「──お
嬢様、お
茶をお
持ちしましたわ」
高いドームの
天井に、
澄んだ
召使いの
声が
反響する。
湯気を
立ちのぼらせたティーカップから、
心安らぐ
香気がアナベルの
鼻腔をくすぐった。
「ありがとう。あなたが
淹れてくれるお
茶、いつも
美味しいのよね。
同じ
茶葉のはずなのにどうしてこうもちがうのかしら……?」
「お
褒めいただき
光栄ですわ。
私どもは
代々作法を
教えこまれていますから。お
嬢様も
学習熱心でいらっしゃいますね」
「あはは、まぁ、ね……」
召使いが
去ってゆく
背中を
見送ってから、アナベルはふぅとため
息をついた。
机の
上にはうず
高く
積まれた
本と、
美しいとは
言いがたい
筆跡ながらも、
熱心さが
伝わってくる
手書きの
紙が
散乱している。
『
鉱石鑑定士』の
資格取得には、
半年後に
控える
試験に
通らなければならない。
栄えあるマインスター
商会は、
父親で
四代目になる。
その
血を
受け
継ぐアナベルは、
女学院を
修了したあとも、
専属の
家庭教師によりさまざまな
教育を
受けてきた。
さいわい『
鉱石鑑定士』の
基礎に
関しては、
美術鑑定の
一環として
授業を
受けていた。
それは
探索・
採掘などの
実技をともなうもので、
屋外でのフィールドワークでもあり
性に
合っていたのか、アナベルは
普段の
学習態度とは
一変して
熱心に
取り
組んでいた。
そのおかげもあって、
実技試験のほうは
難なくやりとげる
自信がある。
基礎知識はすでに
学習済みなので、
試験前に
総力をあげて
復習し、とりこぼした
知識を
集中的に
暗記すればさほど
問題ではない。
膨大な
鉱物にまつわる
知識を、
短期間で
効率よく
頭に
叩きこまなければいけないのは
大変だが──
それ
以上に、
頭が
痛い
問題があった。
(これ
読んでても、さっぱり
書ける
気がしないわ……)
アナベルは『
論文の
書き
方』という
書物に
目を
通しながら、うんざりしたように
吐息をついた。
試験当日に
臨まなければならない
小論文の
課題に、
心の
底から
戦々恐々としていたのだ。
昔から
文章を
書くのが
億劫でならない。
最初の
一行からつまづくのだ。
同様の
理由により、
手紙を
書くこともあまり
好きではない。
遠く
離れた
場所に
住む
友人との
交流が
途絶えてしまいがちなのも──
自分の
筆不精のせいなのかと、
深く
反省することもあるけれど、それでも
筆はすすまないのだ。
同じく
好きな
相手への
恋文なども、
一度だって
書いたことはない。
文才のない
自分が
文章で
愛を
語るなんて、どう
考えても
負け
戦のような
気がしてならなかった。
(──
告白か──。ロジオンは
今頃どうしてるのかな……)
ふと、ロジオンのことが
記憶から
思い
出されたのは、「
告白」という
二文字がきっかけだった。
あれからもうひと
月ほど
経つが、
自分としても
忘れられない
奇跡のような
愛の
告白だった。
その
切実な
想いが
報われて、
晴れて
好きな
人と
結ばれてハッピーエンド。
皆に
祝福されながら
二人っきりの
蜜月……。
あまい
甘い
生活に
突入するはずだったのに……。
自分はなぜか
一人で
机にかじりつき、
人気のない
図書室にもう
何時間もこもりきりだ。
(ロジオンったら、まだ
帰ってこない……。
大聖堂から
使いが
来て、
彼の
尽力により
騒動は
治まったって
聞いたけど……。きっとまた、めんどうなやっかいごとに
巻きこまれているんだわ……)
大聖堂が
死霊の
襲撃にあい、ロジオンがその
救援に
向かった。
という
事実しか、アナベルはまだ
知らされていなかった。
『
棺の
間』の
魔物討伐の
一件を、くわしい
状況もわからないまま
話すわけにはいかないと、ロジオンはあえてアナベルには
黙っていた。
ひとえに
彼女を
不安にさせたくなかったからだったが──
そんな
彼の
細やかな
気づかいは、ともすればことごとく
裏目に
出てしまいがちだ。
(みんなロジオンに
頼りすぎだわ。いくら
強いっていっても
彼も
生身の
人間なのに……。それに、あたしだってまだ
彼にしてほしいこと、
山ほどいっぱいあるんだから……)
恋人の
活躍がほこらしい
反面、
自分以外の
誰かにロジオンを
占領されているような、そんな
幼稚な
嫉妬心がうかびあがった。
それと
同時に、つれない
恋人をなじる
気持ちも。
(
最近、なんだか
変なのよね。
彼……。あたしと
一緒にいてもぼんやりしてるし、かと
思うと
急に
深刻な
顔しちゃってわけがわからないわ……)
ともかくロジオンが
自分以外のなにかに
気をとられ、そのことに
翻弄されているような
気がするのだ。
(またお
得意の
隠し
事かしら……?
恋人同士ってもっと
信頼しあって、いろいろ
打ち
明けあうものなんじゃないの?っていうか、そもそも
恋心もなにもかも、みんなみんなあたしの
一方通行だったりして……)
押しに
弱い
彼のことだ。
アナベルの
求愛に
流されるようにして、
恋人になることを
約束してしまったのかもしれない。
そもそも
告白してきた
相手のことが
嫌いじゃなかったら、とりあえず
付き
合う。
……という
人間だって、
世の
中には
五万と
存在するのだ。
彼がそういう
人間だとは、
信じたくないが……。
だが、
二人の
関係において、
一つだけ
断言できることがある。
(──たぶん、ロジオンがあたしを
想うより、ずっとずっとあたしのほうがロジオンのことを
好きだわ──)
これだけは
胸をはって
言える。
自信をもって
皆のまえでも、
正々堂々と
言いきれる。
けれど
愛しているがゆえに、その
愛情のおもいがけない
深さと
激しさゆえに、
寂しさに
足元をすくわれそうになるのだ。
そのたびに
幾度も、
無性にこみあげてくる
感情がある。
自分はこんなにもロジオンのことを
想っているのに、
彼のために
時間を
割いてがんばっているのに──
(──
彼はあたしのことなんて、すっかり
忘れているんだわ──!!)
きっと、
忙しさの
渦中に
放りこまれている
彼のことだ。
その
他のできごとに
脳のほとんどを
占められて、
彼女のことなど
想い
出す
暇もないのだろう。
彼の
頭のなかに
自分が
存在するのは、
一日のうちいったいどれだけの
時間なのだろう?
それは
自分がロジオンについて
思いをめぐらす
半分以下……。
いや、およそ
十分の
一以下なのではないかと
想像して、アナベルはとたんに
悲しくなった。
(フォルトナの
力がある
限り、
人々はそれを
求め、それにこたえるため、
彼は
翻弄されつづけるんだわ……)
急になんともいえない
寂寥感がおそってきて、アナベルの
瞳の
際にうっすらと
涙がにじんだ。
(──きっと、これからも、ロジオンはあたし
一人のものにはならない──)
そういう
宿命なのだ。
追いかけなければならないのは、
自分なのだ。
いつまでも、どこまでも───
『エレプシアの
乙女』に
選ばれたことにうつつを
抜かしていたら、あっという
間に
恋人の
座から
転落する──
誰に
言われたわけでもないのだが、そのような
怖れが
彼女を
不安にさせ、
絶えずせきたてていた。
(なんだか
心配ごとで
押しつぶされそう。これじゃ
勉強に
集中できやしないわ……)
たまらなく
気が
滅入り、
自分らしくもなくどうにかなってしまいそうだ。
救いをもとめて
窓の
外に
目をうつすと、
庭園の
草花が
盛りをむかえて
生命の
賛歌をうたっている。
そろそろ
休憩がてらに、
気分転換してもいいころかもしれない。
(ちょっと、
外の
空気でも
吸いに
行こうっと……)
しおりだらけの
書物の
山をいっせいに
閉じると、いくらか
胸がすっとして
気が
晴れた。
アナベルは
足取りも
軽やかに、
戸外へむかって
図書室を
飛び
出していった。