この
男のことはなにもわからない。
名前も
知らない。
自分の
前では
名乗らないし、たずねてもはぐらかされてしまった。
ようするに「おまえなどには
教えたくない」ということだ。
壁からせり
出した
窓枠に
頬杖をつきながら、
心の
奥底から
深いため
息をもらす。
最果ての
大地は、
故郷デルスブルクの
雄々しくも
秀麗な
山肌は、
少女を
包みこんでくれはするものの。
どこか
冷たくつきはなすような
厳しさも、
同時に
訴えかけてくるようで、
彼女は
静かに
目をそむけた。
名前を
偽られることと、
名前を
教えてもらえないこと。
どちらがより
残酷なのだろうと
考えて、
少女はやはり
後者なのじゃないかと
感じた。
ほんの
少しだけ
絶望をおぼえながらも、レクシーナは
自分もまた、
相手に
名前を
教えていないことに
気づいた。
名前を
呼んでもらえたら、それだけで
舞いあがるくらいに
嬉しいだろうな……。
そう
思いはするけれど、きっとかなわずに
終わるに
決まってる。
彼はそのようなことを
聞いてこないし、おそらく
自分に
興味もないのだろう。
名前を
呼び
合わない
関係──
そんなドライでやや
淫靡な
恋物語を、むかし
読んだことがあるが。
大人すぎて
背伸びしても
届かないような、しょせん
自分とは
無縁な
世界のお
話だった。
あこがれても
手に
入らないものを
待つのは、もうやめたのだ──
そう
何度も
自分に
言い
聞かせた。
彼が
欲しいのは、
欲しているものは──
屋敷の
何処かに
眠っている、
宝刀と
名高い
『三日月の曲刀』。
最愛の
兄セルフィンが
愛用していた、
月光を
浴びてなおいっそう
輝きを
増す
流麗な
刀だ。
兄の
死以後、その
行方がわからず、いまだ
手渡せないままだ。
青年の
苦い
失望を
埋めるのは、
空白の
待ち
時間をとりもつのは、
残念ながら
自分などではない。
黒い
服を
着て
蒼白い
顔をしてたたずむ
痩せた
小娘に、
若い
男が……。
放っておいても
女がすり
寄ってくるような
美男が
興味をしめすはずもない。
その
代わりとなるのが、
煌びやかな
菓子に、
異国情緒をその
香で
知らしめる
茶葉。
この
世の
果ての
湧き
水で
淹れた
茶は、きっとどんな
来客をも
満足させることができるだろう。
いつ
来るかもわからない
来訪者を
出迎えるために、
毎日もてなす
用意をしては
肩を
落として
悲嘆に
暮れる。
そんな
日が
何日も
続いた──
☆
心の
空洞を
埋めるために、レクシーナは
本ばかり
読んで
過ごしている。
少女は
潔くその
物語の
世界に
飛びこんでゆく。
何のためらいもない。
現実の
少女は
生きながら
死んでいるようなものだからだ。
そして
物語に
没頭している
間だけは──
(──わたしはわたしを
忘れていられる──)
──
現実逃避。そう、
自分自身から
目をそむけていたいから、
毎日毎日憑りつかれたように
本の
頁をくっているのだ。
躍起になって、まるで
活字中毒者のように──
朝が
来て
昼が
来てやがて
夜が
来て──
代わり
映えのしない
日常が、
無限ループのようにくり
返されている。
レクシーナは
時間軸からとり
残され、
放置された
人形のようにソファーに
身体を
横たえていた。
昨夜、
本に
夢中になりすぎていて
眠りに
落ちるのがいつもより
遅かった。
まだカーテンの
隙間から
陽が
射してくる
昼下がり、
少女はクッションに
身を
沈めて
早くもうつらうつらと
船をこぎはじめた。
せめて
夢の
中で
一目逢えたらと。いやしくも心のどこかでそんな
風に
祈ってしまったのだろうか。
白昼夢のうたかたのなかで……とうとう
逢いたい
人に
出逢うことができた。
夢の
中では
夜のおとずれが
世界を
覆い
隠していた。
その
男は
空間移動の
魔法で
颯爽と
現れたかと
思うと、
視界の
端にレクシーナの
存在を
認めて、どこか
独特の
秘めたまなざしで
微笑んだ。
窓の
外に
浮かぶ
月を
背後にしたがえて、
青年は
血に
染まった
黒光りするマントを
翻した。
その
流れるような
動作だけで、
少女は
圧倒されてしまう。
名刀を
欲するくらいだ。ただ
収集して
所蔵するだけのコレクターではなく、
武器をふるう
側の
人間なのだろうと
察しはついていた。
何度目の
来訪かまでは
記憶にないが、
鼻をつくような
血の
匂いが、
彼の
黒装束から
発せられていたことがあった。
驚いてさりげなく
確認しても、
青年に
流血しているようすはない。
──おそらく
返り
血だろう。
恐怖を
感じるときもあったが、
身の
危険を
感じるほどではない。
今のところは……。
見ていていつも
思うのだが、
彼は
闘う
男の
眼をしている──
そのようなまなざしをした
男が、
少女の
身近にさほど
多いわけではない。
だが、あえて
例えるとするならば──
強大な
魔力をその
身に
宿しているという
腹ちがいの
兄に、ほんのすこしだけ
雰囲気が
似ていた。
それこそ
常人離れした。
我々とは
異なるオーラのようなものが……。
彼らが
纏っている
闘いの
波動のようなものが、ことさら
険しくなる
瞬間というものがあるのだ。
そのスイッチの
入り
方が、なんとなく
似ているような
気がする。
闘いを
知らぬ
者が
知ったかぶりをして、いい
気になって
語っているように
思われるかもしれないが……。
夢の
中だからなのだろうか。
彼は
急に
突拍子もないことをたずねてきた。
「……ねえ、
俺が
欲しい?」
あまりに
直球すぎるその
質問に、
瞬間的に
耳まで
赤くなってしまう。
硬直したままなにも
言えずに
少女がうつむいていると……。
彼は
素早く
彼女の
隣りに
腰かけて、
至近距離でこちらを
見つめてくると、
言った。
「たとえば
俺が
人殺しでも……あんたは
俺を
愛してくれるの?」
過激な
言葉を
立て
続けに
浴びせてくる。
彼のようすがおかしい。いつもより
少し
気が
立っているのかもしれない。
自分はというと
不器用にも
赤面したままで、いまだに
言葉が
喉につかえて
出てこない。
「
返り
血をつけたまま
部屋に
来たことだって……あるんだぜ?
今もそうさ。そんな
正気じゃあない
男のことをさ……」
彼の
衣服から
血の
匂いをかいだ
時のことを、まざまざと
思い
出す。
「……あんたは
本気で……」
言葉で
答えるかわりに、
少女はせいいっぱいの
勇気をふりしぼって、
首をこくりと
縦にふった。
意外そうな
空気を
肌で
感じた。そして
少しの
沈黙のあと。
「くくっ……あんた
狂ってるよ……いや……
狂ってるのは
俺のほうか……」
真剣な
少女の
姿を
見て、
彼はさも
楽しそうに
言葉をついだ。
「……
殺して……
癒して……
殺して……
癒して……そんなことをくり
返してるとさ、
自分でもなにやってるのか、ときどきわかんなくなってくるんだ……」
「…………………」
どう
声をかけてあげればよいのか、
彼女にはわからなかった。
心配そうに
無言で、
彼を
見上げることしかできなかった。
彼は
一度だけかっと
目を
見開いてから、
自分の
感情を
制御するようにしてレクシーナを
見つめた。
「だから、
慰めてくれよ。
俺のこと……」
☆
夢はそこで
醒めた──。
頬が
濡れている。
涙が
幾筋も
白い
頬をつたって
首筋までながれ
落ちていた。
ぼうぜんと
空虚なままソファーに
横たわり、
部屋の
天井を
見つめる……すると……。
「……お
姉ちゃん。どうしたの……
泣いてるの?」
自分を
見下ろす
純粋無垢な、エメラルドの
宝玉のような
瞳と
出逢った。
番外編3へつづく……