第142話

文字数 6,615文字

 …宋国民?…

 その名前は聞いたことがある…

 たしか、以前、この高雄悠(ゆう)が、電話で、亡くなった古賀会長の本名が、宋国民という名前の中国人だと言った…

 また、あの女優の渡辺えりに似た、町中華の女将さんが、稲葉五郎を指して、宋国民と呼んだこともある…

 そして、今、この高雄悠(ゆう)が、宋国民と、大場に呼ばれた…

 これは、一体、どういうことだ?

 私は、考えた…

 「…悠(ゆう)さん、アナタこそ、中国政府のスパイ…アナタは、中国政府に情報を売って、うまく、やっているつもりかもしれなかったけど、周囲は、みんな気付いていた…」

 「…」

 「…アナタは、うちにも出入りするし、いずれは、高雄組を、真っ当な会社にしたい夢を持っていた…そこへ、中国政府が近づいた…アナタは、中国政府を利用して、杉崎実業、そして、高雄組を、映画のゴッドファーザーのように、正業にしたかった…その野心を、中国政府が利用した…」

 「…どういうこと?…」

 と、私が、つい口を挟んだ…

 「…宋国民というコードネームを与えられて、いろんな情報を流した…パパや、高雄組の内部情報、そして、山田会内部のゴタゴタもね…悠(ゆう)さんとしては、中国政府との実績を作って、いずれは、高雄組が、正業に生まれ変わるときに、後ろ盾になってもらう心積もりというか、打算があってのことだったけど、真逆に、中国政府に利用された…」

 「…利用された?…」

 「…パパも高雄さんも、ある時期から、悠(ゆう)さん、アナタを疑い出した…でも、子供の頃から、高雄さんは、溺愛しているから、今さら、叱ることもできない…それに、悠(ゆう)さんの目的が、高雄組が、いずれは、真っ当な正業に衣替えを目指しているのも、わかっていた…だから、叱れなかった…」

 …そうか?…

 …だからか?…

 私は、今さらながら、気付いた…

 以前、この高雄悠(ゆう)は、亡くなった古賀会長が、宋国民という名前の中国人で、命からがら、終戦時に満州(中国東北部)から、逃げてきたことが、ヤクザになった原点だと言った…

 私は、それを信じたし、正直、真に受けたが、今、冷静に考えると、おかしい…

 内容うんぬんをいうのではなく、どうして、高雄悠(ゆう)が、それを知ったか、だ…

 高雄は、古賀会長から聞いたと言っていたが、古賀会長本人ならば、言わないようなことまで、言っていた…

 それは、自分が、中国のスパイだったということだ…

 たとえ、古賀会長から見れば、孫同然の存在だったかもしれない悠(ゆう)だったが、いくらなんでも、当事者が、孫同然の存在だったとはいえ、自分が、スパイであることを告げるのは、おかしい…

 冷静に考えれば、スパイだという人間こそ、怪しい…

 誰それが、スパイだという人間こそ、自分が、スパイだという可能性が高い(笑)…

 はっきり言えば、自分がスパイの疑いをかけられれば、アイツこそスパイだと告発するのが、一番の逃げ道に他ならない…

 他者を告発することで、自分が、スパイだと、怪しまれないためだ…

 私は、ようやく、その事実に気付いた…

 「…だったら、大場さんが、刺されたのは?…」

 「…アレは、事実よ…私が刺した…」

 「…敦子が?…」

 「…アナタが、高雄さんの自殺について、パパを罵って、部屋を飛び出した後、パパの部屋に行った…それで、悠(ゆう)さんとの結婚を、持ち出されて、こっちも頭にきて、…血が繋がった娘ならば、ヤクザの息子と、結婚なんて、させないでしょって、啖呵を切って…近くにあったカッターで、軽く、父を切りつけたの?…」

 「…どうして、そんな?…」

 思わず、私も呟いた…

 「…パパを試す意味もあった…」

 大場がしんみりと言った…

 「…パパに切りつけたら、どういう反応をするか、試す意味もあった…」

 「…でも、どうして、それが、高雄さんが、切りつけたことにしたの?…」

 「…やはり、私が可愛かったこともあるだろうし…それに、悠(ゆう)さんのせいにすれば、悠(ゆう)さんを救える…」

 「…ボクを救える? どういうこと?…」

 「…警察に捕まれば、身の安全が、保障される…アナタ、だいぶまずいのよ…」

 「…マズい?…」

 「…やり過ぎたっていうか…用済みなのよ…」

 …用済みって?…

 すごいことを言う…

 私は、思った…

 「…中国政府はアナタを見切ったの…だって、アナタを利用するつもりならば、杉崎実業の一件で、裏から、もっと手を回せるはず…もっと、事を荒らげることなく、着地点というか、落としどころを探すことも可能だった…」

 大場敦子の言葉に、高雄悠(ゆう)は、黙りこくった…

 しばし、沈黙した後、

 「…たしかに、そう言われれば、そうだ…」

 と、自分自身を納得させるように、言った…

 「…杉崎実業が、実は、中国に不正に製品を輸出していると、世間に暴露する前に、うまく手を打つなり、方法は、あっただろう…結果、高雄組は、100億円以上、投資したにもかかわらず、戻ってくる金は、40億円…三分の一にも、満たない…まさに、大損だ…」

 高雄が力なく呟く。

 「…アナタはお坊ちゃまなのよ…悠(ゆう)さん…」

 大場は容赦なかった…

 「…以前、林も言っていたけど、悠(ゆう)さん…アナタはルックスも良く、頭もいい…でも、その自分の能力を過信しすぎてる…」

 「…過信? …ボクが?…」

 「…自信を持ちすぎている…調子に乗り過ぎている…だから、周囲の人間は、ハラハラと、悠(ゆう)さんを見ていた…」

 「…どういう意味?…」

 「…悠(ゆう)さん、アナタは、アナタなりのやり方で、高雄のオジサンと、稲葉さんの仲を取り持とうとか、あるいは、うまく事を荒立てることなく、うまく二人の関係を修復と言うか、溝を深めないようにしようしていたというか…」

 「…どうして、それが、わかる?…」

 「…この竹下さんよ…」

 なんと、私?

いきなり、大場が私を名指しした…

 「…この竹下さんが、キーマンであることに、気付いたアナタは、竹下さんを取り込もうとした…その動きに、おそらく、みんな気付いた…」

 「…みんな?…みんなって、誰だ?…」

 「…稲葉さん、高雄さん、うちのパパ、その他諸々よ…」

 大場の指摘に、高雄は、

 「…」

 と、言葉もなかった…

 私は、それで、気付いたというか…

 あの稲葉五郎が、初めて、私と会った当初から、

 「…悠(ゆう)は見た目と違う…」

 と、警告した…

 つまり、あのときから、すでに、稲葉五郎は、この高雄悠(ゆう)を警戒していたわけだ…

 悠(ゆう)は、今、この大場が言ったように、高雄組を真っ当な会社に変貌させる…

 映画のゴッドファーザーのように、ヤクザから、実業家に転身する…

 それを夢見ていた…

 そして、それを知った中国政府が、悠(ゆう)を利用した…

 でも、なんで、悠(ゆう)なんだ?

 突然、思った…

 なんで、悠(ゆう)をスパイにしたんだ?

 どうして、悠(ゆう)が、スパイなんだ?

 当たり前の疑問が、私の脳裏に浮かんだ…

 だから、

 「…どうして、高雄さんは、中国のスパイに?…」

 と、聞いた…

 やはり、この状況だから、小声と言うか、遠慮した感じで、聞いた…

 本来ならば、私がしゃしゃり出る場ではないとも、思ったから、余計に声が小さくなった(笑)…

 「…古賀の爺さんさ…」

 「…古賀さん?…」

 私と大場が、同時に声を上げた…

 「…爺さんの後継者というか、爺さんの代わりに、ボクが選ばれたというか…目をつけられた?…」

 「…どういうこと?…」

 大場が聞いた…

 が、

 高雄は大場ではなく、私に向かって、

 「…以前、竹下さんに、亡くなった山田会の古賀会長は、中国のスパイと言うか、中国政府からの資金を後ろ盾にして、山田会を大きくしたと、電話で、説明したことがあったね…覚えてる?…」

 「…ハイ…覚えてます…」

 「…アレは、事実だ…」

 高雄が、断言した…

 「…爺さんは、中国政府の金の力で、山田会を大きくした…が、爺さんは、したたかで、決して、中国政府の言いなりにならなかった…」

 「…どういう意味?…」

 と、大場…

 「…要するに、利用することは、利用するが、やりたくないことは、のらりくらりとかわして、やらなかった…爺さんには、そういう芸当ができた…それは、爺さん自身の力もあるし、やはり、山田会の会長という力も大きかった…いざとなれば、中国政府と戦争とまではいかないが、容易に言いなりにならない力を持っていた…」

 高雄がしんみりと、続ける…

 「そうは言いながらも、爺さんと中国政府は、互いが、持ちつ持たれつの関係だった…が、その爺さんが、歳をとり、中国政府は、山田会で、爺さんの代わりになる人間を必要となった…山田会はなんといっても、日本で、二番目に大きな暴力団…その影響力は大きい…だから、その内部で、爺さんの代わりになる存在を探した…でも、稲葉さんも、うちのオヤジも首を縦に振らなかった…そこで、中国政府は、ボクに目を付けた…」

 「…高雄さんに?…」

 つい、言ってしまった…

 「…ボクが、高雄組を解散して、将来は、堅気の会社にしたいという夢を、あちこちで、話していたから、それをどこかで、聞いたんだろう…ボクを利用できると思ったに違いない…一方、ボクは、ボクで、高雄組を解散して、堅気の会社にする夢を実現するときに、中国政府とのパイプがあれば、なにかと有利だと思った…なにより、古賀の爺さんの成功例が、身近にあったからね…」

 「…古賀さんの成功例?…」

 と、大場…

 「…爺さんは、山田会を大きくするのに、中国からの資金で、武器・弾薬を買って、武装強化した…その成功を聞かされたし、同じように、自分もできると思った…」

 高雄が言った…

 「…でも、できなかった…」

 高雄が悔しそうに言う…

 「…爺さんとボクとでは、時代も違う…器も違う…ボクは、ただの勉強ができる人…それだけの人間だった…」

 私は、高雄の告白を聞きながら、考えた…

 だから、高雄は私に連絡をしてきたんだ…

 今さらながら、考えた…

 どうして、部外者である、私、竹下クミに、高雄は、電話をしてきたのか?

 それが、謎だった…

 どうして、私に亡くなった古賀会長が、中国のスパイだったことまで、伝えたのか、意味がわからなかった…

 わざわざ、そんなことまで、私に伝える必要はないからだ…

 おそらくは、古賀会長が、中国のスパイだったと伝えることで、自分が、スパイでないことを偽装できると思ったのではないか?

 さっきも言ったが、自分が、スパイだと疑われたときに、真っ先に、アイツこそ、スパイだと、相手に告げることが、もっとも、効果的な自己防衛に他ならない…

 日本共産党の野坂参三が、その好例だ…

 スパイだと疑われた、野坂は、真っ先に、共産党の自分の仲間をスパイだと讒言(ざんげん)して、自らの身を守った…

 結果、スパイでもなんでもない人間が、スパイとして処刑された…

 自分が、スパイだと疑われないようにするには、どうすればよいか、その好例だ…

 私は、思った…

 が、

 疑問がある…

 今、この高雄悠(ゆう)は、中国政府が、古賀会長の代わりに、稲葉五郎や、高雄組組長を、後継者として、スパイにしようとして、断られたと言った…

 しかし、以前、あの女優の渡辺えりに似た、町中華の女将さんは、稲葉五郎のことを、宋国民と呼んだ…

 アレは、一体、どういう意味なんだろう?

 私は、思った…

 だから、

 「…宋国民って、たしか、あの町中華の女将さんも、稲葉さんのことを、そう呼んでいたけど…」

 私は、遠慮がちに言った…

 すると、すぐに、私の言葉に、大場が反応した…

 「…たしかに、言った…でも、あの意味は、おそらく…」

 今度は、大場が遠慮がちに言った…

 大場はあの場に、私と女将さんと、稲葉五郎と、いっしょにいた…

 だから、あの場所にいた、当時者の一人だ…

 ゆえに、鮮明にあの光景を覚えているのだろう…

 「…おそらく、なに?…」

 私は、大場を促した…

 「…女将さんは、稲葉のオジサンに鎌をかけたんだと思う…」

 「…鎌をかけたって? …罠に嵌めようとしたってこと?…」

 私の言葉に、大場は、無言で、首を縦に振って、頷いた…

 「…宋国民は、古賀のお爺さんの本名で、間違いはない…だから、わざと、女将さんは、稲葉のオジサンに、宋国民という名前を、ぶつけたんだと思う…」

 遠慮がちに、大場は説明した…

 「…どうして、女将さんは、そんなことを?…」

 私は、聞いた…

 「…稲葉のオジサンの正体がわからない…」

 大場が、考え考え、告白した…

 「…正体?…」

 「…亡くなった古賀会長も、稲葉さんの正体が、謎だったみたい…だから、女将さんは、わざとあの場で、宋国民と、稲葉のオジサンを呼んだ…どういう反応を示すのか、知りたかったみたい…女将さんは、古賀会長の身内も同然だから、古賀さんが亡くなって、稲葉さんが、山田会の会長に就任するのが、確実になって、それまで、古賀さんが、持っていた中国コネクションとか、その他諸々のこともあって、どうなるか、心配だったみたい…」

 「…それって、あの女将さんが、中国のスパイだったってこと?…」

 「…それは、わからないけど…古賀さんのことを、誰よりも心配していたのは、あの女将さんだった…結局、古賀さんも、稲葉さんの正体は、わからずじまい…だから、おそらく、最後の最後になって、稲葉さんの正体を知りたくなったのが、あの行動になって、現れたんだと思う…古賀さんが、最後まで、後継者を稲葉さんに決定しなかったわけも、それだった…言葉は悪いけど、どこの馬の骨だか、最後まで、わからなかった…」

 大場が告白する…

 私は、大場の告白に仰天した…

 文字通り、仰天した…

 稲葉五郎の正体が、わからない?…

 まさか?…

 そんなことが?

 そんなことがあるなんて?

 いや、

 そもそも正体って、なんだ?

 それが、わからない…

 「…正体ってなに?…」

 私は、聞いた…

 私の質問に、大場は、驚いた…

 しばし、考え込んだ…

 それから、ゆっくりと、口を開いた…

 「…そうね…正体といっても、意味がわからないでしょうね…そう…たとえば、竹下さん…」

 「…私?…」

 「…竹下さんの経歴を追えば、どこそこの小学校、中学校を出ている、そういう足跡がある…」

 「…どういうこと?…」

 「…つまり、卒業名簿や、同級生がいて、竹下さんが、そこにいた足跡が残っている…」

 「…それは、当たり前じゃ?…」

 「…当たり前じゃない!…」

 大場が強く言った…

 「…当たり前じゃない?…」

 「…その足跡というか、痕跡というか、見事になにもない人間がいた…それが、稲葉さん…」

 「…稲葉さん?…」

 「…おそらく、古賀さんも、山田会のひとたちだけじゃなく、中国政府の力を借りて、稲葉さんの正体を探ろうとしたけど、できなかった…正体不明の人間…」

 「…」

 「…どこの中学校を出て、どこの高校を出たと言っていたけど、そんな人間は、いなかった…あるいは、いても、別人だった…稲葉のオジサンじゃなかった…」

 「…そんなこと?…」

 私は、大場のあまりにも、意外な話に、言葉を失った…

 だったら、一体、あの稲葉五郎は、誰なんだ?

何者なんだ?

 まるで、過去のない人間のようだ…

 「…だったら、一体、稲葉さんの正体って?…」

 私の質問に、

 「…おそらく、稲葉のオジサンの正体は?…」

 大場が言いかけたときだった…

 突如、

 ピンポン

 と、チャイムが、鳴った…

 誰かが、来た合図だった…

 私も、大場も高雄も思わず、顔を見合わせた…

 「…誰か、来た…」

 大場が、言った…

 「…誰だろう? こんな時間に…」

 大場は戸惑いながら、玄関に行き、モニターを見た…

 私と高雄も大場に続いた…

 モニターはカラーで、数人の男が映っていた…

 ひとりを除いて、どれも見るからに、屈強そうな男たちだった…

 それを見て、

 「…あ…管理人さん…」

 と、大場が言った…

 ただ一人の屈強そうでない人物が、管理人なのでは? と、私は、思った…

 私も大場も、高雄も、ジッと目を凝らして、モニターを見ていた…

 すると、意外にも、その屈強そうな男の中に、私の見知った人物がいた…

 葉山だった…

               
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