第89話

文字数 5,151文字

 「…お嬢…どうしました?…」

 ファミレスで、席に着いた、私が、ぶしつけに、ジロジロと、稲葉五郎を見るので、稲葉五郎が、問いかけた…

 当たり前のことだ…

 「…失礼ですが、稲葉さんは、私と、同じ年代のお嬢さんが、いらっしゃるかと思って…」

 「…お嬢…どうして、いきなり、そんなことを言うんですか?…」

 眼前の稲葉五郎が、明らかに当惑した…

 うろたえた…

 「…いえ、失礼ですけど、稲葉さん…私を見る目が、すごく、優しいんですよ…」

 「…優しい?…」

 「…まるで、溺愛する、お嬢さんか、なにかを見るみたいで…だから、失礼ですけど、離婚でもされて、別れたお嬢さんの面影を私に重ねて見てるんじゃないかって、ふと、思って…」

 私の言葉に、稲葉五郎は、

 「…」

 と、絶句した…

 しばらく、言葉もなかった…

 十秒…

 二十秒…

 あるいは、それ以上、間があっただろうか?

 長い沈黙の後、

 「…そうですか…お嬢は、オレをそう見てたんですか…」

 と、ポツリと、呟いた…

 「…オレは、独り者です…」

 「…独り者?…」

 「…ヤクザに妻子はいらない…足かせになります…だから、一人…」

 稲葉五郎が、自嘲気味に呟く…

 「…これでも、若い頃は、普通に、恋愛もしましたし、付き合ってる女もいました…ですが、古賀会長の若い衆になり、お側に仕えていると、ヤクザは、妻子を持っちゃいけないと思うようになって…」

 「…どうして、そう思ったんですか?…」

 「…古賀会長が、子供がいないことが、大きいでしょう…古賀会長は、子供がいない…だから、あれだけのことができた…」

 「…それは、どういう意味ですか?…」

 「…お嬢…それは、守りです…」

 「…守り?…」

 「…この稼業です…自分の愛すべき家族がいては、足手まといになる…大きな決断をするときに、家族がいては、どうしても、家族を優先するというか…家族のことを考えてしまう…だから…」

 稲葉五郎が、苦渋に満ちた表情で言う。

 「…だから、オレは、ある時期になって、家族は、持たないと決めたんです…」

 力強く言った…

 「…そうだったんですか…」

 私は、呟いた…

 「…私は、てっきり…」

 「…てっきり、オレが、別れた娘の姿をお嬢に重ねていたと思った…」

 「…ハイ…」

 私の言葉に、稲葉五郎は、

 「…」

 と、沈黙した…

 それっきり、ずっと、押し黙った…

 私は、その沈黙が、苦痛だった…

 だから、

 「…あの…高雄さんは、高雄悠(ゆう)さんのお父様は…」

 と、話を変えた…

 「…兄貴は、優しいんですよ…」

 「…優しい…それは、悠(ゆう)さんが、高雄さんと血が繋がってないことをおっしゃってるんですか?…」

 私の言葉に、目の前の稲葉五郎が、愕然とした…

 文字通り、呆気に取られた表情になった…

 「…そこまで、知ってたんですか?…」

 「…ハイ…」

 「…では、言いましょう…兄貴は、こう言っちゃなんだが、ヤクザとしては、優しい…優しすぎる…だから、経済ヤクザといっちゃなんだけど、金儲けに走った…」

 稲葉五郎が、告白する。

 私は、稲葉五郎の告白に、

 「…知ってます…」

 と、つい、答えてしまった…

 「…知ってる?…」

 不用意に口にした、私の言葉に、稲葉五郎は、目を丸くした…

 「…以前、高雄…高雄悠(ゆう)さんと、お父様が、争っている現場に、偶然居合わせて、そこで、悠(ゆう)さんが、今、稲葉さんが、おっしゃったことと、同じことを口にして…」

 私の言葉に、稲葉五郎は、驚いたが、少しして、

 「…そうでしたか…」

 と、納得するように、呟いた…

 「…兄貴は、本当は、ヤクザというより、実業家です…」

 「…実業家?…」

 「…あっちこっちの会社を経営したり、株や土地を転売したりして、利益を得てる…」

 稲葉五郎が、言う…

 「…兄貴は、本当は、キチンと大学を出て、三井とか三菱とかの大企業で、働いて、出世したかったんだと思う…ただ、兄貴は、貧しかったから…」

 それだけ言って、それ以上は言わなかった…

 だが、私は、その先が、わかった…

 なぜなら、高雄悠(ゆう)が、この前言っていたからだ…

 ヤクザは、在日の朝鮮人や韓国人、そして、日本の被差別部落出身者が多い、と…

 要するに、虐げられた人々だ…

 お金や学のない人々が、腕一本で、成り上がれることのできる、数少ない世界…

 ずっと以前は、それが、常識だった…

 そんな時代だった…

 それゆえ、高雄の父も、ヤクザになったのだろう…

 私は、考える。

 「…兄貴は、コンプレックスを抱えていた…」

 意外なことを言い出した…

 「…コンプレックス?…」

 「…学歴コンプレックス…本当は、東大や、京大に行きたかったんだと思う…だから、それを悠(ゆう)に託した…」

 「…託した?…」

 「…血の繋がってない悠(ゆう)を引き取ったのは、悠(ゆう)にチャンスを与えたかったからだ…自分が、金がない家庭に育ったから、頭がいい悠(ゆう)に、キチンと、大学まで行かせたかったからです…兄貴は、まだ子供の、頭のいい悠(ゆう)を見て、金がないことで、大学に行くのを諦めざるを得なかった自分を重ねてみたんだと、思う…このままでは、いくら頭が良くても、その頭の良さを生かせない人生を悠(ゆう)が送ると思って…」

 意外な真相だった…

 だが、そう言われれば、高雄組組長が、悠(ゆう)を養子にした理由がわかる…

 「…兄貴は、悠(ゆう)を、溺愛した…子供のいない兄貴は、悠(ゆう)を、血の繋がった実の子以上に溺愛した…それで、あんなことに…」

 「…あんなこと?…」

 「…悠(ゆう)の性格だ…ねじ曲がってる…」

 「…ねじ曲がってる?…」

 「…そう…ねじ曲がってる…悠(ゆう)は、兄貴が、自分を溺愛しているのをいいことに、その愛情を利用して、暴走しちまった…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…杉崎実業だ…悠(ゆう)を、あの杉崎実業の取締役にしたことで、悠(ゆう)は、中国の息がかかったというか…」

 「…中国?…」

 あまりにも、意外な言葉だった…

 私が、驚いたのを、間近に見て、

 「…以前、オレは、お嬢に、言いましたね…あの杉崎実業は、いわくつくの会社だって…覚えてますか?…」

 私は、黙って、

 「…」

 と、無言で、首を縦に振って、頷いた…

 「…あの杉崎実業は、ヤクザのオレが言うのもなんだが、胡散(うさん)臭い…」

 「…胡散(うさん)臭い?…」

 「…一見、真っ当な商売をしているように、見えるが、その実、密貿易に手を染めてるというか…中国政府と繋がってる噂があって…以前、これもお嬢に言ったと思いますが、オレも買収しようかと思ったことがあります…でも、結局、手を出さなかった…」

 「…どうして、ですか?…」

 「…リスクが強すぎます…」

 「…リスク…ですか?…」

 「…ほら、世間では、よくヤクザは無茶苦茶の代表のように、言いますが、ビジネスは、真逆です…完全に儲かると判断したものしか、手を出さない…」

 「…」

 「…杉崎実業が、中国政府と繋がってるかもしれないのは、オレたちの世界でも、結構知れていて、だから、オレも手を出さなかった…それを兄貴が…」

 「…高雄さんが?…」

 「…兄貴は、オレに勝ちたかったんだと思います…でも、それだけじゃない…」

 「…どういうことですか?…」

 「…お嬢もすでに、ご存知でしょうが、山田会は、オレと兄貴が、次の会長候補になってます…でも、自分で言うのもなんですが、オレの方が本命です…だから、兄貴は、多少リスクがあっても、儲けが大きいかもしれない杉崎実業に、投資して、金を儲けて、その金を、山田会の他の組長たちにバラまいて、勢力を伸ばしたかったんだと、オレは思いました…オレに勝ちたかったんだと…でも、それだけじゃない…」

 「…」

 「…悠(ゆう)ですよ…」

 「…悠(ゆう)さん?…」

 「…オレもそうだが、若いときは、誰もが自分の能力を過信する…兄貴が杉崎実業に投資したのは、悠(ゆう)の将来のこともあったんです…」

 「…どういうことですか?…」

 「…兄貴は悠(ゆう)に真っ当な稼業をさせたかった…悠(ゆう)は、頭が良く、大学も一流だった…だが、就職で、いつのまにか、親が高雄組の組長だとバレて、まともな会社に就職できなかった…だから、杉崎実業が、投資先に名前が出ると、兄貴は、それを買収して、そこに悠(ゆう)を押し込んで、真っ当なビジネスをさせたかったんだと思います…自分ができなかった夢を悠(ゆう)に託した…でも、それがいけなかった…」

 「…どういうことですか?…」

 「…悠(ゆう)が、調子に乗っちまったんです…」

 「…調子に?…」

 「…お嬢もご存知のように、この稼業も、先細りです…暴対法ができて、年々、この稼業を続けることが、難しくなってきている…悠(ゆう)は、そんな中、杉崎実業をとっかかりに、いずれ、兄貴の高雄組も、ヤクザではなく、真っ当な会社にしたい、夢を持っちまった…映画のゴッドファーザーそのものです…」

 「…」

 「…若いから、現実と映画の区別ができなくなっちまった…」

 私は、目の前の稲葉五郎の話を聞いて、以前、これと同じ話をあの林から聞いたことを思い出していた…

 あの林も、今と同じ話を、私にした…

 だが、

 ふと、気付いた…

 あの林の父親は、先日、中国からのスパイ容疑で、逮捕された…

 そして、今、稲葉五郎と話題にしている、杉崎実業は、中国政府と繋がっていると、言われている…

 これは、以前にも、言ったように、偶然だろうか?

 いや、

 偶然のわけはない…

 「…悠(ゆう)は、高雄組をいずれは、堅気の会社にしたい夢を抱いちまった…まるで、映画のゴッドファーザーのように、マフィアが真っ当な会社になることを夢見たように…そして、それを後押しする人間が現れた…」

 「…誰ですか? それは…」

 「…それが、杉崎実業ですよ…」

 「…杉崎実業?…」

 「…要するに、ミイラ取りがミイラになっちまった…金儲けのために、杉崎実業を買収したのに、いつのまにか、悠(ゆう)は、杉崎実業の尻馬に乗っかっちまった…調子に乗っちまったんですよ…」

 「…それはどういう?…」

 「…簡単ですよ…杉崎実業に悠(ゆう)をたきつける輩(やから)がいたってことです…それで、悠(ゆう)は、調子に乗っちまった…」

 「…」

 「…言って、いいものか、どうか、わかりませんが、具体的には、人見っていう杉崎実業で、人事部長をやっている人間が、怪しいと見ています…その男が、中国政府の息がかかっているというか…」

 「…人見人事部長…」

 私は、その名前に、文字通り、絶句した…

 私の驚きに、

 「…お嬢…ご存知ですか?…」

 と、稲葉五郎が訊いた…

 「…ハイ…知ってるもなにも、私の入社の内定で、お会いしました…」

 私の言葉に、稲葉五郎は、一瞬、驚いた表情になったが、

 「…そうか…そうですよね…お嬢は、杉崎実業の内定をもらったんだった…」

 と、自分自身を納得させるように、呟いた…

 「…だから、悠(ゆう)は、ミイラ取りがミイラになっちまった…」

 再び、稲葉五郎が、激しく、言った…

 「…杉崎実業に、魂(たましい)を乗っ取られちまった…」

 稲葉五郎が激白する…

 私は、稲葉五郎の告白と言うか、内情の暴露に驚いたが、その反面、さもありなんと、納得する自分がいた…

 妙に冷静な自分がいた…

 ひとは、一人では、なにもできない…

 高雄が、杉崎実業に関わったことで、おそらく、父の高雄組組長の思惑とは、まったく別の方向に進んだに違いない…

 稲葉五郎が言ったように、高雄の父は、悠(ゆう)を、まっとうなビジネスマンにしたかったに違いないのが、暴走して、父親の高雄組も、いずれ、堅気の会社に生まれ変わらせたいという野心を持つに至ったに違いない…

 父の思惑とは、別に、高雄は走り出した…

 そして、その結末が、あの高雄組組長と悠(ゆう)の対立だったわけだ…

 私は、気付いた…

 「…兄貴は、今、苦境にあります…」

 意外なことを、言った…

 思わず、

 「…苦境?…」

 と、私も、同じ言葉を繰り返した…

 「…それは、どういう?…」

 「…松尾会ですよ…」

 「…松尾会?…」

 「…ハイ…お嬢も、ご存知かもしれませんが、うちの山田会と、松尾会で、ちょっとしたいざこざがありました…傘下の下部組織の人間が、乱闘騒ぎを起こして、揉めたんです…そのとき、いわゆる、兄貴の派閥に属する人間に連絡がいって、うまく、騒動を収めることができなかった…それで、兄貴の立場が、山田会の中で、だいぶ微妙になって…」

 稲葉五郎が続ける…

 驚愕の事実を打ち明けた…

                
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