どくどくどくどく
血が
流れてゆく。
真っ
白な
床に
緋色の
絨毯をさっと
敷いたように、
一瞬にして
鮮血の
赤で
染めあげて……。
昔から
流血の
記憶には
事欠かない。
そう
思って
彼は、
皮肉な
笑みをこぼした。
こうして
瀕死の
状態に
幾度も
陥りながらも、いつも
崖っぷちで
生きのびてきた。
(……だけど、このままじゃあ
確実に
死ぬな……)
夢とうつつの
間を
彷徨いながら、
少年はなかば
放心したように、
自身の
限界を
感じていた。
たとえ
治癒呪文が
唱えられなくても、
自らの
魔法円で
幾多の
危機を
退けてきた。
そうして
無意識のうちに、
己のなかに
構築していた
過信と
慢心。
その
奢りがたたって、ついには
自身を
喰らいつくそうとしている。
自分の
生命に
対して
捨て
鉢になってから、もうどれくらいの
時が
流れたのだろう。
『
黒い
蛇』との
死闘で
酷使しつづけた
肉体は、とうに
悲鳴をあげていた。
持参した
霊草のみで、
奇跡的にしのいでいたが、それももう
底をついてしまった。
これまでは
戦闘で
負傷すると、
相棒であるラグシードの
治癒呪文に
頼っていた。
その
彼とも『
屍の
怨霊グロリオーザ』の
司教と
戦いの
最中、
別れたきり
合流を
果たしていない。
放浪癖があり、
女癖の
悪い
彼の
相棒は、
剣士としての
腕は
立つが、
行く
先々で
無用なトラブルを
引き
起こしては、
彼を
悩ませてきた。
だが、
多大な
迷惑を
被ることと
同時に、
気の
置けない
仲間として、
彼が
与えてくれた
数々のもの。
普段は、
口に
出して
感謝するいわれこそないが、それは
孤独な
彼にとって
大切な
心の
拠り
所でもあった。
同郷の
出身でもある
聖職者の
血を
引く
放蕩息子を、
護衛として
雇ってからすでに、
二年の
歳月が
経過しようとしていた。
そんなかけがえのない
仲間の
生死すら
知らずに、
自分は
死んでゆくのか……。
人生とは
所詮そんなものなのかもしれない。
だが、
身のほど
知らずだと
自覚しつつも、つい
恨みがましい
思いが
胸のなかを
去来する。
(どうしてフォルトナは
『治癒の魔法円』を
子孫に
残さなかったのだろう……?)
自分の
出生を
知り、
魔法の
修練を
積めば
積むほど、
頭を
離れなかった
疑問。
なぜフォルトナ
一族は、
治癒の
力を
持たないのか。
フォルトナの
末裔は
神の
血脈を
引き
継いだ
古の
魔法の
民である。
個々の
能力差はあれど
並の
魔法使いはもとより、
精霊魔法を
操るエルフたちにすら
引けをとらないといわれている。
にも
関わらず、なぜか
治癒の
魔法円だけが
先祖代々伝承されておらず。
その
理由は『フォーチュン・タブレット』の
写本においても
明かされていない。
それは
特定の
選ばれし
人間が、
力を
持ちすぎることに
対する
神の
警鐘だろうか。
それとも
他になにか、
秘められし
真実があってのことなのだろうか。
フォルトナの
末裔としてこの
世に
生を
受けても、
未だ
解明されない
真相を
知ることもなく、もはやなんの
使命すらまっとうできずに
寿命がつきようとしている。
これでは
神の
冒涜だと、
少年は
思う。
せめて
死をむかえるときは
敬虔な
殉教者のように、フォルトナの
血に
恥じないよう
潔く
死にたいと
彼は
思っていた。
そのとき、
悲壮な
決意をゆるがすような、
甘い
香りがふんわりと
空中に
香った。
思わず
郷愁にかられるような
懐かしい
匂い。
ひどく
落ち
着かない
気持ちになって、
彼の
心は
瞬く
間にかき
乱された。
それは
薄紫色の
小さな
蝶がつどった
可憐な
乙女の
花。
フォルトナの
隠れ
里に
咲くという
群胡蝶の
香り。
そのすがすがしい
香りが
連想させるのは、
彼がただ
一度だけ
守護の
誓いを
立てた
少女。
『エレプシアの
乙女』……アナベル……!
彼女の
幻影がまるで、
目の
前にいるかのように
鮮明によみがえってきた。
走るとやわらかな
栗色の
髪が
風に
舞って、その
姿に
人知れず
見惚れた
午後。
妖精のような
紫水晶の
瞳を
太陽にさらして、
少女はフォルトナの
伝承に
耳を
傾けていた。
限りない
生命の
輝きに
満ちた
花々の
饗宴。
二人で
眺めたあの
花畑の
情景を、
少年はまぶたに
思い
浮かべていた。
(そうだ。
僕はここに
来る
前、
君のいる
場所に
向かっていた。それなのにどうして……)
めぐり
逢えなかったのだろう。
死ぬ
前にせめて
一目だけでも……
逢いたかった。
ただひたすらに
彼女を
抱きしめたかった。
ほかにはなにもいらない。
彼女のほかには……なにも。
(……それが
僕のたったひとつの
望み……ささやかな
生きる
希望……!)
永遠に
閉ざされた
暗闇にもやがて
光が
射すように、あたたかな
白い
光が
彼を
包みこんだ。
(……アナベル……。
僕は
君になにかしてあげられたかい……?)
少年は
覚悟を
決めて
瞳を
閉じると、
愛しい
少女の
姿を
想い
描いた。
「……
愛してる……
君を……」
☆
長いような
短い
眠りから
覚めたあと、なぜか
修羅場が
待っていた。
アトゥーアンの
地下都市。
その
最深部にある
大聖堂の
中央を、
一直線に
伸びている
身廊。
その
床に
横たわっている
少年をはさんで、
心配そうに
息をつめて、
二人の
少女が
彼を
見守っている。
そんな
最中、
少年は
意識をとり
戻したのだが……。
まだ
覚醒しきっていない
茫洋とした
思考のなかで、
彼はあろうことか
夢うつつに
愛の
言葉をささやいていた。
そうして
無意識のうちに
利き
手が
動き、
寄り
添っていた
片方の
少女の
手をしっかりと
握りしめていた。
「……あの……これは……
冗談ですよ、ね?」
困惑を
隠し
切れないようすで、
声の
主が
同意を
求めた
相手は、
硬直したように
深くうつむいたまま
無反応で、その
表情をうかがい
知ることはできない。
「ぐるるるるぅ……」
それまで
部屋の
隅でうずくまっていた
白金の
使い
魔が、
低く
鳴いてその
場に
身を
起こした。
瀕死の
淵から
生還を
果たした
主のようすを
見て、
安心したのかセルフィンは
合成獣化を
解いた。
そして、
大鷲の
姿に
戻ると
天井の
裂け
目から、
翼を
大きく
広げて
空へ
飛び
去っていった。
おそらく
長時間の
空腹を
満たすために、
颯爽と
獲物を
狩りにいったのだろう。
そのころ
白く
霞んでいた
少年の
視界が、ようやく
正確さをとり
戻しつつあった。
(……
生きてる……。
僕はまた
命をとりとめたんだな……)
虚ろな
瞳を
見開き、
天井を
見上げ……
彼は
自分が
生きていることを
実感した。
「……
意識がもどられましたか……?」
「……こ、ここは……?」
「アトゥーアンの
地下大聖堂です」
「……そっか……。セルフィンが
送り
届けてくれたんだね……」
ひとまず
目的地にたどり
着いていた
奇跡にほっと
安堵する。
やがて、こちらを
気遣うような
涼やかな
声に
惹かれて、
少年は
反射的にその
声の
主を
目で
追っていた。
修道服が
引き
立つ
清楚な
顔立ちの
少女が、どこかぎこちない
表情を
浮かべながら、きめ
細やかな
白い
手をさしのべている。
「……グランシア……。よかった、
元に
戻れたんだね……」
ロジオンは
心の
底から
喜びを
表現すると、
彼女に
向かって
親しげにそう
呼びかけた。
「はい……、その、おかげさまで……。それよりそろそろ
手を
離してくださいませんか?」
「……え?……わっ!その、ごめん……」
彼は
火傷したかのように
瞬間的に
手を
離すと、
乱れた
呼吸を
鎮めようとして
深く
息を
吸った。
無意識だったとはいえ
女性を
相手に、
自分はなにをしでかしていたのだろう……。
そう
思うとわずかに
不安がよぎるが、それ
以上に
気掛かりなことが
胸を
占めつつあった。
(……
確かに、この
場所で
別れたはずなんだ……)
見慣れた
顔の
少女がこの
場にいないことに
気づいて、
少年はにわかに
焦りを
覚えはじめていた。
「それよりグランシア。……ここに、アナベルっていう
子がいたと
思うんだけど、
見なかった?」
その
問いかけを
受けて、グランシアはなぜか
気まずそうに
声のトーンを
落とした。
「あの、アナベルさんなら、さっきここを
出ていかれました……」
「──どうして!?」
「
引き
止めればよかったんですけど、
私も
気が
動転していて……。ひどく
勘違いされたご
様子で
飛び
出していかれましたから、
早く
追いかけたほうがいいと
思います……!」
「……
僕、うわごとで
何か
変なことを
口走ってたのかな……」
無意識のうちに
唇に
手をあてて、ロジオンが
思案するような
仕草をしていると、
「まさか
覚えてないんですか!?」
悲鳴のようなグランシアの
声があがり、びくっと
心臓が
一瞬にして
跳ね
上がる。
しかし、
楔を
打つような
決定的なとどめの
一言はその
次にやってきた。
「あなたが
私の
手を
握って、
『……愛してる……君を……』って、ささやいたんです」