鉄の
支柱に
吊り
下がった
瀟洒な
看板が、おだやかな
風に
揺られてはためいていた。
パン
生地の
焼ける
匂いが、
窓辺から
街路にまで
漂ってきて、
期待で
胸はふくらんだ。
香ばしく
芳醇な
味が、
口の
中で
広がるのを
想像するだけで……。
彼女はたちまち
幸せな
気持ちにつつまれる。
(このあいだは
売り
切れちゃって、
食べそこねたのよね。
今日こそ
絶対にゲットするんだから!)
アトゥーアンの
界隈は、さわやかな
晴天に
恵まれていた。
リ―ムははやる
気分を
抑え、こぶしを
胸の
前で
固めると
気合いを
入れた。
だが、その
瞬間──!
脳天に
響きわたるようにして、やや
不吉な
感覚が
彼女を
襲った。
(……まさか、またすれちがうなんてこと、ないわよね……?)
いやな
予感が
忍び
寄る。
いつからかこの
場所で、
開店を
待ちわびながら
並んでいると……。
彼女は
決まって、『あいつ』のことを
思い
出すようになってしまった。
(あいつ……!)
思い
出すだけで、
胸がむかむかする。
まるで
宿敵のことを
目蓋にうかべるかのように、リームは
額の
中央にたて
皺を
刻んだ。
彼は
彼女が
今まで
出逢ったなかでも、
指折りの
質の
悪い
男である。
ときに
天然ともいえる
言動で、
彼女をふりまわし、
疲労させ……
かと
思えば
甘くささやきながらも、
失望させたりしたあげく、なお
憎めないところのある
彼は……。
目下のところ、
敵なのか
味方なのかわからなかった。
用心深くフードを
目深にかぶりなおす。
エルフの
特徴ある
耳を
隠し、
行列の
中に
溶けこみながら
彼女は
思った。
(……なんだか
癪ね。よりによって、なんであんな
奴のこと……)
おそらくこれまでこの
場所で、
二度もすれちがっているせいだろう。
決まって
女連れのその
男は、こちらが
気づかないふりをしているのをいいことに……。
見せつけるかのごとく、
毎度のように
女と
密着しながら、
仲睦まじそうに
通りすぎてゆく。
そんないけ
好かない
態度の
青年に
向かって、すれちがうたびに
彼女は
内心、
青筋を
立てながら
罵倒していた。
(はいはい。あなたがおモテになるのは、よぉ~くわかりました!だから、どうしたっていうの?)
だいたい、ただの
偶然で(
二度も!)
同じ
場所ですれちがうものだろうか。
リームは
訝しんだ。
相手はこちらが
店の
常連であることを
知っていて、わざと
開店の
時間帯に、
女を
同行して
通りすぎているのではなかろうか……。
そんな
考えが
過ぎった。
だとすると、まさしく
当てつけ。
自分のものにならない
相手に
対する、
遠まわしの
嫉妬心ともいえた。
(……
嫉妬心?そんな
可愛い
感情かしら……って、いけない!こんなこと
考えてること
自体、あいつの
思う
壺だわ……)
彼女は
打ち
消すようにして、
頭を
横に
何度もふった。
たいくつな
時間をもてあましていると、ついついくだらない
詮索などしてしまいそうになる。
とはいえ、
二度あることは
三度ある……。という
格言もあるではないか。
不吉な
予感が、ゆっくりと
頭の
中を
去来した。
(
別にあいつが
誰と
一緒に
通りすぎようが、どうだっていいじゃない!)
リームが
胸のざわつきを
静めようとした、その
矢先──
あいつは
広場からつながる
小路の
角を
曲がって
姿をあらわした。
人混みの
喧騒の
中でもひときわ
目立つ。
それは
憎らしいほどに──
彼が
目を
惹くのは、
長身に
恵まれた
精悍なその
容貌だけでなく。
風来坊とでもいうのだろうか。
世界のどこにも
定住せずに、それこそ
風の
吹くまま
自由にさすらう。
流浪の
旅人に
特有の
色香を
放つせいなのだが、なんだかそのことが
妙に
腹立たしかった。
冷静に
見ても
異性として、
奇妙な
魅力があるということを
認めないわけにはいかなかったからだ。
そしてそのことを
証明するかのごとく、
彼の
腕には
女が
一人ぶら
下がっていた。
(いつも
通りお
盛んね……)
げんなりした
彼女の
顔から、たちまち
表情が
失せてゆく。
あいつが
近づいてきた。
とっさに
顔を
背けて、
他人のふりをしようとしたが
不発に
終わった。
よりにもよって
彼は、リームに
話しかけてきたのだ。
──
女連れだというのに!
「お!リームじゃん。こんな
長い
列に
並ぶなんて、よっぽどヒマしてるんだな」
出逢ってそうそうに
笑顔をうかべながら、この
皮肉のきいた
台詞まわしである。
(──どうゆう
神経してるのよッ!!まったく……!)
なんとか
顔が
引きつるのを
抑えながら、
彼女もまた
笑顔をうかべた。
「あら、ラグシードじゃない。そっちはデートなの?
楽しそうで、うらやましいわ」
リームのほうは
完全に
愛想笑いである。
占いは
接客業なので
必須スキルとはいえ、
最近板についたように
作り
笑いに
磨きがかかってきて、
自分でもなんだかこわかった。
お
互いに
水面下で
火花が
散った。
なにか
二人のあいだで、ざわざわと
感情がうごめくのを
感じた。
(
涼しい
顔で
笑いやがって……。
手強いな。
三回通りすがってもこの
反応か……。ちっとは
拗ねるとか、もっと
可愛らしい
反応しろよな)
ラグシードは
内心そんなことをぼやきながらも、
横にいる
娘に
向かって
微笑んだ。
「
俺たちも
並んでみる?ここのパン、
評判いいみたいだけど」
うん!と
女が
元気よくうなずく。あっけらかんとした
娘で、リームのことは
気にしていないようだった。
通りすぎるはずの
二人が、あろうことか
列の
最後尾にならんだ。
(……こうなったら、
徹底的に
見せつけてやろうじゃねぇか……)
ラグシードの
胸中では、いつになってもつれないエルフの
娘への、やや
歪んだ
愛憎が
渦巻いていた。
(──
信じられない!
信じられない!──
毎度毎度、なんて
無神経なヤツ!!ほんとにあいつどうかしてるわ!!)
リームはといえば
頭の
中は、
沸騰寸前まで
煮えくりかえっていた。
せっかくこちらが、うまく
場をやり
過ごそうとしたというのに。まったく
台無しではないか。
もうすぐ
開店だ。こじんまりとした
小さな
店内で、あの
二人と
一緒の
空気を
吸うのはイヤだなとリームは
思った。
パンのことは
悔やまれるが、
行列からはずれて
立ち
去ってしまおうか──
この
場から
逃げ
出すようで、なんだか
屈辱的だけれど。
(……でも、なにかが……
調子狂うのよね)
彼女は
占い
師らしく
感じるところがあるのか、
不透明な
先行きにやや
心配そうに
眉をくもらせた。
さりげなく
半身になって、
後列にならぶ
二人のようすを
横目でうかがう。
青年はうわべこそ
愛想よくとり
繕ってはいたが、いつもより
表情はとぼしく
生気がなかった。
(……
死んだような
目しちゃって。
一緒にいる
娘に
失礼だと
思わないのかしら?)
思わずリームは、いらぬ
心配までしてしまった。
彼のとなりで
無邪気に
笑っている
娘は、おそらくそんな
青年の
翳りには、
気づきもしていないだろうが。
しかし、このところラグシードはなにかがおかしい。
やや
情緒不安定……というのは
大げさだが、なにか
本来の
彼らしくない。
ある
違和感のようなものを、
時折リームは
感じはじめていた。
精彩に
欠けるというか、
覇気が
感じられないというか……。
彼のとりえともいえる
朗らかな
陽気さが、
日常的にどこか
影を
潜めている。
(ラグシードがなにか
以前とは
変わったっていうのは、
私も
憶測でしかないんだけどね……)
おそらく
主人であるロジオンや、
居候先の
令嬢であるアナベルですら
気づいていないだろう。
もっとも
二人は
今が、
人生最良の
時──!
お
互いに
恋人に
夢中で、
神出鬼没な
護衛のことなど、
視界にすら
入っていないのかもしれない。
恋に
盲目な
時期なので、それもいたしかたない。
幸せそうな
二人の
姿を
見るだけで、こちらも
微笑ましい
気持ちにさせられる。
なんだか
幸せのおすそ
分けをもらったようで、リームは
今の
二人に、ラグシードのことでとやかく
言いたくはなかった。
だから、
彼が
不調そうなときは、
自分が
気にかけてやればいいのだ。
日頃からリームはそう、
頭の
片隅で
考えていた。
(また
体調でも
崩してるのかしら……?『
黒い
蛇』との
闘いで
負った
傷。まだ
完全に
癒えたわけでもないでしょうし。
後遺症もないとはいえない。だとしたら
彼のことが、すごく
心配だけど……)
リームはちらりとラグシードのほうに
視線を
走らせた。
女と
親し
気に
話しているようすが
目に
飛びこんできて、
彼女は
小さなため
息をもらした。
(べつに、ほっといてもいいか……。なんか
私の
出る
幕なんてなさそうだし)
らしくもなく、リームは
少しだけいじけた。
(どうせ
誰かに
慰めてもらってるんでしょ?
私なんかいなくたって、あいつはきっと
平気……)
自然に
肩を
落としてうつむくと、
履いている
靴のつま
先を
見つめた。
このところ
歩きづめで、
革が
極端にすり
減っていた。
(お
気に
入りのパンも、あいつも、なんだかどうでもよくなってきちゃった……)
目の
前がぼやけてにじむ。
リームはそっと
列から
抜けだした。
ラグシードがそれに
気づいて「あっ」というような
顔をしたが、そのまま
動けず
二の
足を
踏んだ。
誰しも
誰かに、
優しさをもとめている。
優しい
声をかけてもらいたくて──
互いに
駆け
引きばかりくり
返し、そのあげく
心底くたびれ
果ててしまう。
しまいには
気づいたときには、たぶんもうおそいのだ。
二人が
待ち
望んでいるものは、おそらく
同じなのに。
素直になれないばかりに、ただ
指をくわえて
眺めているしかできない。
そして
今日もまた、
繋がることもできずに、すれちがう……。
(ラグシードのばか……!きらい、あんな
浮気性な
男、
大っきらいだわ……)
ろくに
前も
見ずに
列から
飛び
出したせいで、リームは
雑踏のなかで
誰かの
肩にぶつかった。
その
弾みで
被っていたフードが、はらりと
華が
開くように
背中まで
滑り
落ちた。
「すみません……」
彼女は
小さくわびて、
早くこの
場所から
立ち
去ろうとした。
「──リームさん!?」
名指しでそう
呼びとめられて、
聞きなれない
声にとまどう。
「やっぱりリームさんだ……!まさか、また
逢えるなんて。こんな
偶然あるものなんだな……!」
相手の
男は
感激したように
声をつまらせた。
一瞬、
誰なのかもわからなかった。
清潔感ある
身なりをした、いかにも
育ちのよさそうな
青年が
立っていた。
いつのことだったか、
貿易商が
主催した
豪華な
船上パーティーで、
富裕層を
相手に
占いを
披露した。
そのときの
顧客だと
彼女が
思い
出したのは、それからしばらくしてからのことだった。
番外編8へつづく