『
人を
癒す
術を
知る
者は
善人である』
幼いころから
少女は、
無意識のうちにそう
信じこんでいた。
信仰心のあつい
両親の
下に
育ったのだから、
無理もない。
飼っている
小鳥の
命を
救ってもらったことで、この
男のことを──
無条件に「いい
人」だと
思いこんでいたが、どうやら
勝手はちがうらしい。
「ずいぶんと
隙だらけだぜ、お
嬢サン?」
一人うろたえている
少女の
姿を、
青年はとくに
面白がる
風でもなく、ただひたすらに
涼しい
眼光で
見下ろしていた。
「──あんたが
手放せないほどお
気に
入りだっていうこの
小説のヒロインは、
幼いころに
受けた
心の
傷を
癒すために
街娼となり──
罪と
知りながらも、
複数の
男たちとただれた
関係を
続ける。
満たされない
虚しさの
代償に、
私生児の
我が
子に
愛情を
注ぎこむが、
所詮うまくいくわけもない。
父親と
名乗りでた、
子供のいない
貴族の
男に
我が
子を
奪われて、
最期は
絶望して
命を
投げ
出すわけだが……」
そこで
一呼吸置くと、
彼は
惑わすようにレクシーナの
耳元に
唇を
近づけてささやいた。
「
俺ならもっと
別のやり
方で、
心の
空洞を
埋める
方法を
知ってるけど?」
少女にそう
問いかけながらも、ムスタインは
内心毒づいていた。
そんなこと
知っているわけがない。
自分が
知りたいくらいだと、どこか
醒めきった
頭の
片隅でそんなことを
思う。
一方、
真新しいシーツの
上で
男に
組み
敷かれながら、
少女は
葛藤していた。
(──この
人は
何を
考えているの?わたしに
何をしようっていうの……?わからない、わからないわ……)
相手がどのような
意図があってこんなことをするのか、
理由がわからずに
混乱し、レクシーナの
心は
激しく
乱れた。
「──どうしてこんな
辱めを──?」
受けなければいけないの……?
そう
言葉は
続くはずだった。
はずだったのだが……。
至近距離から
射るような
視線で
見つめられて、レクシーナはこらえきれず
瞳をそらした。
(──
顔が
近い──)
思わず
頬が
朱く
染まる。
レクシーナはそれまで、まともに
青年の
顔を
見たことはなかった。
臆病な
彼女は、
人の
視線が
苦手だった。
自分を
見つめる
視線は、どこか
突き
刺さるような
感じがして
怖かった。
だから
誰かから
見つめられても、
自分からは
極力視線をあわせないようにしてきた。
そうして
見つめられることを、
努めて
避けてきたのだった。
そのせいでこれまで
恩義のある
青年の
顔も、ろくに
直視できないでいたのだが。
不可抗力でこうして、
間近で
見せつけられてみると……。
その
容姿は、おそろしく
整っていることがわかった。
たとえるなら
人を
威圧するような、
鋭利な
刃にも
似た
美しさ。
黒髪の
隙間からこぼれ
落ちるやや
切れ
長の
瞳。その
瞳孔は
比類なき
生粋のエメラルドの
宝玉。
こちらを
不敵に
見下ろすその
眼光は、
異様なまでの
自信と
怜悧な
輝きに
満ちていた。
「──どうせキスなんか、したこともないんだろ?」
おまえのことなどお
見通しだとばかりに、
決めつけるような
口調でそう
言ってくる。
「はい」とも「いいえ」ともこたえられずに
沈黙を
守っていると、
華奢なからだにわざと
負担をかけるように
圧しかかってきた。
「……んっ……」
少女は
身動きを
封じられ、
押さえつけられた
白い
腕には
赤黒くあざが
浮いていた。
潤んだ
瞳は
戸惑いと
恥じらいをふくみながら、
今も
不安気にゆれている。
「……
離して……
離して、ください……」
ようやくしぼりだした
言葉は、むなしく
黙殺された。
少女は
底知れぬ
危機感を
憶え、なおも
必死に
男に
懇願する。
だが──
「もし、
好きでもない
男に
初めてを
奪われたら、いったいどんな
気持ちになるのか……
俺に
教えてくれよ……」
ときとして
汚れていないものほど、
滅茶苦茶に
汚してみたくなる。
それがあのフォルトナの
末裔──
胸くそ
悪い
優男の
妹ならば、
余計にだ。
踏みにじられても
折られても、
黙って
耐えるしかない
小さく
可憐な
花。
(──
穢してやる──!)
涼やかな
見た
目に
反して
青年の
胸中には、どろどろした
謂れのない
感情が
渦巻いていた。
(おまえを
立ち
直れないくらいに
貶めてやる──)
貴族の
娘という、
人にかしづかれ
支配する
立場に
生まれつきながら、
臆病で
引っこみ
思案なレクシーナ。
それでいて
傷つきやすく、けなげで
儚げな
物憂い
少女。
その
心と
身体を
踏みにじったなら、
痛めつけてやったならば……。
(……
俺は、
満足するのか……?)
思わず
自問する。
答えはまだわからない。
これからきっと
少しずつわかりはじめるのだろう。
青年の
瞳孔が、わずかに
真剣な
様相をおびはじめたとき。
指にはめていた
装身具がにぶく
光を
放った。
指輪はそのまま
光を
保ち、
静かに
明滅した。
「……
組織からの
呼び
出しか……」
虚ろな
目を
細めると、ムスタインはいつもより
憂鬱そうにうめいた。
すこしの
間があり、けだるげに
彼は
肩からため
息を
吐きだす。
それは
緊急を
要する、
幹部たちへの
招集命令だった。
ムスタインといえども
組織に
属する
者。
くだらない
理由で、
処罰の
対象になどなりたくはない。
「あーあ、かったるい。
正直、あんたと
戯れてたほうが
百倍マシだぜ」
うんざりしたようすで
寝台から
身を
起こすと、
彼はふて
腐れた
顔のまま、
首や
肩の
関節を
鳴らした。
その
横でしばらく
身動き
一つできずに、
放心していたレクシーナだったが……。
「……あの……」
決死の
覚悟でくちびるを
動かした。
「ん?」
ふり
向いてムスタインは、
気の
抜けたような
返事をかえす。
この
状況で、
声を
出す
勇気がこの
娘にあったことを、
彼は
素直におどろいていた。
意外そうな
顔でレクシーナを
見つめている。
「……あなたの、
名前……まだ、
知らないんですけど……」
ひどいことをされそうになった。
その
恐怖と
戸惑いで──
心臓の
鼓動は
今も、はり
裂けそうなほどの
速さで
脈打っている。
だが、それでも
彼は
愛する
小鳥を
救ってくれた、
彼女の
恩人に
代わりないのだ。
彼の
呼び
名が、
名前が
知りたかった。
だが、そんな
少女の
切なる
想いは、
届かない──
「
俺の
名前なんか、
聞かないほうが……。そのほうがあんたの
身のためだよ」
なぜかそれまでの
邪悪さがなりを
潜めたように、
青年はおだやかな
口調でそう
告げた。
最後に
見たムスタインの
瞳は
空洞で、その
瞳孔がなにを
映しているのか、
少女には
皆目わからなかった。
おそらく
誰にもわからないのだろう。
いつも
気づいたときには、
彼はこつぜんと
姿を
消している。
別れの
言葉も
告げたことはない。
放り
出されたように、いつも
一人になる。
一人の
空間に
置き
去りにされる。
だれもいなくなった
部屋にとり
残されて──
心細さに
泣きそうになる。
まっ
白な
天井を
見つめながら、その
途方もない
白さに……。
少女は
永遠に、
自分が
拒絶されているような
淋しさを
憶えた。
(……あなたは
名前すら、わたしには
教えてくれないのね……)