第142話
文字数 6,615文字
…宋国民?…
その名前は聞いたことがある…
たしか、以前、この高雄悠(ゆう)が、電話で、亡くなった古賀会長の本名が、宋国民という名前の中国人だと言った…
また、あの女優の渡辺えりに似た、町中華の女将さんが、稲葉五郎を指して、宋国民と呼んだこともある…
そして、今、この高雄悠(ゆう)が、宋国民と、大場に呼ばれた…
これは、一体、どういうことだ?
私は、考えた…
「…悠(ゆう)さん、アナタこそ、中国政府のスパイ…アナタは、中国政府に情報を売って、うまく、やっているつもりかもしれなかったけど、周囲は、みんな気付いていた…」
「…」
「…アナタは、うちにも出入りするし、いずれは、高雄組を、真っ当な会社にしたい夢を持っていた…そこへ、中国政府が近づいた…アナタは、中国政府を利用して、杉崎実業、そして、高雄組を、映画のゴッドファーザーのように、正業にしたかった…その野心を、中国政府が利用した…」
「…どういうこと?…」
と、私が、つい口を挟んだ…
「…宋国民というコードネームを与えられて、いろんな情報を流した…パパや、高雄組の内部情報、そして、山田会内部のゴタゴタもね…悠(ゆう)さんとしては、中国政府との実績を作って、いずれは、高雄組が、正業に生まれ変わるときに、後ろ盾になってもらう心積もりというか、打算があってのことだったけど、真逆に、中国政府に利用された…」
「…利用された?…」
「…パパも高雄さんも、ある時期から、悠(ゆう)さん、アナタを疑い出した…でも、子供の頃から、高雄さんは、溺愛しているから、今さら、叱ることもできない…それに、悠(ゆう)さんの目的が、高雄組が、いずれは、真っ当な正業に衣替えを目指しているのも、わかっていた…だから、叱れなかった…」
…そうか?…
…だからか?…
私は、今さらながら、気付いた…
以前、この高雄悠(ゆう)は、亡くなった古賀会長が、宋国民という名前の中国人で、命からがら、終戦時に満州(中国東北部)から、逃げてきたことが、ヤクザになった原点だと言った…
私は、それを信じたし、正直、真に受けたが、今、冷静に考えると、おかしい…
内容うんぬんをいうのではなく、どうして、高雄悠(ゆう)が、それを知ったか、だ…
高雄は、古賀会長から聞いたと言っていたが、古賀会長本人ならば、言わないようなことまで、言っていた…
それは、自分が、中国のスパイだったということだ…
たとえ、古賀会長から見れば、孫同然の存在だったかもしれない悠(ゆう)だったが、いくらなんでも、当事者が、孫同然の存在だったとはいえ、自分が、スパイであることを告げるのは、おかしい…
冷静に考えれば、スパイだという人間こそ、怪しい…
誰それが、スパイだという人間こそ、自分が、スパイだという可能性が高い(笑)…
はっきり言えば、自分がスパイの疑いをかけられれば、アイツこそスパイだと告発するのが、一番の逃げ道に他ならない…
他者を告発することで、自分が、スパイだと、怪しまれないためだ…
私は、ようやく、その事実に気付いた…
「…だったら、大場さんが、刺されたのは?…」
「…アレは、事実よ…私が刺した…」
「…敦子が?…」
「…アナタが、高雄さんの自殺について、パパを罵って、部屋を飛び出した後、パパの部屋に行った…それで、悠(ゆう)さんとの結婚を、持ち出されて、こっちも頭にきて、…血が繋がった娘ならば、ヤクザの息子と、結婚なんて、させないでしょって、啖呵を切って…近くにあったカッターで、軽く、父を切りつけたの?…」
「…どうして、そんな?…」
思わず、私も呟いた…
「…パパを試す意味もあった…」
大場がしんみりと言った…
「…パパに切りつけたら、どういう反応をするか、試す意味もあった…」
「…でも、どうして、それが、高雄さんが、切りつけたことにしたの?…」
「…やはり、私が可愛かったこともあるだろうし…それに、悠(ゆう)さんのせいにすれば、悠(ゆう)さんを救える…」
「…ボクを救える? どういうこと?…」
「…警察に捕まれば、身の安全が、保障される…アナタ、だいぶまずいのよ…」
「…マズい?…」
「…やり過ぎたっていうか…用済みなのよ…」
…用済みって?…
すごいことを言う…
私は、思った…
「…中国政府はアナタを見切ったの…だって、アナタを利用するつもりならば、杉崎実業の一件で、裏から、もっと手を回せるはず…もっと、事を荒らげることなく、着地点というか、落としどころを探すことも可能だった…」
大場敦子の言葉に、高雄悠(ゆう)は、黙りこくった…
しばし、沈黙した後、
「…たしかに、そう言われれば、そうだ…」
と、自分自身を納得させるように、言った…
「…杉崎実業が、実は、中国に不正に製品を輸出していると、世間に暴露する前に、うまく手を打つなり、方法は、あっただろう…結果、高雄組は、100億円以上、投資したにもかかわらず、戻ってくる金は、40億円…三分の一にも、満たない…まさに、大損だ…」
高雄が力なく呟く。
「…アナタはお坊ちゃまなのよ…悠(ゆう)さん…」
大場は容赦なかった…
「…以前、林も言っていたけど、悠(ゆう)さん…アナタはルックスも良く、頭もいい…でも、その自分の能力を過信しすぎてる…」
「…過信? …ボクが?…」
「…自信を持ちすぎている…調子に乗り過ぎている…だから、周囲の人間は、ハラハラと、悠(ゆう)さんを見ていた…」
「…どういう意味?…」
「…悠(ゆう)さん、アナタは、アナタなりのやり方で、高雄のオジサンと、稲葉さんの仲を取り持とうとか、あるいは、うまく事を荒立てることなく、うまく二人の関係を修復と言うか、溝を深めないようにしようしていたというか…」
「…どうして、それが、わかる?…」
「…この竹下さんよ…」
なんと、私?
いきなり、大場が私を名指しした…
「…この竹下さんが、キーマンであることに、気付いたアナタは、竹下さんを取り込もうとした…その動きに、おそらく、みんな気付いた…」
「…みんな?…みんなって、誰だ?…」
「…稲葉さん、高雄さん、うちのパパ、その他諸々よ…」
大場の指摘に、高雄は、
「…」
と、言葉もなかった…
私は、それで、気付いたというか…
あの稲葉五郎が、初めて、私と会った当初から、
「…悠(ゆう)は見た目と違う…」
と、警告した…
つまり、あのときから、すでに、稲葉五郎は、この高雄悠(ゆう)を警戒していたわけだ…
悠(ゆう)は、今、この大場が言ったように、高雄組を真っ当な会社に変貌させる…
映画のゴッドファーザーのように、ヤクザから、実業家に転身する…
それを夢見ていた…
そして、それを知った中国政府が、悠(ゆう)を利用した…
でも、なんで、悠(ゆう)なんだ?
突然、思った…
なんで、悠(ゆう)をスパイにしたんだ?
どうして、悠(ゆう)が、スパイなんだ?
当たり前の疑問が、私の脳裏に浮かんだ…
だから、
「…どうして、高雄さんは、中国のスパイに?…」
と、聞いた…
やはり、この状況だから、小声と言うか、遠慮した感じで、聞いた…
本来ならば、私がしゃしゃり出る場ではないとも、思ったから、余計に声が小さくなった(笑)…
「…古賀の爺さんさ…」
「…古賀さん?…」
私と大場が、同時に声を上げた…
「…爺さんの後継者というか、爺さんの代わりに、ボクが選ばれたというか…目をつけられた?…」
「…どういうこと?…」
大場が聞いた…
が、
高雄は大場ではなく、私に向かって、
「…以前、竹下さんに、亡くなった山田会の古賀会長は、中国のスパイと言うか、中国政府からの資金を後ろ盾にして、山田会を大きくしたと、電話で、説明したことがあったね…覚えてる?…」
「…ハイ…覚えてます…」
「…アレは、事実だ…」
高雄が、断言した…
「…爺さんは、中国政府の金の力で、山田会を大きくした…が、爺さんは、したたかで、決して、中国政府の言いなりにならなかった…」
「…どういう意味?…」
と、大場…
「…要するに、利用することは、利用するが、やりたくないことは、のらりくらりとかわして、やらなかった…爺さんには、そういう芸当ができた…それは、爺さん自身の力もあるし、やはり、山田会の会長という力も大きかった…いざとなれば、中国政府と戦争とまではいかないが、容易に言いなりにならない力を持っていた…」
高雄がしんみりと、続ける…
「そうは言いながらも、爺さんと中国政府は、互いが、持ちつ持たれつの関係だった…が、その爺さんが、歳をとり、中国政府は、山田会で、爺さんの代わりになる人間を必要となった…山田会はなんといっても、日本で、二番目に大きな暴力団…その影響力は大きい…だから、その内部で、爺さんの代わりになる存在を探した…でも、稲葉さんも、うちのオヤジも首を縦に振らなかった…そこで、中国政府は、ボクに目を付けた…」
「…高雄さんに?…」
つい、言ってしまった…
「…ボクが、高雄組を解散して、将来は、堅気の会社にしたいという夢を、あちこちで、話していたから、それをどこかで、聞いたんだろう…ボクを利用できると思ったに違いない…一方、ボクは、ボクで、高雄組を解散して、堅気の会社にする夢を実現するときに、中国政府とのパイプがあれば、なにかと有利だと思った…なにより、古賀の爺さんの成功例が、身近にあったからね…」
「…古賀さんの成功例?…」
と、大場…
「…爺さんは、山田会を大きくするのに、中国からの資金で、武器・弾薬を買って、武装強化した…その成功を聞かされたし、同じように、自分もできると思った…」
高雄が言った…
「…でも、できなかった…」
高雄が悔しそうに言う…
「…爺さんとボクとでは、時代も違う…器も違う…ボクは、ただの勉強ができる人…それだけの人間だった…」
私は、高雄の告白を聞きながら、考えた…
だから、高雄は私に連絡をしてきたんだ…
今さらながら、考えた…
どうして、部外者である、私、竹下クミに、高雄は、電話をしてきたのか?
それが、謎だった…
どうして、私に亡くなった古賀会長が、中国のスパイだったことまで、伝えたのか、意味がわからなかった…
わざわざ、そんなことまで、私に伝える必要はないからだ…
おそらくは、古賀会長が、中国のスパイだったと伝えることで、自分が、スパイでないことを偽装できると思ったのではないか?
さっきも言ったが、自分が、スパイだと疑われたときに、真っ先に、アイツこそ、スパイだと、相手に告げることが、もっとも、効果的な自己防衛に他ならない…
日本共産党の野坂参三が、その好例だ…
スパイだと疑われた、野坂は、真っ先に、共産党の自分の仲間をスパイだと讒言(ざんげん)して、自らの身を守った…
結果、スパイでもなんでもない人間が、スパイとして処刑された…
自分が、スパイだと疑われないようにするには、どうすればよいか、その好例だ…
私は、思った…
が、
疑問がある…
今、この高雄悠(ゆう)は、中国政府が、古賀会長の代わりに、稲葉五郎や、高雄組組長を、後継者として、スパイにしようとして、断られたと言った…
しかし、以前、あの女優の渡辺えりに似た、町中華の女将さんは、稲葉五郎のことを、宋国民と呼んだ…
アレは、一体、どういう意味なんだろう?
私は、思った…
だから、
「…宋国民って、たしか、あの町中華の女将さんも、稲葉さんのことを、そう呼んでいたけど…」
私は、遠慮がちに言った…
すると、すぐに、私の言葉に、大場が反応した…
「…たしかに、言った…でも、あの意味は、おそらく…」
今度は、大場が遠慮がちに言った…
大場はあの場に、私と女将さんと、稲葉五郎と、いっしょにいた…
だから、あの場所にいた、当時者の一人だ…
ゆえに、鮮明にあの光景を覚えているのだろう…
「…おそらく、なに?…」
私は、大場を促した…
「…女将さんは、稲葉のオジサンに鎌をかけたんだと思う…」
「…鎌をかけたって? …罠に嵌めようとしたってこと?…」
私の言葉に、大場は、無言で、首を縦に振って、頷いた…
「…宋国民は、古賀のお爺さんの本名で、間違いはない…だから、わざと、女将さんは、稲葉のオジサンに、宋国民という名前を、ぶつけたんだと思う…」
遠慮がちに、大場は説明した…
「…どうして、女将さんは、そんなことを?…」
私は、聞いた…
「…稲葉のオジサンの正体がわからない…」
大場が、考え考え、告白した…
「…正体?…」
「…亡くなった古賀会長も、稲葉さんの正体が、謎だったみたい…だから、女将さんは、わざとあの場で、宋国民と、稲葉のオジサンを呼んだ…どういう反応を示すのか、知りたかったみたい…女将さんは、古賀会長の身内も同然だから、古賀さんが亡くなって、稲葉さんが、山田会の会長に就任するのが、確実になって、それまで、古賀さんが、持っていた中国コネクションとか、その他諸々のこともあって、どうなるか、心配だったみたい…」
「…それって、あの女将さんが、中国のスパイだったってこと?…」
「…それは、わからないけど…古賀さんのことを、誰よりも心配していたのは、あの女将さんだった…結局、古賀さんも、稲葉さんの正体は、わからずじまい…だから、おそらく、最後の最後になって、稲葉さんの正体を知りたくなったのが、あの行動になって、現れたんだと思う…古賀さんが、最後まで、後継者を稲葉さんに決定しなかったわけも、それだった…言葉は悪いけど、どこの馬の骨だか、最後まで、わからなかった…」
大場が告白する…
私は、大場の告白に仰天した…
文字通り、仰天した…
稲葉五郎の正体が、わからない?…
まさか?…
そんなことが?
そんなことがあるなんて?
いや、
そもそも正体って、なんだ?
それが、わからない…
「…正体ってなに?…」
私は、聞いた…
私の質問に、大場は、驚いた…
しばし、考え込んだ…
それから、ゆっくりと、口を開いた…
「…そうね…正体といっても、意味がわからないでしょうね…そう…たとえば、竹下さん…」
「…私?…」
「…竹下さんの経歴を追えば、どこそこの小学校、中学校を出ている、そういう足跡がある…」
「…どういうこと?…」
「…つまり、卒業名簿や、同級生がいて、竹下さんが、そこにいた足跡が残っている…」
「…それは、当たり前じゃ?…」
「…当たり前じゃない!…」
大場が強く言った…
「…当たり前じゃない?…」
「…その足跡というか、痕跡というか、見事になにもない人間がいた…それが、稲葉さん…」
「…稲葉さん?…」
「…おそらく、古賀さんも、山田会のひとたちだけじゃなく、中国政府の力を借りて、稲葉さんの正体を探ろうとしたけど、できなかった…正体不明の人間…」
「…」
「…どこの中学校を出て、どこの高校を出たと言っていたけど、そんな人間は、いなかった…あるいは、いても、別人だった…稲葉のオジサンじゃなかった…」
「…そんなこと?…」
私は、大場のあまりにも、意外な話に、言葉を失った…
だったら、一体、あの稲葉五郎は、誰なんだ?
何者なんだ?
まるで、過去のない人間のようだ…
「…だったら、一体、稲葉さんの正体って?…」
私の質問に、
「…おそらく、稲葉のオジサンの正体は?…」
大場が言いかけたときだった…
突如、
ピンポン
と、チャイムが、鳴った…
誰かが、来た合図だった…
私も、大場も高雄も思わず、顔を見合わせた…
「…誰か、来た…」
大場が、言った…
「…誰だろう? こんな時間に…」
大場は戸惑いながら、玄関に行き、モニターを見た…
私と高雄も大場に続いた…
モニターはカラーで、数人の男が映っていた…
ひとりを除いて、どれも見るからに、屈強そうな男たちだった…
それを見て、
「…あ…管理人さん…」
と、大場が言った…
ただ一人の屈強そうでない人物が、管理人なのでは? と、私は、思った…
私も大場も、高雄も、ジッと目を凝らして、モニターを見ていた…
すると、意外にも、その屈強そうな男の中に、私の見知った人物がいた…
葉山だった…
その名前は聞いたことがある…
たしか、以前、この高雄悠(ゆう)が、電話で、亡くなった古賀会長の本名が、宋国民という名前の中国人だと言った…
また、あの女優の渡辺えりに似た、町中華の女将さんが、稲葉五郎を指して、宋国民と呼んだこともある…
そして、今、この高雄悠(ゆう)が、宋国民と、大場に呼ばれた…
これは、一体、どういうことだ?
私は、考えた…
「…悠(ゆう)さん、アナタこそ、中国政府のスパイ…アナタは、中国政府に情報を売って、うまく、やっているつもりかもしれなかったけど、周囲は、みんな気付いていた…」
「…」
「…アナタは、うちにも出入りするし、いずれは、高雄組を、真っ当な会社にしたい夢を持っていた…そこへ、中国政府が近づいた…アナタは、中国政府を利用して、杉崎実業、そして、高雄組を、映画のゴッドファーザーのように、正業にしたかった…その野心を、中国政府が利用した…」
「…どういうこと?…」
と、私が、つい口を挟んだ…
「…宋国民というコードネームを与えられて、いろんな情報を流した…パパや、高雄組の内部情報、そして、山田会内部のゴタゴタもね…悠(ゆう)さんとしては、中国政府との実績を作って、いずれは、高雄組が、正業に生まれ変わるときに、後ろ盾になってもらう心積もりというか、打算があってのことだったけど、真逆に、中国政府に利用された…」
「…利用された?…」
「…パパも高雄さんも、ある時期から、悠(ゆう)さん、アナタを疑い出した…でも、子供の頃から、高雄さんは、溺愛しているから、今さら、叱ることもできない…それに、悠(ゆう)さんの目的が、高雄組が、いずれは、真っ当な正業に衣替えを目指しているのも、わかっていた…だから、叱れなかった…」
…そうか?…
…だからか?…
私は、今さらながら、気付いた…
以前、この高雄悠(ゆう)は、亡くなった古賀会長が、宋国民という名前の中国人で、命からがら、終戦時に満州(中国東北部)から、逃げてきたことが、ヤクザになった原点だと言った…
私は、それを信じたし、正直、真に受けたが、今、冷静に考えると、おかしい…
内容うんぬんをいうのではなく、どうして、高雄悠(ゆう)が、それを知ったか、だ…
高雄は、古賀会長から聞いたと言っていたが、古賀会長本人ならば、言わないようなことまで、言っていた…
それは、自分が、中国のスパイだったということだ…
たとえ、古賀会長から見れば、孫同然の存在だったかもしれない悠(ゆう)だったが、いくらなんでも、当事者が、孫同然の存在だったとはいえ、自分が、スパイであることを告げるのは、おかしい…
冷静に考えれば、スパイだという人間こそ、怪しい…
誰それが、スパイだという人間こそ、自分が、スパイだという可能性が高い(笑)…
はっきり言えば、自分がスパイの疑いをかけられれば、アイツこそスパイだと告発するのが、一番の逃げ道に他ならない…
他者を告発することで、自分が、スパイだと、怪しまれないためだ…
私は、ようやく、その事実に気付いた…
「…だったら、大場さんが、刺されたのは?…」
「…アレは、事実よ…私が刺した…」
「…敦子が?…」
「…アナタが、高雄さんの自殺について、パパを罵って、部屋を飛び出した後、パパの部屋に行った…それで、悠(ゆう)さんとの結婚を、持ち出されて、こっちも頭にきて、…血が繋がった娘ならば、ヤクザの息子と、結婚なんて、させないでしょって、啖呵を切って…近くにあったカッターで、軽く、父を切りつけたの?…」
「…どうして、そんな?…」
思わず、私も呟いた…
「…パパを試す意味もあった…」
大場がしんみりと言った…
「…パパに切りつけたら、どういう反応をするか、試す意味もあった…」
「…でも、どうして、それが、高雄さんが、切りつけたことにしたの?…」
「…やはり、私が可愛かったこともあるだろうし…それに、悠(ゆう)さんのせいにすれば、悠(ゆう)さんを救える…」
「…ボクを救える? どういうこと?…」
「…警察に捕まれば、身の安全が、保障される…アナタ、だいぶまずいのよ…」
「…マズい?…」
「…やり過ぎたっていうか…用済みなのよ…」
…用済みって?…
すごいことを言う…
私は、思った…
「…中国政府はアナタを見切ったの…だって、アナタを利用するつもりならば、杉崎実業の一件で、裏から、もっと手を回せるはず…もっと、事を荒らげることなく、着地点というか、落としどころを探すことも可能だった…」
大場敦子の言葉に、高雄悠(ゆう)は、黙りこくった…
しばし、沈黙した後、
「…たしかに、そう言われれば、そうだ…」
と、自分自身を納得させるように、言った…
「…杉崎実業が、実は、中国に不正に製品を輸出していると、世間に暴露する前に、うまく手を打つなり、方法は、あっただろう…結果、高雄組は、100億円以上、投資したにもかかわらず、戻ってくる金は、40億円…三分の一にも、満たない…まさに、大損だ…」
高雄が力なく呟く。
「…アナタはお坊ちゃまなのよ…悠(ゆう)さん…」
大場は容赦なかった…
「…以前、林も言っていたけど、悠(ゆう)さん…アナタはルックスも良く、頭もいい…でも、その自分の能力を過信しすぎてる…」
「…過信? …ボクが?…」
「…自信を持ちすぎている…調子に乗り過ぎている…だから、周囲の人間は、ハラハラと、悠(ゆう)さんを見ていた…」
「…どういう意味?…」
「…悠(ゆう)さん、アナタは、アナタなりのやり方で、高雄のオジサンと、稲葉さんの仲を取り持とうとか、あるいは、うまく事を荒立てることなく、うまく二人の関係を修復と言うか、溝を深めないようにしようしていたというか…」
「…どうして、それが、わかる?…」
「…この竹下さんよ…」
なんと、私?
いきなり、大場が私を名指しした…
「…この竹下さんが、キーマンであることに、気付いたアナタは、竹下さんを取り込もうとした…その動きに、おそらく、みんな気付いた…」
「…みんな?…みんなって、誰だ?…」
「…稲葉さん、高雄さん、うちのパパ、その他諸々よ…」
大場の指摘に、高雄は、
「…」
と、言葉もなかった…
私は、それで、気付いたというか…
あの稲葉五郎が、初めて、私と会った当初から、
「…悠(ゆう)は見た目と違う…」
と、警告した…
つまり、あのときから、すでに、稲葉五郎は、この高雄悠(ゆう)を警戒していたわけだ…
悠(ゆう)は、今、この大場が言ったように、高雄組を真っ当な会社に変貌させる…
映画のゴッドファーザーのように、ヤクザから、実業家に転身する…
それを夢見ていた…
そして、それを知った中国政府が、悠(ゆう)を利用した…
でも、なんで、悠(ゆう)なんだ?
突然、思った…
なんで、悠(ゆう)をスパイにしたんだ?
どうして、悠(ゆう)が、スパイなんだ?
当たり前の疑問が、私の脳裏に浮かんだ…
だから、
「…どうして、高雄さんは、中国のスパイに?…」
と、聞いた…
やはり、この状況だから、小声と言うか、遠慮した感じで、聞いた…
本来ならば、私がしゃしゃり出る場ではないとも、思ったから、余計に声が小さくなった(笑)…
「…古賀の爺さんさ…」
「…古賀さん?…」
私と大場が、同時に声を上げた…
「…爺さんの後継者というか、爺さんの代わりに、ボクが選ばれたというか…目をつけられた?…」
「…どういうこと?…」
大場が聞いた…
が、
高雄は大場ではなく、私に向かって、
「…以前、竹下さんに、亡くなった山田会の古賀会長は、中国のスパイと言うか、中国政府からの資金を後ろ盾にして、山田会を大きくしたと、電話で、説明したことがあったね…覚えてる?…」
「…ハイ…覚えてます…」
「…アレは、事実だ…」
高雄が、断言した…
「…爺さんは、中国政府の金の力で、山田会を大きくした…が、爺さんは、したたかで、決して、中国政府の言いなりにならなかった…」
「…どういう意味?…」
と、大場…
「…要するに、利用することは、利用するが、やりたくないことは、のらりくらりとかわして、やらなかった…爺さんには、そういう芸当ができた…それは、爺さん自身の力もあるし、やはり、山田会の会長という力も大きかった…いざとなれば、中国政府と戦争とまではいかないが、容易に言いなりにならない力を持っていた…」
高雄がしんみりと、続ける…
「そうは言いながらも、爺さんと中国政府は、互いが、持ちつ持たれつの関係だった…が、その爺さんが、歳をとり、中国政府は、山田会で、爺さんの代わりになる人間を必要となった…山田会はなんといっても、日本で、二番目に大きな暴力団…その影響力は大きい…だから、その内部で、爺さんの代わりになる存在を探した…でも、稲葉さんも、うちのオヤジも首を縦に振らなかった…そこで、中国政府は、ボクに目を付けた…」
「…高雄さんに?…」
つい、言ってしまった…
「…ボクが、高雄組を解散して、将来は、堅気の会社にしたいという夢を、あちこちで、話していたから、それをどこかで、聞いたんだろう…ボクを利用できると思ったに違いない…一方、ボクは、ボクで、高雄組を解散して、堅気の会社にする夢を実現するときに、中国政府とのパイプがあれば、なにかと有利だと思った…なにより、古賀の爺さんの成功例が、身近にあったからね…」
「…古賀さんの成功例?…」
と、大場…
「…爺さんは、山田会を大きくするのに、中国からの資金で、武器・弾薬を買って、武装強化した…その成功を聞かされたし、同じように、自分もできると思った…」
高雄が言った…
「…でも、できなかった…」
高雄が悔しそうに言う…
「…爺さんとボクとでは、時代も違う…器も違う…ボクは、ただの勉強ができる人…それだけの人間だった…」
私は、高雄の告白を聞きながら、考えた…
だから、高雄は私に連絡をしてきたんだ…
今さらながら、考えた…
どうして、部外者である、私、竹下クミに、高雄は、電話をしてきたのか?
それが、謎だった…
どうして、私に亡くなった古賀会長が、中国のスパイだったことまで、伝えたのか、意味がわからなかった…
わざわざ、そんなことまで、私に伝える必要はないからだ…
おそらくは、古賀会長が、中国のスパイだったと伝えることで、自分が、スパイでないことを偽装できると思ったのではないか?
さっきも言ったが、自分が、スパイだと疑われたときに、真っ先に、アイツこそ、スパイだと、相手に告げることが、もっとも、効果的な自己防衛に他ならない…
日本共産党の野坂参三が、その好例だ…
スパイだと疑われた、野坂は、真っ先に、共産党の自分の仲間をスパイだと讒言(ざんげん)して、自らの身を守った…
結果、スパイでもなんでもない人間が、スパイとして処刑された…
自分が、スパイだと疑われないようにするには、どうすればよいか、その好例だ…
私は、思った…
が、
疑問がある…
今、この高雄悠(ゆう)は、中国政府が、古賀会長の代わりに、稲葉五郎や、高雄組組長を、後継者として、スパイにしようとして、断られたと言った…
しかし、以前、あの女優の渡辺えりに似た、町中華の女将さんは、稲葉五郎のことを、宋国民と呼んだ…
アレは、一体、どういう意味なんだろう?
私は、思った…
だから、
「…宋国民って、たしか、あの町中華の女将さんも、稲葉さんのことを、そう呼んでいたけど…」
私は、遠慮がちに言った…
すると、すぐに、私の言葉に、大場が反応した…
「…たしかに、言った…でも、あの意味は、おそらく…」
今度は、大場が遠慮がちに言った…
大場はあの場に、私と女将さんと、稲葉五郎と、いっしょにいた…
だから、あの場所にいた、当時者の一人だ…
ゆえに、鮮明にあの光景を覚えているのだろう…
「…おそらく、なに?…」
私は、大場を促した…
「…女将さんは、稲葉のオジサンに鎌をかけたんだと思う…」
「…鎌をかけたって? …罠に嵌めようとしたってこと?…」
私の言葉に、大場は、無言で、首を縦に振って、頷いた…
「…宋国民は、古賀のお爺さんの本名で、間違いはない…だから、わざと、女将さんは、稲葉のオジサンに、宋国民という名前を、ぶつけたんだと思う…」
遠慮がちに、大場は説明した…
「…どうして、女将さんは、そんなことを?…」
私は、聞いた…
「…稲葉のオジサンの正体がわからない…」
大場が、考え考え、告白した…
「…正体?…」
「…亡くなった古賀会長も、稲葉さんの正体が、謎だったみたい…だから、女将さんは、わざとあの場で、宋国民と、稲葉のオジサンを呼んだ…どういう反応を示すのか、知りたかったみたい…女将さんは、古賀会長の身内も同然だから、古賀さんが亡くなって、稲葉さんが、山田会の会長に就任するのが、確実になって、それまで、古賀さんが、持っていた中国コネクションとか、その他諸々のこともあって、どうなるか、心配だったみたい…」
「…それって、あの女将さんが、中国のスパイだったってこと?…」
「…それは、わからないけど…古賀さんのことを、誰よりも心配していたのは、あの女将さんだった…結局、古賀さんも、稲葉さんの正体は、わからずじまい…だから、おそらく、最後の最後になって、稲葉さんの正体を知りたくなったのが、あの行動になって、現れたんだと思う…古賀さんが、最後まで、後継者を稲葉さんに決定しなかったわけも、それだった…言葉は悪いけど、どこの馬の骨だか、最後まで、わからなかった…」
大場が告白する…
私は、大場の告白に仰天した…
文字通り、仰天した…
稲葉五郎の正体が、わからない?…
まさか?…
そんなことが?
そんなことがあるなんて?
いや、
そもそも正体って、なんだ?
それが、わからない…
「…正体ってなに?…」
私は、聞いた…
私の質問に、大場は、驚いた…
しばし、考え込んだ…
それから、ゆっくりと、口を開いた…
「…そうね…正体といっても、意味がわからないでしょうね…そう…たとえば、竹下さん…」
「…私?…」
「…竹下さんの経歴を追えば、どこそこの小学校、中学校を出ている、そういう足跡がある…」
「…どういうこと?…」
「…つまり、卒業名簿や、同級生がいて、竹下さんが、そこにいた足跡が残っている…」
「…それは、当たり前じゃ?…」
「…当たり前じゃない!…」
大場が強く言った…
「…当たり前じゃない?…」
「…その足跡というか、痕跡というか、見事になにもない人間がいた…それが、稲葉さん…」
「…稲葉さん?…」
「…おそらく、古賀さんも、山田会のひとたちだけじゃなく、中国政府の力を借りて、稲葉さんの正体を探ろうとしたけど、できなかった…正体不明の人間…」
「…」
「…どこの中学校を出て、どこの高校を出たと言っていたけど、そんな人間は、いなかった…あるいは、いても、別人だった…稲葉のオジサンじゃなかった…」
「…そんなこと?…」
私は、大場のあまりにも、意外な話に、言葉を失った…
だったら、一体、あの稲葉五郎は、誰なんだ?
何者なんだ?
まるで、過去のない人間のようだ…
「…だったら、一体、稲葉さんの正体って?…」
私の質問に、
「…おそらく、稲葉のオジサンの正体は?…」
大場が言いかけたときだった…
突如、
ピンポン
と、チャイムが、鳴った…
誰かが、来た合図だった…
私も、大場も高雄も思わず、顔を見合わせた…
「…誰か、来た…」
大場が、言った…
「…誰だろう? こんな時間に…」
大場は戸惑いながら、玄関に行き、モニターを見た…
私と高雄も大場に続いた…
モニターはカラーで、数人の男が映っていた…
ひとりを除いて、どれも見るからに、屈強そうな男たちだった…
それを見て、
「…あ…管理人さん…」
と、大場が言った…
ただ一人の屈強そうでない人物が、管理人なのでは? と、私は、思った…
私も大場も、高雄も、ジッと目を凝らして、モニターを見ていた…
すると、意外にも、その屈強そうな男の中に、私の見知った人物がいた…
葉山だった…