第97話

文字数 5,522文字

 気分が落ち込んだ…

 まさに、ヘビーな気分だった…

 こんなに気分が、落ち込んだのは、実に久しぶりだった…

 一体、いつ以来だろう?

 考えた…

 思えば、杉崎実業に内定をもらえるまでは、内定が一社もなく、気分が、滅入った…

 落ち込んだ…

 しかし、今の気分は、そんなものじゃないほど、ヘビーだった…

 他人のこととはいえ、言葉は悪いが、胸糞が悪くなるほどだった…

 原因は、人見だ…

 あの人見が、林の父親が、金持ちだから、それが、気に入らずに、林の父親を陥れる原因だと聞いたからだ…

 実に、気分が悪かった…

 気持ちが悪かった…

 そんな原因で、他人を陥れる人間の気持ちがわからなかった…

 いや、

 気持ちがわからないのではない…

 気持ちはわかるが、それを実践する人間が、身近に存在したことに、驚いたというか、深く嫌悪した…

 人間は、見た目ではない…

 つくづく思った…

 あの人見は、何度か会っただけだが、ただおとなしそうで、実直で、真面目な人柄に見えた…

 それが、こんなことを仕組み人間とは…

 今さらながら、思った…

 林の言葉が真実ならば、いずれ人見は、逮捕されるだろう…

 私は、考える。

 事実、嗚咽するほど、気分が落ち込んだ林の言葉に、ウソがあるとは、思えなかった…

 しかし、人見が…

 私は、考えた…

 ひとは、どうしても、外観で、判断する…

 見た目で、判断する…

 人見は、一目見て、おとなしめで、信用できる…

 信頼できる…

 だから、そんな人見の裏の顔というか、本性を知って、驚く…

 あまりにも、見た目と違うからだ…

 ある意味、人見が、中国政府のスパイだったことよりも、衝撃の事実だった…

 そして、それを考えたとき、ふと、私の脳裏に、あの稲葉五郎の姿が浮かんだ…

 あの稲葉五郎は、人見と真逆だった…

 見かけは、いかにも、昔ながらの、コワモテのヤクザだったが、なぜか、私に優しかった…

 まるで、自分の娘に接するか、あるいは、それ以上に、私に優しかった…

 目の中に入れても痛くないという表現があるが、まさに、その通りだった…

 人見のことを、考えると、どうしても、稲葉五郎のことを考える。

 二人は、真逆…

 共に、外観と、中身が、違う…

 人見は、見た目は、いかにも、信頼でき、信用できるが、中身は、真逆…

 信用できない…

 稲葉五郎は、人見と真逆に、コワモテの外観だが、信用できる…

 信頼できる…

 人間は、見た目ではないなと、つくづく考えさせられる…

 見た目で、いかに、信用できても、信用できない人間は多い…

 その代表が、あの人見なのだろう…

 ぼんやりと、私は、考える…

 そして、

 そして、

 稲葉五郎を思った…

 一体、今、稲葉五郎は、どうしているのだろう?

 松尾会の松尾聡(さとし)が、銃撃されて、病院に入院した…

 その後、銃撃されたのは、松尾聡(さとし)の自作自演だと、知った…

 杉崎実業の不正輸出に、絡もうとして、派遣した子分たちが、中国政府の工作員に、襲われたのだ…

 手を出してはいけないものに、手を出した…

 いち早く、自分の過ちに気付いた松尾聡(さとし)は、自作自演の銃撃で、病院に逃げ込んだ…

 中国政府の工作員から、身を隠すためだ…

 そして、その後の報道はない…

 松尾聡(さとし)は、今、一体、どうしているのだろう?

 そして、稲葉五郎は?

 松尾聡(さとし)と、関係はないが、あの後、松尾会は、他の暴力団の草刈り場になっていると、報道があった…

 松尾会は、松尾聡(さとし)の強烈な個性で、築き上げたヤクザ組織…

 その松尾聡(さとし)が、高齢で、判断能力が衰えたことを、図らずも、今度の一件で、ヤクザ社会に、露呈してしまった…

 以前の松尾聡(さとし)ならば、ありえない失態だった…

 中国政府が、反撃することは、容易に推測できるからだ…

 にもかかわらず、安易に、杉崎実業の不正輸出に絡んで、儲けようとした…

 あまりも、安易な判断ミスだった…

 と、同時に、気付いた…

 以前、稲葉五郎は、

 「…ウチも、杉崎実業を買収しようと思ったが、あそこは、色々あって、それで、買収を断念した…だから、高雄の兄貴が、杉崎実業を買収したのには、驚いた…あの石橋を叩いて渡る、堅実な兄貴が…」

 と、いうようなことを、私に言った…

 つまり、最初から、杉崎実業は、中国政府と繋がってる噂が、ヤクザ界で、流れていたわけだ…

 だから、稲葉五郎は、杉崎実業を買収しなかった…

 真逆に、高雄の父は、買収した…

 おそらくは、買収して、不正輸出で、儲けようとしたのだろう…

 経済ヤクザである高雄の父の生命線は、お金…

 いかに、稼ぐかに、かかっている…

 杉崎実業を買収するリスクはあるが、それ以上に、うまくいったときに儲けがあると、踏んだのだろう…

 だが、本当に、それだけか?

 私は、ふと、気付いた…

 そもそも、あの人見が、中国政府のスパイだと、高雄の父親や、稲葉五郎は気付いていた可能性が高い…

 以前、私が、稲葉五郎にクルマで、杉崎実業の近くまで、送ってもらったことがあった…

 あのとき、杉崎実業から、人見の部下である、藤原綾乃という、ナイスバディのお姉さんが、出てきて、稲葉五郎に杉崎実業に近付くな、と、警告した…

 具体的には、

 「…稲葉さん、今がどういうときか、わかってるの? …稲葉さんが、今、この杉崎実業にやって来ると…」

 と、言った…

 アレは、杉崎実業は、高雄組傘下のフロント企業であり、稲葉五郎は、同じ山田会の傘下だが、高雄組のライバルであり、次期会長の座を巡って争っている…

 それを証明する言葉だと、思った…

 だが、今、冷静になって考えると、違うのではないか?

 ふと、気付いた…

 なぜ、あのとき、あの藤原綾乃というナイスバディのお姉さんが出てきたか? だ…

 人見は、杉崎実業の人事部長…

 あの藤原綾乃は、人見の部下…

 人事部の部下だ…

 そして、気付いたのは、藤原綾乃の素性だ…

 人見が人事部長で、中国のスパイだと気付いた時点で、誰か、高雄組、あるいは、稲葉一家から、人見を監視する意味で、近くに人を配置したのではないか?

 それが、あの藤原綾乃ではなかったのか?

 ふと、気付いた…

 杉崎実業は、高雄組の傘下にあるとはいえ、会社にヤクザ者がいるような気配はなかった…

 おそらく、杉崎実業の株だけ買って、表立ってひとを派遣しなかったのだろう…

 だが、まったくひとを派遣しないことは、ありえない…

 つまりは、ヤクザ者ではない人間を極秘裏に派遣したのではないか?

 普通は、取締役など経営陣にひとを派遣して、会社を牛耳るものだが、さすがにそれでは、目立ちすぎる…

 悪目立ちし過ぎる…

 それゆえ、高雄組は、人事に、あの藤原綾乃を派遣したか?

 あるいは、藤原綾乃を買収して、自分の側に引きずり込んだのではないか?

 私は、思った…

 人事部は、会社の社員の個人情報の宝庫…

 人見同様、その人事部に在籍する人間を味方にするに、限る…

 高雄組は、おそらく、人事部だけでなく、他の部署にも、自分の息のかかった人間を送り込んだか? 買収かなにかして、自分たちに情報が入るように、仕組んだに違いない…

 さもなければ、杉崎実業の株を買収して、杉崎実業を手に入れても、その実態がわからないからだ…

 会社の内部事情を知るには、社員から情報を引き出すに限る…

 藤原綾乃が、高雄組のスパイだと言う保証はないが、おそらくは、稲葉五郎や高雄組長のどちらかと、通じているに違いない…

 あのとき、飛び出して、稲葉五郎に、杉崎実業に近付くなと、警告したのは、高雄組と稲葉五郎の関係を知ってるから…

 互いが、山田会の次期会長を巡るライバルだと知っているからだ…

 と、そこまで、考えて、気付いた…

 ただ、高雄組組長と稲葉五郎の関係を知っているだけなら、あのとき、いきなり、稲葉五郎に、

「…このビルに近付かないで…」

と、言っても、稲葉五郎が納得するはずがない…

普通に考えれば、二人は、顔見知りの可能性が高い…

となると、どうだ?

もしかしたら、藤原綾乃は、高雄組ではなく、稲葉五郎のスパイでもおかしくはない…

今さらながら、その事実に気付いた…

稲葉五郎が、藤原綾乃を、杉崎実業に派遣しても、おかしくはない…

そう思った…

すると、どうだ?

話が違ってくる…

なぜなら、稲葉五郎は、兄貴と慕っている、高雄組の傘下のフロント企業に、自分の部下を配置していることになる…

これは、一体全体どういうことだ?

そもそも、稲葉五郎は、本当に、高雄組組長を慕っているのか?

そんな疑問が湧いた…

そんなに慕っているのならば、高雄組のフロント企業に、スパイを潜り込ませる必要があるのか?

そんな疑問が湧いた…

もしかしたら、稲葉五郎は?

ふと、思った…

もしかしたら、稲葉五郎は敵?

高雄組組長の敵?

最初から、高雄組組長を監視していた?

ふと、そんなことを思った…

少なくとも、稲葉五郎が、

「…兄貴…兄貴…」

と、高雄組組長を慕っていた姿を額面通りに受け取れなくなった…

言葉通りに、受け取れなくなった…

そして、松尾会会長、松尾聡(さとし)が、高雄組組長に言った言葉、

「…山田会の次期会長は、稲葉さんです…これは、古賀さんの決めたことでもあります…」

と、私と、高雄組組長、そして、大場小太郎代議士の前で言った…

あの言葉を素直に取れば、当然、稲葉五郎は、次の山田会会長…

日本で、2番目に大きな暴力団のトップだ…

そんな大物ヤクザが、バカなはずはない…

兄貴、兄貴、と、高雄組組長を慕うフリをしながら、その実、高雄組組長の買収した企業に、スパイを送り込むことなどは、日常茶飯事なのかもしれない…

ヤクザは、裏切りが、日常とも、言った…

相手の寝首を掻くことが、日常とも、言った…

ネットに書いてあった(笑)…

ヤクザはサラリーマンとは、違う…

当たり前だが、会社員とは、違う…

出世の方法が、違う…

サラリーマンのように、段階を追って、出世することも、あれば、そうでないこともある…

なにより、ヤクザは実力社会…

それは、なにより、松尾会会長、松尾聡(さとし)が、力が衰えたのを、全国のヤクザが目の当たりにして、松尾会支配下の地域に、対立するヤクザ組織が、今、抗争を仕掛けている現実が、それを物語る…

つまりは、力が衰えたヤクザは、溺れる犬は棒で叩けのことわざのように、集団で、潰しにかかられる…

だから、弱みを見せることはできない…

自分の弱った姿を見せることはできない…

だから、虚勢を張る…

自分を、実力以上に強く見せる…

それが、ヤクザだ…

だが、当然、出世するものというか、頭の良いヤクザは、皆、臆病だ…

臆病=慎重だ…

なぜなら、自分の実力が、よくわかっているからだ…

その上で、相手の実力もまた、わかっている…

だから、慎重になる…

臆病になる…

そこまで、考えて、気付いた…

もしかしたら、稲葉五郎は、高雄組組長を敵と見なしてないのかもしれない…

だが、

「…兄貴…兄貴…」

と、呼ぶほど、信頼もしていないのかもしれない…

本当に、信頼していれば、自分の息のかかった人間を、高雄組傘下のフロント企業に送り込む必要はない…

スパイを潜入させる必要はない…

スパイを潜入させるのは、当たり前だが、情報を取るためだ…

杉崎実業の内部事情を探るためだ…

私は、考える…

ということは?

ということは、どうだ?

稲葉五郎の目的は、なんだ?

 杉崎実業を監視することか?

 高雄組を監視することか?

 あるいは、今、杉崎実業は、中国への不正輸出がバレて、世間から叩かれている…

 その杉崎実業は、高雄組のフロント企業…

 これもまた、週刊誌等で、今、暴露された…

 当然、杉崎実業に未来はない…

 あるのは、倒産か廃業の二者択一…

 それしか、選択肢はない…

 そして、それは、高雄組にも大きく影響するだろう…

 なにしろ、高雄組が、実質、杉崎実業の親会社だからだ…

 杉崎実業が倒産すれば、莫大な金額を失うことになるに違いない…

 杉崎実業に投資した莫大な金額が回収不能になるに違いない…

 となると、もはや、高雄組組長に山田会の次期会長の座はない…

 それどころではないに違いない…

 下手をすれば、高雄組の存続そのものに黄信号が灯っているのかもしれない…

 高雄組は、経済ヤクザ…

 暴力ではなく、金が力の源泉…

 源(みなもと)だ…

 その源泉が、枯渇する…

 なくなる…

 金がなくなるのだ…

 すると、どうだ?

 松尾会のように、大勢で、敵が潰しにかかる…

 そんな事態に陥るかもしれない…

 私は、考える。

 いや、そこまでは、ならないのかもしれない…

 高雄組は、山田会傘下の組織…

 山田会の二次団体だからだ…

 一本独鈷(どっこ)の松尾会とは、違う…

 独立した松尾会とは、違う…

 だから、すぐに敵が潰しにくることはないのかもしれない…

 しかし、これが、高雄組の凋落に繋がることは、否定できない…

 高雄組の力が衰えることは、否定できない…

 と、ここまで、考えて、今、気付いたことがある…

 先日、私は、高雄組組長、松尾会会長、そして、大場小太郎代議士の4人で会った…

 そのうちの二人、松尾会会長と、高雄組組長は、今、大変な事態に陥っている…

 私と大場小太郎代議士は、関係ないが、残りの二人は今、大げさに言えば、危急存亡の秋(とき)というか…

 尻に火が点いているというか、大変な事態だ…

 だが、果たして、これは、偶然なのだろうか?

 偶然、あの場にいた二人が、今、追い込まれているのだろうか?

 私は、不思議だった…

 そして、もし、偶然でなかったら?

 私の頭の中は、その思いでいっぱいだった…

                
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