夜風が
素肌につめたい。
開け
放たれた
窓から
吹きこんできた
風に
眉をくもらせると、
彼女は
肩掛けを
羽織り
直して
椅子から
立ち
上がった。
風通しが
良すぎるのも
考えものだと、
窓を
閉めようと
手を
伸ばして、
瞬間はっとしたように
息を
飲む。
心底驚いたようすで、
彼女の
動作が
一瞬止まる。
「よっ!」
いつの
間に
店の
脇にある
階段を
駆け
登っていたのか。
目の
前には
片手をあげて
陽気そうに
微笑む、
見慣れた
男の
姿があった。
「ちょっと、びっくりさせないでよね……。こんな
夜更けに
変質者かと
思ったじゃない」
あきれたように
肩からため
息を
吐きながら、
占い
師の
娘は
容赦なく
窓を
閉ざそうとした。
「
待てよ!せっかく
訪ねてきたのに、いきなりそれはないだろう……?」
それをあわてて
留まらせようとして、
男は
情けない
声をあげながら
必死に
抗議した。
「そうかしら?
第一、
足音を
忍ばせて
女性の
家に
訪ねてくるなんて、
心にやましいことがあるからに
決まってるでしょ!」
夜の
空気をわたって、
昼間よりは
一段声を
潜めた
女の
怒気があたりに
響く。
「
不意打ちじゃないと
逢ってくれないかと
思ってさ……」
「そのほうが
普通は
逢わないと
思うけど……」
幸先わるく
出鼻を
挫かれ、そうそうに
拒絶にあったわけではあるが、この
男にあきらめたような
素振りは
一切見えない。
それどころか
俄然、
追い
風になったかのように
窓枠にかけていた
両腕を
放し、
次の
瞬間には
娘の
手をがっしりとつかんでいた。
「
入れてくれるまで、
俺は
放さない……!」
これまで
幾人もの
女を
口説き
落としてきた
手腕を
発揮して、
男は
渾身のまなざしで
目の
前の
女を
射すくめようとする。
しかし
女のほうも
手練れであった。
だてに
永い
歳月を
若く
美しいまま
生きてはいないのである。
月光に
照らされたその
美貌は
一層冴えわたり、
不敵な
笑みをうかべた
唇は
滴る
果実のごとく
艶めいていた。
「……そう。
長い
夜になりそうね……」
☆
「……あのまま
行かせちゃって、リームさん
大丈夫かなぁ……」
ロジオンは
自分の
行為を
悔いるような
不安に
満ちたまなざしで、
窓辺にたたずみ
外の
景色を
眺めているアナベルに
声をかけた。
「
僕はてっきり
君が
止めてくれると
思ったんだけど……」
その
声にははっきりとした
困惑と、いくばくかの
失望がこめられていた。
いろいろと
世話になったお
礼と
称して、ラグシードがマインスター
家秘蔵のブドウ
酒を
片手に
夜の
街へ
繰りだしたのを、ロジオンは
胡乱な
目で
見送っていた。
かたわらにいたアナベルが、
引き
止めようとした
彼をさりげなく
制したからである。
「
平気平気!だってリームは
酒豪だもん!
今まで
酔いつぶされたなんて
一度も
聞いたことないわ」
それに
対し
少女の
返答は
平然としたものだった。
絶世の
美女であるリームに
言い
寄る
男は
後を
絶たないが、ここしばらくは
恋が
成就した
話を
聞いたことがない。
いくら
占いで
生計を
立てているとはいえ、
人に
助言してばかりで、
自分の
恋愛面がいっこうに
音沙汰ないのはどうかと
思う。
正直、
一度くらい
酔いつぶされてみればいいのに、となかば
本気で
思うときがあるのだ。
相手がラグシードであるというのは、ある
意味かなり
問題ではあるのだが……。
「あいつだったら、ブドウ
酒のなかに
媚薬を
混入させるとか
平気でしそうで
怖いんだよっ!」
いつになく
激しい
剣幕で、ロジオンはそうまくしたてた。
……
即座にそういう
発想を
思いつくロジオンのほうが、なんとなく
危ない
気がするとアナベルは
思ったが
言わないでおいた。
言ったら
想像以上に
傷つきそうな
気がしたからだ。
「ねぇ、ロジオン。
気分転換にあたしたちも
一杯どう?」
ドレスの
裾を
翻してふり
返ると、
少女は
急速に
彼との
距離を
縮めた。
そうしてほぼ
目と
鼻の
先くらいの
位置から
見上げると、
唖然としたようすのロジオンにむかって、
彼女は
甘えるように
言い
募った。
ウィンディア
大陸では
地方差はあるが、
一般的に
十五歳で
成人とみなされ、
飲酒が
可能になる。
「
今までみたいに
食前酒だけなんてもう
物足りないわ。あたしだって
飲めるようになってからけっこう
経つんだから……ちょっとくらい
付き
合ってくれたっていいでしょ?」
とろんとした
目つきで
彼女に
迫られると、
反射的に
喉がごくりと
鳴った。
手のひらが
汗ばんでいる。
動揺をさとられないようにアナベルから
視線をそらすと、
彼はこの
期におよんでそらぞらしい
話題を
持ちだした。
「ラグたちは
今ごろどうしてるかな……?」
「
知らないわよ!そんなこと……。それより
話題を
変えるのは
反則!ひょっとして、お
酒が
飲めなかったり
弱かったりするのをごまかそうとしてる?あたしはぜんぜん
気にしないんだけど」
話を
反らそうとした
意図をあっさり
見破られて、ロジオンはさすがに
狼狽した。
「……いや、
僕だってたまには
飲むし、けして
弱くないつもりなんだけど……」
自然と
語尾が
尻すぼみに
弱まる。
ほんとうのことをいうと、
酒を
飲んだときの
記憶が
後半のほうになるにつれあやしくなり、ほとんど
残っていないことが
多いのだ。
「でも、
理由はわからないけど、ラグからは『
飲むな』って
釘を
刺されてるんだよね……」
「ふーん。じゃあ
飲めるんだったら、さっそく
乾杯しましょ♪」
「……アナベル、ちゃんと
僕の
話を
聞いてる?」
ロジオンの
飲酒にまつわる
些事など、アナベルはまったく
気にしていないのだった。
☆
同時に「「ふぇっくしゅんっ!」」と
放たれたくしゃみとともに、
二人の
拮抗状態はひとまず
休戦となった。
初夏とはいえ
夜更けはまだ
冷える。
このまま
不毛な
睨みあいをつづけるのも、
双方体力のムダづかいだと
身に
染みて
感じたのだ。
結論として
街の
酒場に
連れだって
赴くことで、お
互い
譲歩したのである。
それまで
相手にされていなかったラグシードにとっては、
飛躍的な
進歩といえよう。
街路にまで
喧騒が
響いてくるほど
活気に
満ちた
店。
常時にぎわいを
見せる『リプシェの
庭』
亭は、アトゥーアンでも
三本の
指に
入る
老舗の
名店である。
とはいっても
金持ち
御用達の
高級店ではなく、
庶民が
気軽に
立ち
寄れる
憩いの
場所として
人気があるのだが。
もちろん
美酒だけではなく、
料理も
折り
紙つきだ。
以前アナベルを
連れてきたときなど、マインスター
家専属の
料理人に
引き
抜きたいと
本気で
言わしめたほどだ。
店内の
奥まったカウンター
席に、
空の
酒瓶が
美しくも
整然とならんでいる。
豊富な
銘柄のラベルが
貼られた、
色とりどりの
硝子瓶。
ある
意味、それは
壮観な
眺めだった。
「さっきから
私ばっかり
飲んでるような
気がするんだけど……」
リームは
腑に
落ちないようすながらもあっさりとグラスを
空け、
手酌で
酒瓶からなみなみと
液体を
注いだ。
おごりだと
先に
言ってしまった
手前、ラグシードはいまさら
後に
引けなくなってしまっていた。
受けとったばかりの
報酬が、
早くも
財布の
底から
抜け
落ちていくさまを
想像して、
彼は
頭を
抱えたくなった。
いつの
時代も
下心は
予想以上に
高くつくのである。
「いける
口だとは
思ってたが、まさかこんなに
飲むとはな……」
カウンターに
頬杖をつきながら、もはや
愛想がつきたような
声でラグシードがつぶやく。
「ねぇ、
前から
思ってたんだけど……」
「なんだよ?」
「あなたお
酒弱いでしょ?」
森のキノコとポークソテーのグラヴァソース
煮を
食べていたラグシードは、よりによって
付けあわせのポテトで
喉をつまらせた。
「……うるせぇなぁ。こう
見えても
俺は
高名な
聖職者の
家系で、
幼いころから
厳格に
育てられたんだ。
街の
人間の
模範となるように、それこそ
清く
正しく
美しくってな」
ラグシードはフォークを
強くにぎりしめて
力舌した。
「だから
家には
酒瓶なんか
置いてなかった。どんな
貧しい
家庭にも
酒の
一本や
二本、
飲んだくれの
親父が
隠しもってるのが
常だっていうのによ」
「
同情するわ」
リームからはそっけない
一言が
返ってきたのみだったが、
酒がまわっているのか
彼はかまわず
話を
続けた。
「だから
酒が
根絶された
家庭に
育って、たった
十二歳で
寄宿舎つきの
牢獄みたいな
学校に
放りこまれてみろ。いい
歳して
酒の
免疫が
皆無っていうおそろしい
現実に
直面するんだよ……」
「それとお
酒に
弱いかどうかは
別だと
思うけど。それまで
飲酒経験がなくても、
飲んでみたら
意外といける
人もいるわけだし」
「………………………」
いつもは
即座に
食ってかかるラグシードが、めずらしく
黙りこむ。
(お
酒の
体質ばっかりは、
鍛えてどうにかなる
問題じゃないものね……。ちょっと、かわいそ)
隣りにいる
青年を
横目でながめながら、リームは
胸中でこっそりつぶやいた。
「
普段は
自分があまり
飲まなくてもいいように、
他人にじゃんじゃん
飲ませて
酔わせるように
仕向けてるんだよ。それがおまえときたらウワバミみたいに
浴びるように
飲みやがって……!!
新種の
嫌がらせか?」
「『
俺、
酒弱いんだよね』とか
言って、
女の
子を
油断させて
宿に
連れこんでるような
男に
言われたくないわぁ……」
「してねぇよっ!!!っていうか、
使えるな。その
手……って、
本気で
殴るなよ!?」
「けっきょくあなたはお
酒に
対する
幻想があるのよ。
子供のころの
反動じゃない?ロジオン
君が『ラグは
弱いくせに
好きなんだよねぇ』って
笑ってたわよ」
「あいつの
入れ
知恵かぁ……。まったく
余計なこと
言いやがって……」
「なんとなくだけど、ロジオン
君って
強そうよね、お
酒」
何気なくふった
話題だったのだが、ラグシードはため
息をつくと
遠い
目をして
言った。
「あいつのは
強いっていうより、もはや
狂気だな……」
「なにそれ!?そんなに
強いの?」
自分以上の
酒豪にはめったに
遭遇しないリームは、やや
興奮したように
瞳を
輝かせてつめ
寄った。
「いや、そういう
意味じゃなくてだな。
一定量飲むぶんにはなんの
問題もないんだが、
限度を
超えると
人格が
変わっちまうんだよ」
「へえ……。なんだか
意外。
彼って
見かけによらず
酒癖わるいの?」
「まあ、いつもってわけじゃないぜ。ただ
悪いほうに
転ぶと
手に
負えなくてさ……」
ラグシードはため
息まじりに
告げた。
「いつだったか
喧嘩ふっかけられて、
酒場を
破壊したときもあったな。
魔法が
暴走して
大変なことになったわけ。
幸い
被害はけが
人程度ですんだけどさ」
「けが
人は
出たのね……」
「まあな」
神妙な
顔でしみじみとつぶやくリームに、
心中複雑なようすでラグシードはうなずいた。
「でもいるわよねぇ、そういう
人。たいてい
普段はおとなしくて
感情殺してるような
人に
多いわよね。
平素たまってる
不満がお
酒の
力を
借りて
爆発するのよ」
「……くわしいんだな」
「
昔、しつこく
言い
寄ってきた
男にいたわ。そういう
性質のわるいのが」
「ふーん」
「ちなみにさっきの『
俺、
酒弱いんだよね』も、
昔つきまとってきた
男の
台詞よ」
「……おまえってつくづく
男運ないんだな。
通りで
幸せそうに
見えないわけだ……」
「……ほっといてよッ!!」
憐れみをこめたまなざしで
隣りに
座る
美女を
見つめると、
乾杯とばかりにラグシードは
空のグラスを
傾けたのだった。