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文字数 946文字

(どれくらいの時間が経過したのだろう)

 彼の目が薄く開いた。
 薄暗がりの中、自分が硬くひんやりした板張りの床の上に、右の頬を押し付けて倒れていることに気づいた。
 殴られた頭にはまだ鈍い痛みがある。目だけを走らせた。

 すぐそばにダイニングテーブルの脚がある。
 部屋の中は静まり返り、エアコンのノイズだけが通奏低音のように耳を捕らえていた。
 まさに鉛を思わせる重たい身体をよじり、まず辛うじて上半身を起こした。
 床に両手をつき力を込め、ふらつきながらゆっくりと立ち上がり、壁を伝いつつ何とか電灯のスイッチまでたどり着くと、明かりを入れた。

 テーブルの上はクロスが大きくずれて、白いティーポットが倒れている。中身はなかったようだが、ふたはどこかに消えている。
 システムキッチン側の床は、赤い包装のスティックシュガーと白いマーガレットの花が散乱していた。

 膝に手をつき、一息入れてからそばの壁にその手を伸ばしてふらふらと沙織の部屋へ足を向けた。扉は開いているが、中は電灯がついていない。

「沙織」
 声になっていたかどうかは定かではない。
 何度か彼女の名前を呼びながら、彼は部屋の中へ踏み入れた。
 中は暗いが、微かに月の光がさし込んでいるのか、ベッドの上にある影の大きさ、形から彼女だと分かった。
 彼女はようやく裕丈に気づいたのだろうか。消え入るような、か細い声でいった。

「……さい……」
「沙織?」
 立ち止まって彼女に目を凝らした。
「……めんなさい……」

 彼女は横向きになって丸まって眠るようにしていたが、その足が黒光りしている。
 それがショートブーツと分かるまでは、少し時間がかかった。
「沙織、どうしたの?」
「……ごめんなさい……」
身を硬くしている彼女の両足からブーツを脱がせた。それらを手に玄関に持って行こうとしたそのとき、沙織は熱にうなされ独り言ちるように、つぶやいた。

「蜂が……蜂が何匹も寄ってたかってきて……私一人じゃ、どうすることもできなかった」
 彼女のむき出しになった肩が小刻みに震えている。
 毛布をその上に掛けてやったが、それが寒さのせいなのか、恐怖のせいなの、あるいは泣いているせいなのかは分からなかった。
 その夜を境に、彼女の顔から、人懐っこい笑みが完全に消え去ってしまったのだった。
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