彼は
逃げ
回っていた。
広大な
屋敷のなかを──
いくつもの
部屋を
出たり
入ったりしながら、
死に
物狂いで
廊下を
駆け
抜け、
時には
窓から
中庭に
飛び
出したりもした。
居候の
身でありながら、あまり
作法がいいとはいえない
非常識な
行動の
数々は、
彼の
貴族としての
自尊心をやや
傷つけてはいた。
だが、もはやそんなことにかまっている
余裕はなかった。
彼が
戦々恐々としているのも
無理はない。
頭痛、めまい、
耳鳴り、
嘔吐、
激しい
腹痛、そして
止まらない
下痢……
加えるなら
過度の
緊張からくる
精神的なストレス。
これらの
厄介な
症状をひきおこす、まさに
悪夢の
引き
金ともいうべきある
物。
「それ」をたずさえてその
人物は、どこまでもどこまでも
追ってくる。
もう
館の
敷地から
抜け
出して、
市街地まで
逃亡するよりないのかもしれない。
しかし、これしきのことでそこまですると、
著しく
信用をうしなってしまう
怖れがある。
(……
嫌いになっちゃうかな……?
僕のこと……。っていうか、すでにそうなりつつある。でも、
僕にだって、どうがんばっても
苦手なものはあるし、こればっかりはゆずれないんだ……)
息せききって
逃げながらも、ロジオンは
頭の
片隅で
彼女のことを
思い、やりきれない
心境でため
息をついた。
☆
☆★☆ 「それ」の
作り
方 ☆★☆
大量の
砂糖とバターが
練りこまれた
生地を、
動物や
植物などの
型でくりぬき、オーブンで
焦がさない
程度に
焼き
上げる。
ご
丁寧なことに
彼女の
作る「それ」には、あの
甘ったるい
白い
粉がふんだんに
振りかけてある。
さらにひどい
場合は
七色の
可愛らしい、これまた
甘いトッピングなるものが
盛られていることまである。
そんなモノを
口に
放りこんで
咀嚼し、
味わいたくないのに
味わい……
きちんと
飲み
下してあまつさえ「
美味しい」と
口に
出して
微笑まなければならない。
一枚ですむのならばともかく、あの
過剰に
装飾がほどこされた
包みを
開いたら
最後、おそらく
残すことはゆるされない……。
(……
拷問だ……。あんなものをありがたがって
食べる
人の
気がしれない……)
中庭の
柱の
陰にもたれてひと
休みしながら、
激しく
肩を
上下し、みだれた
呼吸を
整える。
生垣に
隠れているから、ここなら
見つかりにくいかもしれない。
なんとか
巻いたようだ。
しかし、いつまでもつか──
安堵のあまり
虚脱して、
青々とした
芝生にへたりこむ。
(
前は
日暮れまで
逃げ
続けたらなんとか
諦めてくれたけど、
今日はまだ
日が
高いからこれからが
正念場だなぁ)
『
汝らは
忍耐力と
耐久力をつけるべし!』
ふと
兵士の
詰め
所に
掲げられた、お
堅いスローガンがうかんだ。
それはまさに
今求められている
能力 だ。そしてやや
今の
自分に
欠けている
能力でもある。
そのことを
痛烈に
反省し、そもそも
鍛えることが
不足している
現実に
負い
目を
感じながらも、
次はどこに
隠れようかと
思いをめぐらせていた。
その
矢先、
予測できなかった
方角から
声はかかった。
「──こんなところにおいででしたか!
探しましたぞ、ロジオン
様……」
中庭の
噴水をはさんで、
対角線上にある
茂みから
顔をのぞかせたのは、
屋敷に
仕える
老練な
執事ブライトンであった。
近くに
来るまでまったく
気配を
感じ
取れなかったのは、
疲れていたせいなのか、それともこれぞ
執事たる
者が
体得する、
独特の
隙のない
身のこなしのせいなのか……。
それはともかく。
「
至急自室に
来るようにと、アナベル
様からおおせつかっております。
部屋まで
付き
添って
同行するようにとのことですが……。お
嬢様となにか
揉め
事でも
起こされましたかな?」
そのように
言われてしまったら、もはや
逃げようがない。
大人しく
縄につながれた
家畜のように、
肩を
落として
執事の
背中をついてゆく。
しばらくして
部屋の
前まで
来ると、「それではご
武運を」と
会釈してブライトンが
風のように
去っていった。
(やれやれ……)
いつもは
華やいだ
雰囲気をまとう
白い
扉が、
地獄の
門のようにすら
感じられる。
気が
重かった。ひたすらに
気が
重かった。
だが、
開けねばなるまい。
息を
大きく
吸いこみ
覚悟を
決めて、
彼女の
部屋をノックする。
とたんになにか、
違和感を
感じた。
「ちょっと、どこに
行ってたのよ──」
扉が
開いて、
若干責めるような
言葉が
投げかけられた。
彼女が
部屋から
顔を
出す。だが、
思ったよりは
怒っていないようだった。
しかし
不安は
消えない。ぬぐいきれないその
違和感の
正体はなんだろう?
いつもとちがうなにか──
その
正体は
部屋に
招かれてわかった。
先客がいたのだ──
「──お
邪魔しています」
窓際のテーブルセットの
椅子に
腰かけたその
人物は、にこやかな
笑顔を
向けてこちらに
挨拶した。
蝶の
刺繍がほどこされた
総レースのテーブルには、
鳥のさえずりが
聞こえそうな
優雅なティーセットと
山盛りの
焼き
菓子が
鎮座していた。
かすかに
漂う
甘い
香りを
嗅いだだけで、
苦手意識からか
眉をしかめてしまう。
しかし
青年は
涼しい
顔で、
焼き
菓子で
埋めつくされた
大皿に
手を
伸ばした。
そうして
諸悪の
権化ともいうべき「それ」を、なんのためらいもなく
口にほうばると、
満面の
笑顔をこぼして
彼は
言った。
「──すごく
美味しいです!
香ばしくて
懐かしい
感じがして……。こういう
優しい
味はお
店ではなかなかお
目にかかれないんですよ。お
嬢様はお
菓子作りが
上手なんですね!」
「そ、そう?なんか
照れちゃうな……」
臆面のないほめ
言葉を
浴びせられて、さすがにアナベルは
気恥ずかしくなってうつむいた。
相手がいくらお
世辞を
言いなれているとわかっていても、かけてもらいたい
言葉をかけられるのはうれしいものだ。
それを
言ってほしい
人物から
言ってもらえない
状況ならば、なおさら
心に
響く。
「もっと
頂いてもいいですか?」
「
遠慮しないで
食べて!あんまり
食べてもらえないから、
余っちゃってて……」
「──こんなに
美味しいのに?あの、
良かったら
少しもらってもいいですか。
弟たちが
喜ぶと
思うので……。
年の
離れた
兄弟がいるんです」
「あたしなんかが
作ったので
良かったら、たくさん
持っていって!あ、そういえばお
菓子入れにちょうどいい
箱が
箪笥のなかに……」
「お
嬢様、どうかお
気遣いなく。ハンカチに
包みますから」
凍りついたように
固まったままのロジオンを
置き
去りにして、
親し
気な
二人の
会話が
終始目の
前でくり
広げられている。
「それはそうと、あなたが
屋敷に
呼び
出されるってことは、お
姉様がまた
無駄づかいしたんでしょ?あの
人ああ
見えて
浪費家だから……。
服飾代が
飛ぶようになくなっていくのよね」
「おかげでうちは
繁盛させてもらってますから、
心苦しいですけど……」
青年は
恐縮したように
肩をすくめてみせる。
ティーカップに
注がれたハーブティーを
喉に
流しこんでから、
彼は
受け
皿にカップをもどしかけて
手をとめた。
視線を
感じたのだ。
そして
壁際で
所在なくしている
少年に
気づいたのだろう。
青年はふっと
笑みをこぼした。
「──お
嬢様、
名残惜しいのですが、
配達の
途中なのでそろそろお
暇させていただきます」
「そう?まだ
余ってるから、もっと
食べてってくれればいいのに……。とはいえ
仕事中なのに、これ
以上ひきとめるわけにはいかないわね」
「
今度またご
馳走してください」
青年は
菓子の
包みを
大事そうに
鞄にしまうと、そう
爽やかに
言い
残して
部屋を
出て
行った。
☆
完全に
初対面ではあったが、あの
青年に
見覚えはあった。
もちろん
向こうはそんなこと、
露とも
知らないであろう。
一方的な
怨恨……いや、そんな
大層な
感情ではないが。むしろ
逆恨みにちかい。
ジェラールとかいう
名前の(たまにアナベルの
話題にのぼることがあるので
覚えた)
老舗洋品店の
店員だ。
マインスター
家の
御用達であることは
疑うべくもない。
かつてアナベルと
一緒に
買い
物しているところを
街で
見かけて、あろうことか
一夜をともにするほどの
関係だと
誤解したことがあるだけだ。
異様に
親し
気だったのが
気にかかったが、それだけだ。
たぶん、それだけ……
沈黙に
耐えられなくなって、ロジオンが
言った。
「……お
邪魔だったかな……?」
少年が
部屋に
来てから、
初めて
二人の
眼がまともに
合わさる。
傷ついたような
顔が、
二人同時にうかんだ。
どうしてアナベルが
傷ついているのかわからない。
こんなことをされて
傷つくのは
僕のほうだろ?そう
言いかけて、やめた。
「
見たでしょ?あなたが
食べてくれないクッキー、
美味しそうに
食べてくれる
人もいるのよ」
少女はどこか
勝ち
誇ったように
言う。
「……それは、
人の
好みはそれぞれだから……」
その
発言では、
自分は
好みじゃないと
遠まわしで
言っているようなものだ。
あきらかにギクシャクしたような
空気が
流れはじめた。
アナベルはくるりと
背を
向けると
部屋を
出て
行った。
正確には
続き
部屋になっている
部屋へ
移動したのだが、すぐになにかを
持って
引き
返してきた。
その
見慣れた
包みを
目にして、さすがにうんざりしたように
彼は
言った。
「
君はわかってるはずだよね?
僕が
甘い
物が
苦手だってことくらい……」
「
忘れるわけないでしょ!あたしの
手作りクッキーを
食べて、まっさきに
洗面所に
駆けこんだのはあなたくらいだもの……!」
失礼しちゃうわとばかりに、これまでこらえていた
気持ちをぶつけてくる。
その
光景がまざまざと
思い
起こされて、ロジオンはうっと
言葉につまった。
「わるかったと
思ってるよ……。でも、
気持ちわるくなるのはどうしようもならなくて……って、アナベル!?」
あろうことかアナベルの
瞳から、ぽろぽろと
涙がこぼれはじめた。
その
時になって、はじめて
彼は
気づいた。
アナベルはお
菓子作りが
好きだ。
心から
好きだ。
作っているところを
見かけたことがあるが、なによりも
楽しそうでイキイキとしていた。
自分がほんとうに
好きなことを
誰かに
認めてほしい。できたらそのことで
人にも
喜んでもらいたい……!
きっかけはそんな
想いからはじまったのだろう。
だからこそ、
彼女は
何度も
何度も、お
菓子を
作っては
彼に
食べさせようとした。
好きなことを
否定されるのは、
自分を
否定されるのと
似ている──
迷惑だとわかっていても、やめられず、それでもやっぱり
認めてほしかったのだ。
ところが
自分はその
好意を
鬱陶しく
思い、
遠ざけて
逃げまわっていたのだ。
いくら
甘い
物が
苦手とはいえ、
露骨にアナベルを
拒絶していたのだ──
彼女はただ
純粋に
自分を
認めてほしかっただけなのに……。
(もうすこし、
優しくするべきだったんだ。
食べるにしろ、
断るにしろ……)
ロジオンは
不器用すぎる
自分を
心から
反省した。
『
女あつかいが
下手なうちは
魔法も
思い
通りにはならない』
という、やや
信ぴょう
性に
欠ける
師匠の
教えも、
今ならば
素直に
耳を
傾けられると
彼は
思った。
「……
食べるよ……」
アナベルがはっとしたように
顔をあげた。
彼女の
手からそれを
受けとると、リボンをほどいて
包みを
開く。
いつもとはちがう
星のかたちをした
焼き
菓子が、
流れ
星のように
手のひらにこぼれ
落ちてきた。