第43話

文字数 6,534文字

 …どんなことにも、リスクがある…

 私は、心の中で、稲葉五郎の言葉を繰り返した…

 今、稲葉五郎が言ったのは、一般論ではない…

 事実、杉崎実業を買収するか、しないかで、悩んだと、稲葉五郎は言った…

 なにより、杉崎実業には、買収する、うま味があるのだろう…

 しかし、リスクがある…

 そのリスクを考えて、稲葉五郎は、杉崎実業の買収に手を挙げなかった…

 片や、高雄の父は、それを承知で、杉崎実業を買収した…

 儲かる可能性が高いからだ…

 そして、おそらくは、高雄の父親も、この稲葉五郎も、来たるべき、山田会の次期会長の座を狙って、動いていたのでは? と、思った…

 山田会は、大きな組織…

 それを束ねるには、大きな資金が必要に違いない…

 その資金を確保するために、高雄の父は、杉崎実業を買収したに違いない…

 私は、そう思った…

 なにより、この稲葉五郎が、高雄の父を評して、

 「…だから、正直に言って、高雄の兄貴が、杉崎実業を買収したときは、オレもちょっと意外というか…兄貴は、何事にも慎重で、リスクは取らない性格というか…別の意味で言えば、勝負に出たのかなと思った…」

 そして、私が、

 「…勝負? …なんの勝負ですか?…」

 と、聞くと、

 「…山田会の次期会長の座をゲットする勝負です…」

 稲葉五郎が、ドスの効いた声で、言った…

 これが、すべてだろう…

 たしかに、あの杉崎実業は、おかしいというか、不思議だ…

 あの次期総理総裁候補にも挙がる大場小太郎代議士の娘が入社したり、あの大金持ちのお嬢様の林が、入社したりして、普通ではない…

 魑魅魍魎の類いと言えば、大げさだが、政治家の娘から、大金持ち…そして、ヤクザまでもが、巣くっているというか…

 どう考えても、まともではない…

 普通ではない…

 私は、考える。

 と、そこまで、考えて、ふと気付いた…

 この稲葉五郎は、ヤクザ界のスターと持ち上げられ、事実、いかつい顔に、大きなカラダを持って、いかにも、ケンカの強そうなヤクザ者だ…

 しかし、今、杉崎実業の買収について、まるで、経済評論家のような見立てといおうか、意見を口にした…

 なにより、オレも、杉崎実業を買収しようとしたが、止めたと、言った…

 と、なると、やはり、ただのヤクザ者ではない…

 ただのケンカに強いヤクザ者ではない…

 …経済ヤクザ?…

 私の脳裏に、ふいに、そんな言葉が浮かんだ…

 そんなことを、考えていると、

 「…お嬢…一体なにを考えてるんです?…」

 と、稲葉五郎が、優しく私に声をかけた。

 私は、慌てて、稲葉五郎の顔を見た…

 稲葉五郎は、ごつい顔だが、なぜか、ニッコリと、私に優しく微笑んでる。

 だから、私も、つい気を許して、

 「…いえ、高雄さんのお父様と、一度お会いしたことがありますが、サラリーマンのような穏やかな方で、杉崎実業の買収をされたと聞いても、驚かないんですが、稲葉さんは…」

 と、そこまで、言って、これ以上は、マズいと判断した…

 明らかに、稲葉五郎の顔色が変わったのだ…

 私は、恐怖した…

 私もまた稲葉五郎同様、顔色が変わった…

 しかし、これは、稲葉五郎と違って、恐怖のためだ…

 そして、稲葉五郎の場合は、明らかに、怒りのためだった…

 私が、高雄の父親が、サラリーマンのような方だから、杉崎実業を買収しても、驚かないが、稲葉さんは…

 と、言ったのを、聞いて、プライドを傷つけられたに違いない…

 稲葉五郎は、誰が、どう見ても、ただのヤクザ者…

 しかしながら、稲葉五郎自身は、その評価は、不本意なのかもしれない…

 だが、私が、恐怖で、引きつった顔を見せたことで、稲葉五郎は、自分の感情を抑えることができた…

 見る見る、表情が、穏やかに、変化した…

 それから、すぐに、

 「…お嬢…怖がらせて、スイマセン…」

 と、私に詫びた…

 「…自分でも、いい歳をして、大人げないと思うんですが、つい自分のことを、昔ながらのヤクザ者と言われると、頭にくるというか…」

 「…」

 「…いや、ヤクザ者は、ヤクザ者に間違いはないんですが、結構、この業界も変わってきて…要するに、金儲けができない人間は、ダメなわけです…」

 「…金儲け…」

 「…ハイ…金儲けです…」

 稲葉五郎が、即答する。

 「…オレも、高雄の兄貴も同じですが、ヤクザといっても、食わなきゃいけません…まして、オレや高雄の兄貴のように一家を張れば、自分の配下の面倒をみなければ、なりません…会社を経営するのと、同じです…」

 「…会社を経営するのと、同じ…」

 「…その通りです…よく芸能人が、それまでいたプロダクションから独立して、個人事務所を立ち上げるでしょ? それと似ています…オレらの業界も、なになに組にいるときは、幹部クラスなら、話は別ですが、下っ端でいれば、飯は食わせてもらえます…ただ、上の言う通りに動けばいい…だけど、自分が独立して、組を持てば、当然、配下の人間を食わせていかなきゃいけなくなる…芸能人も同じでしょ? 大手のプロダクションにいるときは、自分についているマネージャーも当然、プロダクションの所属ですから、自分が、マネージャーの給与を出すわけではない…でも、独立すれば、自分が経営者になるわけだから、自分の稼ぎから、マネージャーの給与も出さなければ、ならない…マネージャーだけじゃない、事務所の事務員、その他諸々の給与を稼ぎ出さなければならない…それと同じです…」

 稲葉五郎が理路整然と説明する。

 私は、稲葉五郎の言うことが、よくわかった…

 と、同時に、やはり、バカでは、ヤクザとて、上に上がれない…

 いや、

 むしろ、ヤクザだから、上に上がれないのでは? と、考えた。

 ヤクザは実力社会…

 下っ端でいるときは、ただケンカが強ければ、いい…

 だが、上に上がれば、上がるほど、経営能力といおうか、金を稼ぐ才能が必要になる…

 ヤクザ映画ではないのだから、そう滅多にヤクザ同士の抗争なんて、あるわけがない…

 あるのは、日常…

 昨日と同じ、平凡というか、平穏な日常に他ならない…

 むしろ、抗争があるのが、異常というか、非日常だろう…

 これは、例えば、ボクシングでも、相撲でも同じ…

 いわゆる、本番と言うか、試合がある日は、滅多になく、普段は、ジムや相撲部屋で、練習や稽古をしてるだけ…

 そして、それが、日常であり、試合がある日が、非日常となる…

 それと同じだろう…

 私は、思った…

 「…お嬢は、オレを見て、根っからのヤクザ者と思ったのかもしれませんが、オレとて、チャカを持って、修羅場をくぐったのは、それほど多くありません…」

 稲葉五郎が、以外なことを言った…

 「…ヤクザ映画じゃありません…他団体との抗争なんて、滅多にあるものじゃありませんし、仮にあったとしても、上にいる人間は、現場に出ることは、ありません…」

 「…現場に出ることはない? どういう意味ですか?…」

 「…ほら、戦争に例えれば、上にいる人間は、司令官です…参謀本部に所属していると、考えればいい…参謀本部だから、地図を広げて、あれこれ、作戦を考えるだけ…実際の戦闘は、現場の人間がやります…」

 稲葉五郎が、いかつい顔に似合わず、意外なことを言った…

 「…この世界に入った人間は、大昔は、ヤクザ映画に憧れて、入ってきた人間が多かったです…でも、入ってみて、すぐに映画と現実のヤクザ社会は違うと、誰もがわかった…でも、だからといって、すぐにやめることはできない…だから、オレもこの歳まで、続けてきた…それが、現実です…高雄の兄貴も同じでしょう…」

 「…」

 「…まあ、オレも高雄の兄貴もたまたま、この業界に適性というか、自分で言うのも、なんだけど、周囲の評価が高かった…それも大きいと思う…」

 稲葉五郎が、照れたように、言った…

 そして、続けた…

 「…でも、今の時代は、これまでとは、また違って、変化が激しい…だから、ヤクザを続けるのであれ、続けないのであれ、常に、周囲の動きを読むというか…」

 稲葉五郎が、続ける。

 そして、稲葉五郎が、チラリと、前の座席座る、二人の若い衆に、視線を送るのを見た…

 それで、私も、ようやく気付いた…

 私は、ここまで、話して、ようやく、稲葉五郎が、私でなく、このミニバンを運転する若い衆と、その隣に座った、若い衆に、語っていることがわかった…

 おそらくは、私との会話にかこつけて、若い衆に、教えているのだろう…

 自分の体験を、話しているのだろう…

 誰もがそうだが、自分の体験ほど、身になるものはない…

 どんな、高尚な理論もなにも、自分が体験したことには、叶わないというか…

 要するに、血肉にならないのだ…

 自分が体験したからこそ、説得力を持って、他人に語ることができる…

 失礼ながら、ヤクザの場合は、わかりやすいのは、刑務所の体験だろう…

 いかに、刑務所の生活が過酷なものか、身をもって体験したからこそ、切々と、他人に語ることができる…

 なにより、体験したからこそ、話に説得力がある…

 そして、なにより、この稲葉五郎という男は、身内思いというか、優しいのだろう…

 私に話すフリをして、自分の若い衆に、自分の体験を語っている…

 そのごつく、いかつい顔にかかわらず、案外性根が、優しいのかもしれない…

 私は、ふと、思った…

 いや、なにより、それが、事実だろう…

 そして、案外、自分の下の者から、慕われているのでは? と、気付いた…

 私に話すフリをして、うまく、自分の若い衆に、自分の体験を聞かせている…

 若い衆もバカでなければ、稲葉五郎が、自分たちに、話して聞かせているのが、わかるに違いない…

 なにより、気配りができている…

 稲葉五郎の言葉は乱暴だが、自分たちのことを、大切に思っているのが、わかるに違いない…

 そう考えれば、稲葉五郎のことを、嫌いになれない…

 誰もが、そうだが、自分を大切に思ってくれる人間を、嫌いになれないからだ…

 私は、考える。

 「…お嬢…」

 と、稲葉五郎が、いきなり、私に声をかけたことで、私の思考が停止した…

 「…なんでしょうか?…」

 私は、尋ねる。

 そして、やはり、顔を見て話さなければ、稲葉五郎に失礼だと思い、稲葉五郎の顔を見た…

 稲葉五郎は、私の顔を見て、これまでと、同じように、ニッコリと、微笑んだ…

 いや、

 これまで以上に、ニッコリと、優しく微笑んだ…

 「…お嬢も、これからの人生、恋をしたり、色々と楽しいことも、あると思います…ですが、これだけは、覚えておいて、下さい…」

 稲葉五郎が、真剣に語る。

 「…どんなときも、必ず、自分の味方を作って下さい…」

 「…味方ですか?…」

 …意外なことを言う…

 …どういう意味だろう?…

 「…そう…味方です…一人で、構いません…たった一人でも、構いませんから、自分のために親身になって、心配してくれる人間を、身近に作って下さい…それは、男でも女でも、構いません…付き合ってる彼氏でも、身近にいる女友達でも、なんでも、構いません…それが一人でもいれば、お嬢も楽しいし、お嬢の人生も、楽しくなっていきます…」

 稲葉五郎が、言葉に力を込める。

 力説する。

 「…ヤクザ者のこのオレが、こんなことをいうのは、おかしいのかもしれませんが、オレも昔は、高校を出て、一時ですが、会社に入ったことがあります…」

 意外なことを、口にした…

 「…オレが、会社に入ったときは、いわゆるバブル景気で、日本中が、好景気に湧いていました…誰もが浮かれていたというか…オレが入った会社でも、オレレベルの人間が、一目見て、それまでに入社した人間と違って、オレたちと同じ時期に、入社した人間は、レベルが格段に落ちていることがわかりました…」

 「…」

 「…そんな中で、入社したてのぺーぺーのオレから見ても、明らかに、この好景気が終われば、オマエは、クビを切られるよ、という人間を男女問わず、大勢見ました…そして、それに気付いている人間も、もちろん、大勢いたに違いません…ですが、誰もそれを、そいつらに教えようとは思いません…野球で言えば、最初から戦力外というか、要するに数合わせで、とりあえず、今景気がいいから、採用しておけば、将来なにかの役に立つだろうぐらいのノリです…」

 「…」

 「…オレは、それを見ているのが、嫌でした…当時、会社を辞めたのは、それが、一番の理由ですが、なにも言ってもらえない人間を見ているのが、なにより苦痛でした…そして、なにも言ってもらえない人間の方が、オレは将来出世するとか、ありえないことを、口にしてました…」

 「…」

 「…ですから、誰もがそうですが、自分に親身になって考えてもらえる人間を、一人は作ってもらいたいんです…そいつらは、大半が、バブルが弾けてすぐに、クビになったか、すぐにクビにならないまでも、一生ぺーぺーのままでしょう…最初から、先がありません…」

 「…」

 「…オレが、そいつらを見て、学んだのは、頭が悪ければ、悪いほど、性格も悪く、そのくせ、上昇志向というか、出世欲が強いという事実です…ヤクザ者のオレが言うのも、変ですが、どんな世界にいても、そいつらが、出世するとかは、ありえないでしょう…ですが、誰かが、教えてくれれば、あるいは、10人に一人、20人に一人でも、自分の置かれた立場に気付いたというか…」

 「…」

 「…変な話、オレがヤクザになって、この世界に入った以上の衝撃が、あの時代でした…お嬢に、長々とつまらない話をして、申し訳ありません…」

 稲葉五郎が、私に頭を下げた。

 私も、反射的に、稲葉五郎に、頭を下げた。

 稲葉五郎の話は、痛いほど、わかった…

 この手の話は、父から何度も、聞いたことがあるからだ…

 私の父も、この稲葉五郎も、歳は、5歳は優に違うが、ほぼ同世代…

 ほぼ同じ世代で、同じ時代に生きたというか、体験したから、この手の体験が、強烈だったに違いない…

 稲葉五郎が言うように、ヤクザになっても、これ以上、驚いた体験はなかったに違いない…

 当然、ヤクザになれば、バブル期とは比較にならない修羅場は、くぐっているに違いない…

 だが、ヤクザだ…

 最初から、ヤクザとは、こういうものという、わりきりというか、達観があるに違いない…

 だから、例えばドンパチがあっても、驚かないというか…

 しかし、稲葉五郎が、言ったように、普通の会社に入社して、どう見ても、それまでに、その会社に入社した人間と、レベルが格段に落ちても、それに気付かない人間というのは…

 ありえないというか…

 信じられない(笑)…

 そして、そんな人間たちを間近に見ているのが、稲葉五郎は、嫌だったのだろう…

 だからこそ、私や、前の座席にいる、自分の組の若い衆に、そんな体験をさせたくないのだろう…

 そして、もし、私や、若い衆が、そんな立場になったら?

 そしたら、自分の身を親身になって、心配してくれる、会社の同僚でも、恋人でも、友達でも、いれば、違うと言いたかったのだろう…

 それゆえ、わざと、長々と、自分の体験を話したに違いない…

 私は、そう思った…
 
 そして、そんなことを、考えていると、やがて、クルマは、杉崎実業に、到着した…

                
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