしかり…
いわゆる、性格のいい人間は、性格のいい人間同士集まる…
つまり、付き合う人間を知ることで、その人の人間性がわかる…
どんな人間か、わかる…
そして、なにより、この若い衆は、稲葉一家の組員…
普通に、考えれば、稲葉五郎が、面接をしたに決まっている…
あるいは、面接までしなくても、自分の近くに置いている以上、稲葉五郎が気に入っているとまでは言わずとも、嫌いではないに違いない…
誰もが、自分の好かない人間を、近くに置くことは、ありえない…
まして、稲葉五郎は、稲葉一家の組長…
当然、自分の組だから、ひとの人選もできるだろう…
つまり、会社に例えれば、社長だ(笑)…
だから、人選は自分の思い通りに違いない…
と、そこまで、考えて、再び、今さらながら、稲葉五郎は、そんなに悪い人間では、ないのではないか? と、考えた…
とすれば、当然のことながら、周囲にそれほど、悪いヤツはいない…
つまり、これから訪れる稲葉一家の事務所にも、悪い人間は、いないはずだ…
そう思いさえすれば、これは、好都合…
無意識というと、言い過ぎだが、これから、稲葉五郎の稲葉一家の事務所に、行くに当たって、プラスというか…
とにかく、稲葉五郎をいい人間と、思わないと、怖くて、ヤクザ事務所などに、行けなかった…
なにしろ、ヤクザの事務所だ…
稲葉五郎や、目の前の若い衆を、善人と思わなければ、とても、怖くて、中に入れない…
そういうことだ(笑)…
「…お嬢…足元に気を付けて下さい…」
私が、そんなことを、無意識に考えていると、すでに稲葉一家がテナントとして入るビルの中の階段を歩いている私を、先導する若い衆が、心配するように、私に声をかけた…
「…このビルは、見た目よりも、階段が、急です…だから、足元に気を付けて、下さい…」
すでに、私の前を歩く、若い衆が、私を振り返って、私に注意を呼び掛ける…
私は、その若い衆の顔を見上げながら、
「…大丈夫です…」
と、返答した矢先に、階段に足をぶつけた…
「…痛ーい!…」
思わず、呟いた…
「…ほら、言わんこっちゃない…」
若い衆が、呟く。
…バカ!…
…ホントは、アンタが、わざわざ私を振り返って、
「…気を付けて下さい…」
なんて、言うから、アンタの顔を見上げることになって、うっかり、階段に足をぶつけたんだ…
ホントは、足をぶつけたのは、アンタのせいだ!
と、絶叫したいとまでは言わないが、普通に言いたくなったが、さすがに、それはできない…
なにしろ、私の身を心配して、言ってくれているのだ…
自分の身を心配してくれているのに、その人間の悪口は言えない…
当たり前のことだ…
「…大丈夫ですか? …お嬢…」
若い衆が、私を振り返って、心配そうに、声をかける。
私は、全然大丈夫じゃなかったけど、
「…大丈夫です…たいしたことじゃありません…このぐらいへっちゃらです…」
と、笑顔で、返した…
ホントは、泣きたいとまでは、言わないが、
「…痛―い…痛―い…」
と、周囲を駆け回りたいぐらい、痛かった…
事実、自分の家でなら、その通りにして、家の中を走り回っただろう…
私は、思った…
しかし、なぜ、階段なのだろう?
ふと、気付いた。
当然のことながら、このビルにも、エレベーターはついている…
それを使用すれば、いいのではないか?
どうして、使わないのだろう?
まさか、壊れているわけじゃあるまい?
私は、その疑問を口にした。
「…あの…どうして、エレベーターを使わないんですか?…」
私の質問に、若い衆は、面食らったようだ…
「…どうしてもって言われても…」
若い衆は、もごもごと、口ごもる…
「…実は、これは、組長の命令なんです…」
「…稲葉さんの…」
「…ハイ…今、自分と、大場代議士の関係が、世間に、取り沙汰されてる…だから、くれぐれも、目立った真似はするな…エレベーターも、使うな…このビルに入った他のテナントの方に迷惑になると…」
「…迷惑?…」
「…いっしょにエレベーターに乗って、嫌な思いでもされたら、困る…だから、誰にも顔を会わさないように、階段を使えって…」
「…」
私は、若い衆のあまりにも、予想外の言葉に面食らった…
まさか、ヤクザが、そこまで、周囲に気を使うとは、思わなかったからだ…
「…どうして、稲葉さんは、そんなに、周囲に気を使うんですか?…」
思わず、口にした。
いや、
出てしまった…
「…オヤジの口癖なんです…」
「…どんな口癖ですか?…」
「…ヤクザは、周囲のひとたちと、うまくやらなければ、生きれない…」
「…」
私は、唖然とした…
文字通り、唖然として、ポカンと、口を開いたままになった…
自分でも、間抜けな顔になったのが、わかった…
「…笑っちゃいますよね?…」
私の唖然とした顔が、面白かったのかもしれない…
わざと、私を和ませるように、言った…
「…オレも、最初は、冗談かと思いましたよ…だって、ヤクザですよ…それにオヤジは、あの通り、人一倍ゴツイ顔をしている…でも、口に出す言葉は、いつも謙虚というか…あのオヤジが、調子に乗ってるのを、一度も見たことがないです…」
若い衆が、楽しそうに言う。
「…こう言っちゃなんですが、変な人ですよ…」
と、付け加えた…
が、その言葉とは裏腹に、妙に楽しそうだった…
この若い衆が、心の底から、稲葉五郎を信頼しているのが、わかった…
私が、そう考えていると、
「…つまらないことを言って、スイマセン…」
と、若い衆が詫びた…
「…いえ…」
私が返す。
「…さあ、歩きましょう…事務所は、もうすぐです…」
若い衆は言った…
私は、その若い衆の背中を見ながら、後を追った…
「…ここです…」
若い衆が、ビルのテナントの一室の前で、立ち止まった…
…ここが、稲葉一家の事務所…
…ここが、ヤクザの事務所…
以外と言うか、外から見る限りは、他のテナントとなにも変わったようには、見えなかった…
私といっしょにいる若い衆は、自分のポケットから、鍵を取り出して、中に入ろうとした…
私は、それを見て、もしかして、事務所の中には、誰もいないのかも? と、思った…
今、テレビや週刊誌で、稲葉五郎と、大場代議士の関係が、取り沙汰されてる…
だから、できれば、事務所の中には、誰もいないに限る…
稲葉一家の事務所の周辺に取材の手が及ぶのが、わかっているからだ…
だから、留守にするに限る…
よくテレビで、映る山口組総本部のような大きな建物ではない…
ただのビルの一室…
ただのテナントに過ぎない…
だから、そこにいる人間も少数…
百人も二百人もいるわけはないからだ…
だから、留守にすることができる…
百人や二百人もいれば、そこで、寝泊りをする人間もいるに違いない…
だから、留守=無人にできない…
と、そこまで、考えたとき、
「…お嬢…どうぞ…」
と、いう、若い衆の声が聞こえた…
目の前の若い衆が、ドアを開いて、私を招いた…
私は、
「…失礼します…」
と、言って、中に入った…
…やはり、人の気配がしない…
私が、そう感じていると、
「…今、ここには、誰もいないんです…」
と、背中から、声が聞こえてきた…
声の主は、当然のことながら、あの若い衆だった…
「…だから、今、オレが当番で、事務所の鍵を預かってるんで…」
と、そこまで言って、
「…お嬢…中に入って、椅子にでも、座って、くつろいで下さい…なにか、飲み物でも、出します…」
と、付け加えた。
私は、とっさに、
「…気を使わないで、下さい…」
と、言いながら、稲葉一家の事務所の中に、足を踏み入れた…
っていうか、進んだ…
が、
そこで、見た光景は、以外というか…
まったくの普通の会社の一室だった…
デスクがあり、椅子があり、デスクの上にパソコンが、置かれている…
誰がどう見ても、普通の会社にしか、見えなかった…
会社の一室にしか、見えなかった…
ビルのテナントだから、どっかの会社の営業所か、なにかにしか、見えなかった…
「…ビックリしたでしょ?…」
私の背後から、若い衆の声がした…
「…これが、ヤクザの事務所って、思ったでしょ?…」
私が振り向くと、楽しそうに、若い衆が続ける。
私が、なにも、言わないと、相手も困ると思ったので、黙って、コクンと、首を縦に振って、頷いた…
本当は、この若い衆の言う通りだったが、やはり、ココは、ヤクザの事務所…
そう、簡単に警戒心を解くわけには、いかなかった…
用心するというか…
なにしろ、今、この事務所には、私と、この若い衆の二人だけなのだ…
しかも、この若い衆も、カラダが大柄…
180㎝は、優にあるだろう…
私を襲おうと思えば、容易くできる…
160㎝の私では、抵抗できないに決まっている…
「…でしょ? …でしょ?…」
と、目の前の若い衆は、さっき会った当初から比べると、ウソのように、饒舌に言った…
もしかしたら、本来は、おしゃべりなのかもしれない…
ただ、私が、稲葉五郎が、お嬢、お嬢と、大事にしているので、気を使って、気安く、話しかけなかっただけかもしれない…
私が、そう考えていると、目の前に
「…ハイ…」
と、ペットボトルのお茶を出した…
「…お嬢…これを飲んで下さい…」
…ペットボトルのお茶?…
私は、面食らった…
あまりにも、普通すぎるからだ…
いや、
私は、やはり、心のどこかで、普通に、カップや、湯飲み茶わんに入れた、コーヒーやお茶を想像していたのかもしれない…
ヤクザ事務所にやって来て、ペットボトルのお茶を出されるとは、あまりにも、意外すぎたというか…
私が、そう考えていると、
「…オレも、お嬢のような、若い娘さんと、二人きりで、この事務所にいるのは、初めての経験だし…それに…」
と、言って、言いよどんだ…
私は、一体、どうしたのだろうと、思って、目の前の若い衆を見た…
「…それに…」
と、言って、続けた…
「…オレは、ヤクザだし、ホントは、カップにインスタントコーヒーかなにかを入れて出そうかとも思ったけど、その中に、睡眠薬かなにを入れて、犯されるとか、お嬢に思われたら、困るし…」
顔を真っ赤にして、説明する…
…なるほど、そういうことか?…
たしかに、カップならば、睡眠薬かなにかを入れることができるかもしれない…
だが、封を切ってないペットボトルならば、それもできない…
だから、わざわざ、ペットボトルのお茶を出したのか?
今さらながら、そのわけがわかった…
「…お嬢…座って下さい…」
若い衆が、顔が真っ赤のまま、続ける…
「…わかりました…」
私は、言って、近くのデスクの椅子を引いて、それに座った…
すると、目の前の若い衆が、
「…実は、これは、オヤジの命令なんです…」
と、口を開いた…
「…稲葉さんの?…」
「…ハイ…オヤジから、外から初めて、この事務所にやって来た人間には、ペットボトルとか、缶入りのコーヒーとかを出せと、いつも言われてるんです…ヤクザの事務所だから、飲み物に変なモノが入ってると、疑われでもしたら、困る…だから、なにも入れられない、市販のモノを出せと…」
私は、目の前の若い衆の告白に仰天した…
まさか、そこまで、周囲に気を使うとは、思わなかったからだ…
「…オヤジは、用心深いというか…周囲にめちゃくちゃ気を使うんで…」
若い衆が、顔を真っ赤にして、言う。
私は、その言葉を聞いて、あの稲葉五郎は、この若い衆に好かれていると、今さらながら、思った…
この若い衆が、稲葉五郎について、語るときは、実に楽しそうだ…
心の底から、信頼しているのが、わかった…
私が、そう考えていると、目の前に、若い衆が、座った…
そして、言った…
「…お嬢…さっき、オヤジに連絡を入れました…」
と…
私は、仰天した…
どう反応していいか、わからなかった…
私は、目の前の若い衆に、言った…
「…事務所に行きます…」
私は、続ける。
私の返答に、目の前の若い衆が、ホッとするのが、見て取れた…
大きく安堵する姿が、わかった…
と、同時に、今さらながら、この若い衆が、善人であることがわかった…
自分の感情を、素直に表している…
ちょっと癖のある人間や、得体の知れない人間というと、言い過ぎだが、その手の人間は、決して、素直に自分の感情を表に出さない…
表に出すことで、容易く、自分の感情を他人に読み取られるからだ…
容易に、自分の感情…なにを考えているか、他人に知られることを、恐れるというか…
要するに、腹黒い(笑)…
だが、目の前の若い衆は、違う…
そして、気付いた…
あの稲葉五郎もまた、おそらく、善人とまでは、言わないが、腹黒くはないのでは? と、考えた…
要するに、仲間というか…
自分が、どんな人間と付き合っているか?…
あるいは、自分がどんな人間に囲まれているかで、その人の人間性がわかる…
性格が悪い人間は、皆、性格が悪い人間が、集まっている…
単純に気が合うからだ(笑)…
その逆もしかり…
いわゆる、性格のいい人間は、性格のいい人間同士集まる…
つまり、付き合う人間を知ることで、その人の人間性がわかる…
どんな人間か、わかる…
そして、なにより、この若い衆は、稲葉一家の組員…
普通に、考えれば、稲葉五郎が、面接をしたに決まっている…
あるいは、面接までしなくても、自分の近くに置いている以上、稲葉五郎が気に入っているとまでは言わずとも、嫌いではないに違いない…
誰もが、自分の好かない人間を、近くに置くことは、ありえない…
まして、稲葉五郎は、稲葉一家の組長…
当然、自分の組だから、ひとの人選もできるだろう…
つまり、会社に例えれば、社長だ(笑)…
だから、人選は自分の思い通りに違いない…
と、そこまで、考えて、再び、今さらながら、稲葉五郎は、そんなに悪い人間では、ないのではないか? と、考えた…
とすれば、当然のことながら、周囲にそれほど、悪いヤツはいない…
つまり、これから訪れる稲葉一家の事務所にも、悪い人間は、いないはずだ…
そう思いさえすれば、これは、好都合…
無意識というと、言い過ぎだが、これから、稲葉五郎の稲葉一家の事務所に、行くに当たって、プラスというか…
とにかく、稲葉五郎をいい人間と、思わないと、怖くて、ヤクザ事務所などに、行けなかった…
なにしろ、ヤクザの事務所だ…
稲葉五郎や、目の前の若い衆を、善人と思わなければ、とても、怖くて、中に入れない…
そういうことだ(笑)…
「…お嬢…足元に気を付けて下さい…」
私が、そんなことを、無意識に考えていると、すでに稲葉一家がテナントとして入るビルの中の階段を歩いている私を、先導する若い衆が、心配するように、私に声をかけた…
「…このビルは、見た目よりも、階段が、急です…だから、足元に気を付けて、下さい…」
すでに、私の前を歩く、若い衆が、私を振り返って、私に注意を呼び掛ける…
私は、その若い衆の顔を見上げながら、
「…大丈夫です…」
と、返答した矢先に、階段に足をぶつけた…
「…痛ーい!…」
思わず、呟いた…
「…ほら、言わんこっちゃない…」
若い衆が、呟く。
…バカ!…
…ホントは、アンタが、わざわざ私を振り返って、
「…気を付けて下さい…」
なんて、言うから、アンタの顔を見上げることになって、うっかり、階段に足をぶつけたんだ…
ホントは、足をぶつけたのは、アンタのせいだ!
と、絶叫したいとまでは言わないが、普通に言いたくなったが、さすがに、それはできない…
なにしろ、私の身を心配して、言ってくれているのだ…
自分の身を心配してくれているのに、その人間の悪口は言えない…
当たり前のことだ…
「…大丈夫ですか? …お嬢…」
若い衆が、私を振り返って、心配そうに、声をかける。
私は、全然大丈夫じゃなかったけど、
「…大丈夫です…たいしたことじゃありません…このぐらいへっちゃらです…」
と、笑顔で、返した…
ホントは、泣きたいとまでは、言わないが、
「…痛―い…痛―い…」
と、周囲を駆け回りたいぐらい、痛かった…
事実、自分の家でなら、その通りにして、家の中を走り回っただろう…
私は、思った…
しかし、なぜ、階段なのだろう?
ふと、気付いた。
当然のことながら、このビルにも、エレベーターはついている…
それを使用すれば、いいのではないか?
どうして、使わないのだろう?
まさか、壊れているわけじゃあるまい?
私は、その疑問を口にした。
「…あの…どうして、エレベーターを使わないんですか?…」
私の質問に、若い衆は、面食らったようだ…
「…どうしてもって言われても…」
若い衆は、もごもごと、口ごもる…
「…実は、これは、組長の命令なんです…」
「…稲葉さんの…」
「…ハイ…今、自分と、大場代議士の関係が、世間に、取り沙汰されてる…だから、くれぐれも、目立った真似はするな…エレベーターも、使うな…このビルに入った他のテナントの方に迷惑になると…」
「…迷惑?…」
「…いっしょにエレベーターに乗って、嫌な思いでもされたら、困る…だから、誰にも顔を会わさないように、階段を使えって…」
「…」
私は、若い衆のあまりにも、予想外の言葉に面食らった…
まさか、ヤクザが、そこまで、周囲に気を使うとは、思わなかったからだ…
「…どうして、稲葉さんは、そんなに、周囲に気を使うんですか?…」
思わず、口にした。
いや、
出てしまった…
「…オヤジの口癖なんです…」
「…どんな口癖ですか?…」
「…ヤクザは、周囲のひとたちと、うまくやらなければ、生きれない…」
「…」
私は、唖然とした…
文字通り、唖然として、ポカンと、口を開いたままになった…
自分でも、間抜けな顔になったのが、わかった…
「…笑っちゃいますよね?…」
私の唖然とした顔が、面白かったのかもしれない…
わざと、私を和ませるように、言った…
「…オレも、最初は、冗談かと思いましたよ…だって、ヤクザですよ…それにオヤジは、あの通り、人一倍ゴツイ顔をしている…でも、口に出す言葉は、いつも謙虚というか…あのオヤジが、調子に乗ってるのを、一度も見たことがないです…」
若い衆が、楽しそうに言う。
「…こう言っちゃなんですが、変な人ですよ…」
と、付け加えた…
が、その言葉とは裏腹に、妙に楽しそうだった…
この若い衆が、心の底から、稲葉五郎を信頼しているのが、わかった…
私が、そう考えていると、
「…つまらないことを言って、スイマセン…」
と、若い衆が詫びた…
「…いえ…」
私が返す。
「…さあ、歩きましょう…事務所は、もうすぐです…」
若い衆は言った…
私は、その若い衆の背中を見ながら、後を追った…
「…ここです…」
若い衆が、ビルのテナントの一室の前で、立ち止まった…
…ここが、稲葉一家の事務所…
…ここが、ヤクザの事務所…
以外と言うか、外から見る限りは、他のテナントとなにも変わったようには、見えなかった…
私といっしょにいる若い衆は、自分のポケットから、鍵を取り出して、中に入ろうとした…
私は、それを見て、もしかして、事務所の中には、誰もいないのかも? と、思った…
今、テレビや週刊誌で、稲葉五郎と、大場代議士の関係が、取り沙汰されてる…
だから、できれば、事務所の中には、誰もいないに限る…
稲葉一家の事務所の周辺に取材の手が及ぶのが、わかっているからだ…
だから、留守にするに限る…
よくテレビで、映る山口組総本部のような大きな建物ではない…
ただのビルの一室…
ただのテナントに過ぎない…
だから、そこにいる人間も少数…
百人も二百人もいるわけはないからだ…
だから、留守にすることができる…
百人や二百人もいれば、そこで、寝泊りをする人間もいるに違いない…
だから、留守=無人にできない…
と、そこまで、考えたとき、
「…お嬢…どうぞ…」
と、いう、若い衆の声が聞こえた…
目の前の若い衆が、ドアを開いて、私を招いた…
私は、
「…失礼します…」
と、言って、中に入った…
…やはり、人の気配がしない…
私が、そう感じていると、
「…今、ここには、誰もいないんです…」
と、背中から、声が聞こえてきた…
声の主は、当然のことながら、あの若い衆だった…
「…だから、今、オレが当番で、事務所の鍵を預かってるんで…」
と、そこまで言って、
「…お嬢…中に入って、椅子にでも、座って、くつろいで下さい…なにか、飲み物でも、出します…」
と、付け加えた。
私は、とっさに、
「…気を使わないで、下さい…」
と、言いながら、稲葉一家の事務所の中に、足を踏み入れた…
っていうか、進んだ…
が、
そこで、見た光景は、以外というか…
まったくの普通の会社の一室だった…
デスクがあり、椅子があり、デスクの上にパソコンが、置かれている…
誰がどう見ても、普通の会社にしか、見えなかった…
会社の一室にしか、見えなかった…
ビルのテナントだから、どっかの会社の営業所か、なにかにしか、見えなかった…
「…ビックリしたでしょ?…」
私の背後から、若い衆の声がした…
「…これが、ヤクザの事務所って、思ったでしょ?…」
私が振り向くと、楽しそうに、若い衆が続ける。
私が、なにも、言わないと、相手も困ると思ったので、黙って、コクンと、首を縦に振って、頷いた…
本当は、この若い衆の言う通りだったが、やはり、ココは、ヤクザの事務所…
そう、簡単に警戒心を解くわけには、いかなかった…
用心するというか…
なにしろ、今、この事務所には、私と、この若い衆の二人だけなのだ…
しかも、この若い衆も、カラダが大柄…
180㎝は、優にあるだろう…
私を襲おうと思えば、容易くできる…
160㎝の私では、抵抗できないに決まっている…
「…でしょ? …でしょ?…」
と、目の前の若い衆は、さっき会った当初から比べると、ウソのように、饒舌に言った…
もしかしたら、本来は、おしゃべりなのかもしれない…
ただ、私が、稲葉五郎が、お嬢、お嬢と、大事にしているので、気を使って、気安く、話しかけなかっただけかもしれない…
私が、そう考えていると、目の前に
「…ハイ…」
と、ペットボトルのお茶を出した…
「…お嬢…これを飲んで下さい…」
…ペットボトルのお茶?…
私は、面食らった…
あまりにも、普通すぎるからだ…
いや、
私は、やはり、心のどこかで、普通に、カップや、湯飲み茶わんに入れた、コーヒーやお茶を想像していたのかもしれない…
ヤクザ事務所にやって来て、ペットボトルのお茶を出されるとは、あまりにも、意外すぎたというか…
私が、そう考えていると、
「…オレも、お嬢のような、若い娘さんと、二人きりで、この事務所にいるのは、初めての経験だし…それに…」
と、言って、言いよどんだ…
私は、一体、どうしたのだろうと、思って、目の前の若い衆を見た…
「…それに…」
と、言って、続けた…
「…オレは、ヤクザだし、ホントは、カップにインスタントコーヒーかなにかを入れて出そうかとも思ったけど、その中に、睡眠薬かなにを入れて、犯されるとか、お嬢に思われたら、困るし…」
顔を真っ赤にして、説明する…
…なるほど、そういうことか?…
たしかに、カップならば、睡眠薬かなにかを入れることができるかもしれない…
だが、封を切ってないペットボトルならば、それもできない…
だから、わざわざ、ペットボトルのお茶を出したのか?
今さらながら、そのわけがわかった…
「…お嬢…座って下さい…」
若い衆が、顔が真っ赤のまま、続ける…
「…わかりました…」
私は、言って、近くのデスクの椅子を引いて、それに座った…
すると、目の前の若い衆が、
「…実は、これは、オヤジの命令なんです…」
と、口を開いた…
「…稲葉さんの?…」
「…ハイ…オヤジから、外から初めて、この事務所にやって来た人間には、ペットボトルとか、缶入りのコーヒーとかを出せと、いつも言われてるんです…ヤクザの事務所だから、飲み物に変なモノが入ってると、疑われでもしたら、困る…だから、なにも入れられない、市販のモノを出せと…」
私は、目の前の若い衆の告白に仰天した…
まさか、そこまで、周囲に気を使うとは、思わなかったからだ…
「…オヤジは、用心深いというか…周囲にめちゃくちゃ気を使うんで…」
若い衆が、顔を真っ赤にして、言う。
私は、その言葉を聞いて、あの稲葉五郎は、この若い衆に好かれていると、今さらながら、思った…
この若い衆が、稲葉五郎について、語るときは、実に楽しそうだ…
心の底から、信頼しているのが、わかった…
私が、そう考えていると、目の前に、若い衆が、座った…
そして、言った…
「…お嬢…さっき、オヤジに連絡を入れました…」
と…
私は、仰天した…
どう反応していいか、わからなかった…