ところ
変わって、ここは
最果ての
地──
初夏の
陽射しのなか、
紺碧の
空を
背景にしたがえて、
優麗な
山脈が
連なっている。
山に
抱かれた
辺境の
小国、デルスブルク。
尾根のふもとには
高山植物が
咲き
誇り、なだらかな
稜線を
描いている。
窓辺に
座ってその
雄大な
景観を
眺めながら、ムスタインは
湧きあがる
苛立ちを、
豪華な
食事でまぎらわしていた。
領主の
令嬢でもあるレクシーナの
部屋には、すでに
三度目の
来訪となっていた。
ところが
肝心の
当主が、
旅先で
病に
臥せったとかで、いまだ
城に
戻らず……。
『三日月の曲刀』の
行方どころか、
手がかりも
知れないままだった。
前回に
引き
続き
今回までも、まったく
実入りがないのではたまったものではない。
「
父がこんなことになってしまって、すみません……」
消え
入るような
声でそう
詫びると、
黒い
服の
少女はそのまま
気まずそうにうつむいた。
「…………………」
謝罪されて
青年は
無言のまま、
皿の
上のケーキにフォークを
突き
立てた。
びくっと
怯えたように
少女の
肩がふるえる。
本能的に
怒鳴られるのかと
思い、
一瞬身をすくませたレクシーナだったが……。
「たまにはあんたも
食べれば?
俺ばっかり
食べてんのも
居心地わるいんだけど」
口の
中に
生クリームを
放りこんでから、そっけない
口調でムスタインが
告げる。
彼はもっぱら
食事にご
執心で、
皿に
美しく
盛りつけられたスイーツに
見惚れていて、
少女のほうなどろくに
見てもいない。
「……ごめんなさい。まだお
腹がすいてなくて……」
「──あっそ」
会話はそこで
完全に
途絶えてしまった。
あいかわらずムスタインは
甘い
物に
夢中で、おそらくレクシーナのことなど
眼中になく、
背景かなにかのように
思っているのだろう。
気まずさにたえられず、
少女が
席を
立って
離れようとすると、
青年はそれが
気にくわなかったのか──
その
行動を
視界の
隅で
捕らえて、フォークの
切っ
先をレクシーナに
突きつけた。
「
給仕人みたいにつっ
立ってられるのも、なんだか
食ってて
落ち
着かないし」
ムスタインはふて
腐れたようすで、
彼女にむかって
容赦ない
横やりを
入れた。
「……ごめんなさい。あの、わたし
落ち
着きがなかったみたいで……」
自分なりに
一生懸命そう
告げると、
恥ずかしそうにレクシーナは
席にもどった。
彼女はそわそわしたようすで、ムスタインのほうを
見ることもできずにうつむいている。
テーブルを
境に
向かいあって
座っている
二人は、
傍から
見るとどのように
映るのだろう。
──
友人?
──それとも
恋人──?
いずれにしても、
不協和音を
奏でそうな
組みあわせに
感じられるだろう。
どのような
関係にしろ、あまりにも
対照的な
性格の
二人だからだ。
本来、この
部屋の
主であるはずの
少女が、すっかり
委縮してチェアにちぢこまって
座っている。
それに
対して、
来客でしかない
黒装束の
青年が、
横柄な
態度で
行儀も
悪くチェアにふんぞり
返っている。
この
空間での
優位関係が、
完全に
逆転しているかのようだ。
人見知りなレクシーナの
対応を
目の
当たりにして、ムスタインはため
息をつきたくなった。
自分は
引きこもり
女の
慰問に
来ているわけじゃないんだと、
彼は
胸中で
苦虫を
噛みつぶした。
テーブルに
乗せられたごちそうは、
前回よりもあきらかにグレードが
上がっている。
目を
喜ばせる
煌びやかな
高級菓子、
上品な
口ざわりの
溶けるような
厳選されたスイーツばかりだ。
白い
陶器のティーポットからは、かぐわしい
高貴な
香りが
湯気とともにふんわり
漂ってきた。
まるで
胃袋を
抑えられたような
気分に
陥り、
彼はとたんに
不愉快になった。
(……この
女、
餌付けでもしてる
気になってるんじゃないだろうな?)
あまつさえこの
部屋に『
高級スイーツ』
目当てに
訪れているわけじゃないと、そう
弁明しながらなにげなく
書架を
眺めていると……。
ふと
一冊の
本の
背表紙が、ムスタインの
目に
留まった。
(まさか……こんな
本に、こんなところでお
目にかかれるとはね……)
いい
暇つぶしが
見つかったと、ムスタインは
内心ほくそ
笑んだ。
それは
都の
女たちのあいだで
流行っている
恋愛小説だったが……。
なんのことはない。
淑女ぶった
装丁の
中身は
低俗な
官能小説だった。
(おっとなしい
顔して
耳年増ってやつか。まだ
未成熟な
身体してやがるくせに、ほんっと
生意気だな……)
入浴中に
放鳥する
習慣があるのか、レクシーナの
裸体はすでに
監視のときに
目にしていた。
使い
魔の
瞳を
通して、
湯気に
煙った
少女の
輪郭がぼんやりと
浮かびあがる。
日光にあたらない
素肌は
驚嘆するほど
白くなめらかで、
雪のように
触れたら
溶けそうなほど、
淡く
儚い
印象をあたえた。
肩まで
伸ばしたシルバーブロンドの
艶やかな
髪から、
幾筋ものしずくが
滴っている。
流れ
落ちてゆく
水滴を
弾く、まだ
男に
触れられたことのないみずみずしい
柔肌。
いつもの
黒いドレスとのコントラストも
相まって、
少女の
魅力を
引き
立ててはいたが。
同時にその
曲線は、
成熟した
色香とはほど
遠いと、
手厳しい
評価を
下してもいた。
ともかく
好きでもない
小娘の
監視など、それくらいの
役得がなければ
正直やっていられない。
傍らで
不安そうにうつむいているレクシーナを
一瞥すると、ムスタインは
思案するような
仕草でおもむろに
立ちあがった。
(たまには
初心な
仔羊をからかって
遊ぶのも、また
一興ってやつか……)
青年は
口の
端をかすかに
歪めてわらうと、ためらうことなくその
本を
書架から
抜き
取った。
「──っ!!」
それは
少女にとって、
想像もしていなかった
動作だったのだろう。
よりにもよって、
一番人目に
触れてほしくない
本を
探りあてられたのだ。
声にならないながらも
悲鳴のような
心の
叫びが、
激しい
動揺が
手に
取るようにつたわってきて、その
狼狽ぶりはムスタインを
心底から
満足させた。
「……
返してください……」
いまにも
消え
入りそうな
声でささやくと、レクシーナは
赤面したまま
視線を
落とした。
おどおどと
落ち
着きのないようすが、
彼の
嗜虐心をいっそう
刺激した。
「
暇つぶしに
読みたいんだ。だからこの
本貸してくれよ……?」
久しぶりに
獲物を
見つけた
肉食獣のような
瞳が、ぎらついた
獣の
視線が、
残酷なまでに
少女の
伏し
目がちな
瞳に
突き
刺さる。
「──そ、それは
困ります……」
「──どうして?」
優越に
満ちた
笑みを
口許にたたえながら、ムスタインは
強引に
少女に
迫った。
「と、とにかく、
駄目なんです……ごめんなさい……」
「そんなんじゃ、
貸さない
理由にはならないぜ?」
必死の
抵抗でムスタインから
本を
奪い
返そうとするも、
指先は
虚しく
宙をかすめた。
レクシーナはあっさりと
返り
討ちにあい、
腕一本で
両手を
塞がれてしまった。
「
最もこんないやらしい
本、
片時も
離さず
持っていたいって
言うのなら、そっちのほうがよっぽど
大問題だと
俺は
思うんだけどさ」
完膚なきまでに
無慈悲な
声が、まるで
悪夢のように
彼女に
降りかかる。
耳をうたがうようなその
発言に、レクシーナは
愕然とした。
(この
人──。はじめからこの
本のことわかってたんだ!わかっててわたしを、わたしを──)
瞬時にかぁっと
頭に
血がのぼってきた。
とうに
見透かしていたうえで、このような
辱めを
彼女に
与えたのだ──
(……イヤ……もうイヤ!
消えてしまいたい……!)
しかしその
感情はもはや
怒りを
通りこして、いたたまれないほどの
恥ずかしさに
変わっていた。
なにしろその
本というのが、
愛しあう
男女の
恋物語ならまだしも、おちぶれた
令嬢の
背徳的な
愛を
描いた
官能小説だったからである。
大衆に、
特に
女性に
人気ということで、
好奇心から
手に
取ってしまったとはいえ、
内容は
周知の
事実である。
来客などないものと
油断して、
扉の
奥に
隠しておかなかったことを、
彼女は
激しく
後悔していた。
(……わたしは
今、この
人にどう
思われているんだろう……!)
そう
思うと、
羞恥のあまり
気が
遠くなりそうだった。
相手の
表情をうかがうのがこわくて、
顔をあげることもできずに
小刻みに
震えていると、
耳元にそっと
息がかかった。
「こうゆう
本を
好き
好んで
読んでるお
嬢サンには、ちょっとお
仕置きしてやらないといけないな……」
耳朶に
直接ささやかれた
脅し
文句に、
恐怖でからだがこわばる。
全身の
血の
気が
引いたようになり、
背筋をゆっくりと
冷たい
汗がつたってゆく。
おびえきった
少女にむかって、
無力さを
思い
知れとばかりにつかんだ
腕に
力が
込められた。
華奢な
細腕がねじり
上げられ、
苦痛で
思わず
悲鳴があがりそうになる。
「──くぅっ!」
そのまま
寝台に
押し
倒されて、レクシーナはかすかなうめき
声を
漏らした。
青年は
少女の
上に
馬乗りになると、
品定めするような
容赦のない
視線で
彼女を
見下ろした。