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文字数 1,579文字


 翌朝まで真白はそのまま、一兵のマンションで睡眠を取ったのだった。

 一兵の淹れたドリップコーヒーを飲みながら、母親に電話を入れる。
 飯村兄妹の両親は二年ほど前に死別し、以来、母親は自身の生まれ故郷であるK県内で自分の親の介護をしていた。
 夕べあったことを事細かに話すと、母親を大いに心配させてしまうので、省吾は酔っ払って階段から落ちて怪我をしたことにした。
「ばっかだよねえ」と真白はいって母親の笑いを引き出そうとしたが、かえって胸が痛んだ。

 一兵と警察署へ出向いて事件のあらましを伝えたあと、午前中のうちに警察の現場検証の立ち合いがあった。それから昼食をはさんで一兵と省吾の入院先に向かった。
 病室に入ると、省吾は腫れた瞼を薄く見開き黙って天井をにらんでいた。
 痛くて動かせないのだろう。白い包帯で完全に覆われた左手が、ずっとそこに力なく横たわっていた。

「ショーゴ」
 一兵が声を掛けると、省吾は目だけをこちらに向けた。
「大丈夫か?」
「一兵か。……今、痛み止めの薬を飲んでるけど、あまり効いてないな」

 真白は一兵の横に並ぶと、やや伏し目がちにした。傷だらけの兄が直視できなかったのだった。
「おう、真白。何とか無事だったか?」
 真白は、黙って頷いた。
 省吾も、既に警察関係者と話をしたらしい。

「ここで朝飯食ったあとくらいかな、刑事が二人組で来やがった」
 昨夜のアパートであったことを一通り話したと、彼はいった。
「こんなご時世に、深夜に一人で酔って歩いていたから、あいつらに目をつけられたのでは、といかにも自分が不用心だったと責めるような言い方しやがって。カチンと来て、そっからな、何も話す気がなくなったわ」
 真白は思わず深いため息をつきそうになる。が、重たい空気を感じていないふりして明るく振舞うのが、見舞いに来た妹の役目と割り切るべきだと思った。
 彼のぼやきに笑い声を立てる。
「あはは! ほんと頭来るよね!」
 憤まんやるかたなしといった兄に、何一つ気の利いたことも言えず、やっとそれだけをいって真白は、手を振った。
「それじゃ、また来るね」
 省吾は、振り返すかわりに目を瞬かせた。

 病院のロビーを出たところで一兵と別れた真白は、荒らされ汚れた部屋に戻ってきて、休み休み少しずつ片付けた。

 あの悪意に満ちた男らは、警察にまだ捕まっていなかった。彼らが今まさに息をして街をさまよっている事実に、彼女は自分が一人でいるときに再び遭遇することを恐怖する。が、それよりも激しい憤りが先立っていた。

 寺山にその凄惨な省吾の一件を、スマホのメッセージアプリで伝えると、やがて驚きと悲しみ、怒りとがない交ぜになった返信が来た。
 彼は、ライブハウスが反社的だとして市当局や世間の標的になった時点で、ロックバンドのメンバーに向けられる敵意のようなものを既に感じ取っていたようだった。それがバンド休止の決断につながったらしい。

 真白は、二日に一度は入院中の兄を見舞いながら、日常生活を徐々に取り戻していった。それでも、あの夜の襲撃から神経質になり、日が暮れたあとの外出は非常事態宣言以前に断然控えるようになっていた。
 大学は春季休暇期間だった。集中講義の単位は断念し、週3日のアルバイトは、当面のあいだという条件で昼間だけにしてもらい、見舞いのない日は買い物を手早く済ませては家に籠った。

 3月に入り、省吾は帰宅を果たすことになったが、痛みが続いているのか、彼は春先の薄ら寒いリビングで、じっとして気難しい顔つきで黙りこくっていることが多かった。
 当然、身体の一部のようにして馴染んできたギターが手にできないもどかしさや空虚感が彼にまとわりついていたに違いない。
 そんな兄の陰鬱な姿を見て、真白は事件がまだ終わっていないこと、それどころか、これからもずっと続いていくことを思い知った。
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