澄んだ
空気のながれに
乗って、
門に
続く
道からさわやかな
甘い
匂いが
香ってくる。
(いい
匂い……。たしか
門のそばの
生垣に、
綺麗な
薔薇の
花が
咲いていたわね)
それはアナベルがもっとも
好きな
薔薇の
品種でもあった。
うすい
橙色の
花弁が
一面に
咲きほこり、
見る
者をおだやかな
気持ちに
誘う。
柑橘系の
果実を
連想させる、すがすがしい
印象の
大輪の
花だ。
薔薇の
花をすくうように
両手で
抱えると、
顔を
近づけて
香りをかぐ。
かぐわしく
甘い
香りにつつまれた
少女の
姿は、まるで
白昼に
舞い
降りた
天使のように
見えたかもしれない。
そんなアナベルのようすを
通りすがりの
神官が、
歩みを
止めてじっと
見つめていた。
「……
星を
追う
者……」
ふと、
男が
低くつぶやいた。
視線を
感じて
背後をふり
返ると、
少女は
声のした
方角を
見つめた。
そこには
旅慣れた
感じのする
聖職者が、
革のトランクを
下げて
立っていた。
ずいぶん
若く
見えるが
落ち
着いた
物腰から、
年のころは
三十代後半からせいぜい
四十代前半といったところだろうか。
敬虔な
神官服に
身をつつんだ
細身で
長身の
肉体からは、
余分なものなどいっさい
感じられない。
それでいて
幸福に
満ちたりているような、おだやかな
清貧さが
感じられた。
「……あの、
星を
追う
者って、なんのことですか……?」
さきほどのつぶやきが
気になって、アナベルは
初対面にもかかわらず
神官にそう
問いかけていた。
「──ああ、ご
存知ないですか?その
薔薇の
名前です。
私の
故郷にも
咲いていました」
静謐さをたたえながら、
眼鏡をかけた
瞳をすがめて
優しく
笑う。
それはまるで、
人見知りの
激しい
幼子の
警戒心すら、
容易に
解きほぐすような
柔和な
笑顔だった。
(……このあたりではまず
見かけない
神官様だわ。こんなステキな
人のお
話が
聞けるなら、たまには
礼拝に
行ってみてもいいかもね……)
内心そんな
不謹慎なことを
考えていたアナベルだったが、はっと
我にかえるとすぐに
相手にむかってたずねた。
「……あの、うちになにか
御用でも?」
「──これは
失礼しました。
薔薇の
似合うお
嬢さんに
見惚れていて、
名乗るのを
忘れていたようです」
神官は
胸に
手をあてて、つつましい
仕草でアナベルに
一礼した。
「
私はティエルノ=ブルームハルトと
申します。ルンドクイスト
家のご
子息ロジオン
様付きの
護衛として、
不肖の
息子が
大変お
世話になっております」
いつも
微笑みを
絶やさないこの
神官の
正体は、なにを
隠そう、
彼女がよく
知っている
人物の
身内だったのだ。
「──もしかして、あなたは──ラグシードのお
父様!?」
「うちの
愚息がこちらのお
屋敷にご
厄介になっているそうで、まことに
恐縮です」
「そんなご
迷惑だなんて……!
彼にはすごくお
世話になってるんです。ええっと、あたしったら
自己紹介もまだでしたわ。
私はマインスター
家の
次女でアナベルといいます」
二人は
互いに
微笑しながら、
少女はスカートの
端をつまみ、
神官は
片手を
胸にあてて
会釈しあった。
「あなたが
息子とお
知り
合いならば
話は
早い。じつは
彼に
伝えたいことがあってきたのです」
どこか
性急なティエルノのようすに、
逼迫したものを
感じて──
アナベルは
少し
気まずそうに
口ごもってから、
慎重に
言葉をえらんで
話しはじめた。
「──せっかくお
父様にお
越しいただいたのに
申し
訳ないんですけど、あいにく
二人とも
外出しているんです」
「
行き
違いですか……」
「ええ。ロジオンは
死霊退治の
依頼をうけて、
大聖堂に。ラグシードはその……
行く
先を
誰にも
伝えていなかったみたいで、いまだに
何処にいるのかわからないんですけど」
じつはこの
時すでに、ラグシードはロジオンとの
合流を
果たしていたのだが……。
やや、そそっかしいところのあるリームは、
彼を
発見したことをアナベルに
報告し
忘れていたのだ。
ティエルノはあきれたように
肩でため
息をつくと、
情けないとばかりに
声を
落とした。
「──
困ったものだ。
相変わらず
皆さんにご
迷惑をかけているようですね」
「いえ、けしてそういうわけじゃ……。でも、
彼のそんな
朗らかなところに
救われている
人もけっこういるんですよ」
アナベルの
渾身のフォローもつたわったのかどうか。
それまで
柔和だった
顔立ちはどんどん
曇り、とうぶん
眉間の
皺は
消えそうにない。
「それにしても、
大聖堂から
煙が
上がっているのを
遠くから
見かけましたが……。まさか
死霊の
襲撃にあっていたとは……」
「
心配なさらなくても、
死霊はすべてロジオンが
撃退しましたわ!」
「それはよかった……。さすがはロジオン
様。
私が
出向くまでもなかったようです」
感心したように
何度もうなずきながらつぶやくと、ティエルノはかたわらに
立っていたアナベルに
視線を
移した。
「──
非常に
名残惜しいのですが、そろそろお
暇しなくてはなりません」
「そんな──!?ラグシードには
逢っていかれないんですか?
彼が
戻るまでうちの
屋敷でお
待ちいただいてもかまいません!」
とつぜんの
退去の
言葉に
驚いて、つい
悲鳴のような
声をあげてしまった。
久しぶりにラグシードと、
親子の
再会を
果たしてほしい──!
アナベルは
必死になって
引き
留めようとしたが、ティエルノは
目を
伏せると
重々しく
頭をふった。
「ご
厚意ありがとうございます。ぜひ、そうしたかったのは
山々なのですが……。
実は
知人との
約束がありまして、
今すぐにでもアトゥーアンを
発たなければならないのです」
「それは……
残念だわ……」
「
立ち
寄ったついでといってはなんですが、あなたにお
願いごとをしてもよろしいですか?」
「ええ、それならなんでもおっしゃってください!」
アナベルが
胸を
張ってそう
答えると、
彼は「
厄介なことになるかもしれない……」と
低いかすかな
声でつぶやいた。
彼女はそれが、なんだか
妙に
心にひっかかった。
ティエルノは
深く
息を
吸いこむと、
遥か
遠方から
訪れる
旅人に、想いを
馳せるような
瞳で
言った。
「
息子に
伝えてください。
弟が……ギレンホールが
訪ねてくると……」
「
弟さんが?」
「ええ、ちょうど
神学校が
長期休暇に
入りましたからね」
彼はそう
言ったあと、
革のトランクの
中からある
物を
取りだした。
「これを、ラグシードに
渡してやってもらえないでしょうか?
直接手渡したかったのですが、あいにく
私にはその
時間がない……」
アナベルの
手のひらにそっと
置かれたのは、
赤い
石がはめ
込まれた
金属性の
腕輪だった。
「これは
『神具』の
負担を
減らす
効果を
秘めた
腕輪です」
「……きれい……」
アナベルは
感嘆のため
息をつきながら、
思わずそうつぶやいていた。
「
『諸刃の十字架槍』は
使用者をも
傷つけるおそれがあり、
容易に
扱うことが
難しい
武器でした。でも、
女神の
加護を
受けたこの
腕輪を
装着すれば、
自身がこうむる
神具の
衝撃を
減らすことが
可能だと
思います」
「そんな
大切な
物……。わかりました、
責任をもってラグシードに
手渡します!」
「
私としても、そうしていただけると
助かります。くわしい
説明はギレンホールがするでしょう」
アナベルは
静かにうなずくと、
腕輪を
大事そうににぎりしめた。
「ご
迷惑をおかけして
申し
訳ないのですが、
私はこれで……」
ティエルノは
逢ったときのように
柔らかく
微笑すると、
丁寧な
物腰でアナベルに
会釈してから
屋敷を
立ち
去っていった。
しばらく
茫然と
見送っていると──
長身の
後ろ
姿は、
足早に
門から
遠ざかりやがて……
市街地の
外に
抜ける
街道へと
折れて
消えていった。